最新の憑き人
大百足を倒して、島のさらに奥へと進む。
三つ目の社を越えて山を降り、海に削られた台地に到達すると、目の前の光景に足が止まった。
『──なんだ、こりゃ……』
一面に広がる水墨画。
台地に、壁面に躍る、五つの頭を持つ巨大な龍。
四つの頭に目が描かれ、今まさに筆鬼が最後の頭に目を入れようとしていた。
『来たか、怪人』
『予想よりも早かったが、一手遅かったな』
《──暁人!》
『ああ!』
咄嗟に宙に跳び、大きく息を吸い込む。
『──鬼火ッ!!』
一面に描かれた龍をも呑み込む、巨大な紫焔を口から放つ。
鬼にも蜘蛛にも似た形相の焔が口を開き、筆鬼もろとも喰らおうと迫る。
筆鬼は、動じなかった。
『言ったはずだ。“一手遅かった”と』
『──“画竜点睛”』
筆鬼が筆先を地面に乗せる。
紫焔が台地の全てを飲み込み、爆ぜる。
タイミングはほぼ同時。爆風で吹き飛ばされそうな身体を糸で地上に縫い止め、燃えていない場所に降り立ち膝をつく。
命を燃やす鬼火を連続で放つのは、流石にかなり堪えた。
『──やったか!?』
肩で大きく息をしながら、焔の方を見る。直後、自分で放った言葉にハッとした。
まずい、今のは──
考える間もなく、水気を帯びた真っ白な烈風が襲いかかる。
紫焔は一瞬でかき消され、羽織が圧縮された水と風に引き裂かれる。
『惜しかったな怪人』
『だが見ろ、我が五頭龍はこの通りだ!』
長大な五つの首が、鎌首をもたげる。
中央の頭に乗って高笑いする筆鬼が米粒ほどに見えるほどの黒い巨体が、台地を埋め尽くした。
『……紫蜘蛛、やれるか?』
《──やるしかない、でしょ?》
震える膝を抑えて、立ち上がる。
鬼火はもう使えない。次に使えば、本当に命に関わる。
羽織を縫い直し、身体の内側に糸を張り巡らせる。
目を閉じて深呼吸をしながら、彼女の意識と溶け合っていく。
瞼を開くと、瞳に紫色の焔が灯り、焔の角が一対額に現れる。
『──紫焔!』
叫びと共に身体の内から焔を噴き、燃える糸で宙を舞う。
五頭龍の放つ墨の弾を翻りながら躱し続け、拳を振り上げて筆鬼に迫る。
『──やっぱ、簡単にはいかないか!』
『──邪魔をするなら、その首を落とす!』
筆鬼から五頭龍に狙いを変え、糸で軌道を無理やり変更する。
一番左の頭の顎下に潜り込み、真下から紫焔を纏わせた蹴りを見舞う。
槍にも似た一撃は、龍の頭蓋を容易く貫いて再び宙に舞い上がった。
『──次!』
姿勢を立て直し、反対側の頭に糸を放つ。
二本の糸を龍の角に留め、反発を利用してスリングのように身体を飛ばそうとして──
『そう簡単に終わると思ったか』
五頭龍が大きく身体をくねらせ、海に向けて滑るように移動する。
『──まずい!』
『──行かせるか!!』
糸に走る焔の勢いを上げ、一気に頭の一つを燃え上がらせる。
右端の頭は瞬時に艶を失い、炭に変わった。
だが、龍の動きは止まらない。
このままでは海に引きずりこまれる。やむを得ず糸を切り離して地上に降りる。
逃げた龍の頭は残り三本。弱った様子はなかった。
『──どうする。海の中じゃ手が出せない』
一瞬、海月の顔が浮かんだが、紫蜘蛛の意識がその面影を押し流した。
“集中して”と、言われた気がした。
両腕に紫焔を灯して拳を構えるが、海に潜った五頭龍と筆鬼に動きはない。
曇天の中、静かにそよぐ潮風。小波の音。
さっきまでの戦いが嘘のような穏やかな海が、突然不気味に揺れた。
『──っ!来る!』
五頭龍を警戒して宙に跳ねる。
だが五頭龍は現れず、ただただ高い壁──波が立ち上がる。
五頭龍よりも高く、黒い荒波。どこまで逃げても追いつかれそうな巨大なそれは、眼下の台地の全てを呑もうとしていた。
『“冲浪裏”!!』
波の裏から筆鬼の声が響く。
美しさすら覚える墨の波が、頭上に落ちてくる。
『──鬼……ッ』
覚悟を決めて息を吸い込んだ矢先、身体の奥の奥で、何かが動いた。
俺じゃない。紫蜘蛛でもない。
──このドス黒い感覚は。
『──⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎──ッ!!!』
白い羽織が黒く染まり、赤雷が音を立てて激しく身体から散る。
紫焔と赤雷を纏った背中の蜘蛛脚と両腕を突き出し、荒波に突っ込んで引き裂くように広げる。
墨の荒波は、爆ぜるように中心に大穴を空けて消滅した。
『──気軽に燃やすな。俺はまだ生きてえんだよ』
吐き捨てるように小言を言うと、八重蜘蛛は再び内側へと潜っていった。
羽織の色が戻ると、身体も自由になった。
荒波の先にいた筆鬼と五頭龍に向けて、燃える糸を放つ。
今度は抵抗する間も与えず、ロケットのノズルのように蜘蛛脚を曲げて中心から紫焔を吹かす。
糸の張力と合わせて一気に加速し、筆鬼の頭に向けて拳を握る。
『──捉えたっ!』
筆鬼の顔へ振り抜いた拳が、見事に命中する。
だが、拳は手応えもなく沈んだ。
筆鬼の頭は水風船のように弾け、次に色彩を失った身体が破裂した。
『──しまっ──!?』
全身に墨を被ってしまった。視界から色が消えていく。身体が固まり、壁に押し込まれるような感覚が襲う。
──身体が、紙に変わっていく。
『焦ったか。怪人』
『先の焔と鎧蜘蛛で消耗したか。相棒と共に在りながら結果がこれとは、やはりお前は不出来だな』
ガサガサと紙を擦るようなノイズの走った筆鬼の声が、背後から聞こえる。
聞こえるだけで、振り向けない。身体は既に半分以上紙に変化していた。
『最期に我が魂の傑作を鑑賞できたこと、光栄に思え』
『──さらばだ、怪人』
視界が白に染まり、紙が裂かれるような音が耳を通じて脳を支配する。
耳元まで音が迫り──
音が、止まった。
少し遅れて、視界に色が戻る。
干からびたように乾燥した肌の感覚が、心臓の鼓動が、生き生きと戻っていく。
全ての感覚が戻り、周囲を見渡すと、先ほどとはまた少し姿の変わった水島さんが立っていた。
虹色のラインが走った白いコート。左腕にはモニターとボタンの配されたウェアラブルデバイスを取り付け、右手にはパッドに使うタッチペンを持っていた。
「遅れてすみません、暁人くん」
《ギリギリ、間に合って良かったデス》
『──水島さん。エマ』
『──俺、どうして──』
『なぜ、元に戻っている?』
俺の疑問を、被せるように筆鬼が水島さんに問う。
俺と筆鬼を交互に見てから、水島さんは口を開いた。
「なに、デジタルとオカルトの融合ってやつだよ」
水島さんが左腕のデバイスに触れると、俺の周りを青い輪がぐるりと一周した。
「今ので暁人くんの身体は“セーブ”された。もう一度紙に変えられたとしても、今の状態に戻せるよ」
彼が見せた左腕のデバイスは、二つのボタンを照らしていた。
Ctrl
S
『──なるほど。そういう』
『──ということは、さっきのは“戻す”か』
「そういうこと。これが最新の憑き人、らしいよ」
ニコッと笑った水島さんの顔は、ヒーローそのものだった。




