境界の先へ
暁人くんと紫蜘蛛ちゃんに手を引かれ、立ち上がる。
今の僕たちの姿を見て、暁人くんは少し面食らったような顔を見せたが、すぐに真剣な表情に戻した。
「僕たちにできることは──」
「ありますよ、たくさん。アイツの生み出す墨獣は、俺たちだけじゃ対処できませんから」
『──筆鬼は私たちがやるから、あなた達は墨獣の方をお願い』
二人の言葉に、思わず目頭が熱くなる。
そんな僕たちの感傷を断ち切るように、筆鬼が声を上げる。
『来たか、怪人』
『お前たちは、この上なく不出来で不愉快だ。即刻、破り捨ててくれる』
筆鬼の不機嫌そうな声に、暁人くんもついに声を荒げた。
「……不出来、不出来ってうるせえな!」
「それを決めるのは、お前じゃねえ!」
『──そういうあなたの性根こそ、不出来じゃないかしら?』
紫蜘蛛ちゃんと二人で筆鬼を睨みつける。
筆鬼の方に向き直り、紫蜘蛛の手を強く握る。
「いくぞ、紫蜘蛛!」
『──ええ、暁人』
紫蜘蛛ちゃんが糸に変化して、暁人くんを繭のように包み込む。
黒い糸が白へと染まり、紫色の炎が内側から繭を弾き飛ばす。
紫色の几帳結びが施された、白い羽織。
甲殻のような黒い鎧と、背中から伸びる四本の蜘蛛脚。
紫色の、美しい瞳。
『筆鬼、今度は逃がさない』
『……ほう、面白い』
筆鬼が大筆を振るい、一面に墨を撒き散らす。
飛び散った墨が墨獣に変化し、一斉に暁人くんや僕たちに襲いかかってくる。
『では望み通り、“鬼ごっこ”といこう』
『我を追い、我が作品から逃げ切ってみせよ』
筆鬼はそう言い残すと、勢いよく跳んで土産屋の屋根に乗る。
そのまま立て続けに跳び回り、あっという間に山の中へ消えてしまった。
『──逃すか!』
暁人くんも同じように屋根を介して山へ向かう。
だが、大きな墨のコウモリが数体、行く手を阻むように飛び込んでくる。
耳障りな音波が鼓膜を震わせ、咄嗟に耳を塞ぐ。
『邪魔するな!』
『──“紫焔”!』
暁人くんの右腕が紫色の炎に包まれる。
斬るように腕を振り下ろすと、三日月の炎が飛びコウモリを両断した。
《マスター!私たちモ!》
「あ、ああ!」
思わず見惚れていたところを、エマの声で我に返る。
急いで鳥やケモノたちを描き、墨獣たちを迎撃させる。
彼を追おうとする墨獣を、ペンで斬撃や射撃のエフェクトを描いて阻止する。
「君たちの相手は僕らだ!」
「エマ!力を貸して!」
自分の右手と背中の両手にペンを持ち、ひたすら手を動かし続ける。
空いた左手には即興で描いた盾を持ち、自衛の手段も確保しておく。
軍団ともいうべき規模の敵を、一人で同等の軍勢を描いて迎え撃つ。
「さすがに、堪えるな……!腱鞘炎は覚悟しないと!」
《本体が離レタ以上、墨の補充はありまセン!数は有限のハズ!頑張りまショウ!》
「暁人くん!ここは任せて、筆鬼を追って!」
『ありがとうございます、水島さん!』
暁人くんがサムズアップをして、山へ入る。
彼ならきっと勝てる。
そう信じて、自分にできることをやり続けた。
『──くっそ!速いな!』
社に向かう山に入り、木々を駆け抜けて筆鬼を追う。
図体の割に軽快に飛び回る彼に追いつくのは、骨が折れる。
『そろそろ一つ目の社に出る頃だが……!』
視界が開けると、目の前に社が現れた。
ここは三つあるうちの、最も大きく参拝客も多く訪れる場所だ。
だが、流石にこんな騒動の最中に居残る物好きはいなかった。
『むん──っ!』
筆鬼が地面に向けて墨を縦に撒く。
乱雑に引かれた線が瞬く間に形を取り、浮き上がる。
男が一人入りそうなほど太い胴体に、六本の足。巨体に似合わぬ細い頭。
その小さな瞳だけが、強烈な敵意を訴えていた。
体長は、三メートルは優に超えるか。
『ひとまずそいつと戯れていろ──!』
筆鬼はこちらを見ることなく再び山の中に消えた。
追おうとするが、トカゲのような墨獣に阻まれる。
『そこをどけ──!』
紫焔を右手に纏い、墨獣の頭を掴んで地面に叩きつける。
直後、火柱が上がって墨獣の全身を焼き尽くす。
火が消えた場所には、墨の一滴も残らなかった。
《──あっちよ》
紫蜘蛛の糸に導かれるまま、再び山を駆け上がる。
普段なら名物のエスカレーターを使うところだが、今は走った方がはるかに速い。
道中、あちこちから墨獣が飛びかかってくる。
さっきのトカゲに、ウサギにカエル。空には暗雲が立ち込めてきた。
以前、筆鬼に敗北した海辺の公園と似たような光景に変化し始めている。
『……この前と同じだな』
『だが──!』
『二度目はないぞ──!』
墨獣全てに一斉に糸を絡めて、火を点ける。
紫焔は糸を伝い、墨獣に触れた瞬間に起爆する。
『はっ──!』
燃える糸を手放し、高く跳ぶ。
背後で紫焔の爆発が起き、全ての音をかき消す。
『紫蜘蛛!』
白い羽織を開いて爆風に乗り、暗雲を突き抜ける。
雲の中は電気が充満していて、抜けた後も身体に痺れが残っていた。
《──雲が、変わる》
『それで良い!』
雲が蠢き、雷鳥に変化する。
雷鳥が産声をあげようと身体を膨らませた瞬間──
『今だ!』
両手と蜘蛛脚から糸を放ち、雷鳥の身体を縛り上げて紫焔を送り込む。
雷鳥が目を見開き、即座に自身を縛る糸に雷を通す。
ちょうど俺と雷鳥の中間にあたる部分で、炎と雷が激突する。
《──一筋縄じゃ、いかないわね》
『それでも、押し通る!』
紫焔が漆黒の雷を飲み込み、そのまま雷鳥へ迫る。
雷を纏った炎が雷鳥を覆い、小さな爆発を幾度も起こして身体を抉る。
『キョエエェェ──……』
雷鳥は力なく墜落して、地面に叩きつけられて墨に変わった。
《──念のため》
地面に降り立ち、墨へ戻った雷鳥に火を点ける。
あっという間に燃え上がる様子を見て、炎に背を向けて先を急ぐ。
二つ目の社を通過し、さらに山を駆け登る。
その後も絶え間なく墨獣が襲ってきたが、なんの苦もなく糸で締め上げ、焼き尽くした。
ここまで立ち止まることなく駆け抜け戦ってきたが、息が上がるどころか身体が軽く感じる。
紫蜘蛛との境界さえ、心地よく曖昧になっていく。
それがとても嬉しく思えた。
頂上に辿り着くと、筆鬼が墨に塗れた白い塔の上に立っていた。
『思いの外早かったな。変わったのは姿だけではなかったらしい』
『だが──』
筆鬼が大筆の柄尻を足元に叩きつける。
甲高い音と共に、塔に絡みつくように塗られた墨が蠢き、浮き上がる。
『ここで終いだ』
墨が天地に伸び、無数の足が生える。
天に伸びた側の先端から、一際長い触覚が一対現れる。
──大百足。
塔に絡み、天を衝き、とぐろを巻いて地面を埋め尽くすその大きさは、もはや考えるのも無駄だった。
『……っ気持ち悪……!』
俺は、虫があまり得意ではない。
既読虫も割とキツかったが、ムカデともなると全身が不快感と恐怖で震えてしまう。
足が、動かない。
《──暁人、大丈夫》
《──私がやる》
紫蜘蛛の意識が浮かび上がる。視界が陽炎のように揺らいだのを合図に、身体の主導権を彼女に渡す。
紫の瞳が燃え上がり、黒い甲殻の鎧が白と紫の二色に変わる。
《……悪い、頼んだ紫蜘蛛》
『──ふふ。頼まれたわ』
紫蜘蛛は軽く笑い、身体の内側に糸を張り巡らせる。
『──それじゃ、手早く終わらせましょう』




