紫蜘蛛の瞳
「あれが──!」
《──筆鬼》
目の前に現れた鬼。
三メートルほどの巨体に、同じくらいの長さの大筆。
『不出来な者ども。俺が正してやる』
『ぬん──!』
掛け声と共に、筆鬼が大筆を振るう。
宙に巻き上げられた墨が、二羽の鷹に変化して襲いくる。
「何が不出来だ!」
《──あなたに言われる筋合いは、ない》
宙返りして鷹の突進を躱し、糸で捕らえる。
回転の勢いを乗せて思い切り筆鬼に叩きつける。
『──ぬるい』
筆鬼が再び大筆を振るい、墨の壁を作り出す。
鷹が壁に激突し、墨に戻って撒き散らされる。
『“針千本”』
墨の壁から黒い針が射出される。
反射的に八重蜘蛛の鎧を纏い防御するが、吹き飛ばされた。
『ぐっ──!』
『──舐めんな!』
地面に着地し、両手から糸を放つ。
狙いは大筆。
大筆の後端を絡め取り、一気に引く。
『ぬるいと言った』
筆鬼が筆の柄を地面に突き立てると、墨が湧き出し、濁流を生み出した。
『“不忍池”』
『──舐めんなって言っただろ!』
背中の蜘蛛脚を一気に折り畳む。
蜘蛛脚から伸びていた糸が街路樹を引き抜き、筆鬼に向けて投擲される。
『“月松”』
筆鬼が筆を捕らえていた糸を踏みちぎり、円を描くように振り回す。
取り囲むように松の木が描かれ、街路樹から身を守った。
『“鰐鮫”』
墨の池に筆の毛を突っ込み、荒々しく振り上げる。
打ち上げられた墨の波が巨大なサメに変化し、大口を開けて迫り来る。
糸を放って拘束しようとするが、触れた端から切れていく。
まるで鮫肌に削られているようだった。
「鮫肌か──!?」
《──跳ぶしかない!》
喰われる直前、バク転で後方へ跳び、その勢いのまま大きく跳ねる。
『“鎌鼬”』
「っ!?しまった──!」
空に誘い込まれた。
無数の墨の斬撃が両断しようと迫ってくる。
躱しきれない。
《──暁人!》
紫蜘蛛が俺の身体から弾かれるように分離する。
斬撃は空を切り、俺と紫蜘蛛は二手に分かれる。
「八重蜘蛛!」
蜘蛛脚で受け身を取って着地し、筆鬼に向けて糸を放つ。
『お前は後だ』
筆鬼が足元に一筆線を描くと、そこから黒い炎が立ち上る。
俺の糸は、灰に変わった。
「くそっ!」
即座に蜘蛛脚を構えて駆け出すが、筆鬼の方が一手早かった。
紫蜘蛛に向けて筆を振るい、墨の斬撃を繰り出す。
『──っ!』
「紫蜘蛛!」
何もかも、遅かった。
紫蜘蛛の元には辿り着けず、筆鬼を捕らえることもできなかった。
紫蜘蛛は身体を捻り、かろうじて斬撃を避けた。
だが、その一閃は、目隠しのみを切り裂いていた。
「紫蜘蛛!」
筆鬼に牽制の糸を放ち、紫蜘蛛の元へ駆け寄る。
彼女の額から血が流れているのを見て、血の気が引く。
「紫蜘蛛!無事か!紫蜘蛛!!」
鎧を解いて必死に呼びかけると、紫蜘蛛が目を開いた。
紫水晶のような、美しく煌びやかな瞳。
──初めてだった。
紫蜘蛛の瞳を見たのは。
『──あ』
『──ああ、暁人──!』
『──ダメ、離れて──!』
紫蜘蛛の顔が恐怖に歪む。
直後、彼女に凄まじい力で突き飛ばされる。
「うわっ──!」
「紫蜘蛛!?どうしたんだ!」
再び立ち上がり、彼女を見る。
紫蜘蛛は顔を伏せ、両腕をダラリと下げたまま佇んでいた。
『──ア──』
『──アアアァァァァァ──ッ!!!』
「っ!?」
今まで聞いたことのない声を上げて、紫蜘蛛が飛びかかってくる。
躱すこともできず咄嗟に受け止めるが、勢いを殺しきれず倒れ込む。
「紫く──!?」
首筋に激痛が走る。
紫蜘蛛に噛みつかれた。
普段のような甘噛みでも、不機嫌な時の噛みつきでもない。
彼女の歯──牙とも言うべき凶器が、深く深く突き刺さる。
肉を抉るように、ゆっくり牙が食い込んでいく。
──食いちぎられる。
「があああああぁぁぁっ──!!」
激痛に耐えられず、絶叫を上げる。
必死に紫蜘蛛を引き剥がそうと足掻くが、無駄だった。
むしろより強く食い込む牙に恐怖を覚え、抵抗をやめて声を上げ続ける。
「紫蜘蛛!俺だ!暁人だ!」
「やめてくれ!止まれ!紫蜘蛛──!」
肉に食い込んでくる紫蜘蛛の牙が止まり、地面に押し付ける力が弱まる。
その隙を逃さず、ようやく紫蜘蛛を引き剥がして八重蜘蛛の糸で傷口を縫い合わせる。
「はあっ──はぁっ──!」
『──あぁ……!』
『暁人──ごめんなさい──!』
倒れ込んだまま涙を流す紫蜘蛛の元に駆け寄ろうとするが、八重蜘蛛に止められる。
脚が縛られたように動かない。
《やめろ。今度こそ喰われるぞ》
「言ってる場合か!紫蜘蛛が──!」
言い合っている間に、筆鬼が筆を叩きつけるように俺に向けて振り下ろしてくる。
八重蜘蛛の霧を纏い、その場を飛び退く。
筆から漆黒の水柱が立ち上がった。
『上出来だ。それでこそ怪異』
『喜べ、蜘蛛よ。お前は正しい在り方に戻った』
『──次はお前だ、“怪人”』
『人でも怪異でもない貴様は、存在そのものが不出来。塗り潰してくれる』
筆を槍のように構える筆鬼。
傲慢としか言いようのない態度に、腹の底が煮え繰り返る。
「ざっけんじゃねえ!!」
『──寄越せ!八重蜘蛛!!』
赤雷を帯びた鎧を纏い、大地を抉り駆け出す。
貫くように突き出される筆を、身を翻して躱し、拳を腹に叩き込む。
『……ふむ。なかなかの膂力だ』
『だが、所詮は半端者。やはりお前は不出来だ』
筆鬼はよろめくこともなく、首を掴んでくる。
筆を足元に突き立てると、どこかから墨獣たちが集まり、身体に纏わりついては墨へと塗り潰していく。
『ぐっ──があぁ──っ!』
『終わりだ。あとはお前を紙に封じ、破り捨てるのみ』
力が抜ける。
蜘蛛脚を腕に刺そうと動かすが、強靭な筋肉に阻まれる。
『紫、蜘蛛──!』
『──止まれ、筆鬼』
突然、周囲の気温が爆発的に上がった。
墨獣は瞬く間に蒸気に変わり、消滅する。
異常を感じた筆鬼が、雑に俺を放り投げる。
『何者だ。姿を見せろ』
『派手に暴れすぎだ。まだその時ではない』
言葉と共に、熱風が吹き荒れる。
炎を帯びた竜巻が空高く立ち上がり、中から人影が現れた。
──筆鬼よりも遥かに大きな、鬼。
十メートルほどの巨人が、筆鬼の前に現れた。
『……阿用郷の鬼か』
『なんと、美しき造形か』
筆鬼が両腕を広げて声を漏らす。
『一度戻るぞ、筆鬼。お前は人界を知らなすぎる』
『承知』
『──命拾いしたな、怪人』
筆鬼が巨大な大鬼とともに熱風に包まれ、姿を消した。
紫蜘蛛の元に這いずって近づこうとするが、その前に八重蜘蛛の力が霧散した。
「……紫、蜘蛛……!」
残った力を振り絞り、彼女に向けて手を伸ばす。
だがその指先は、彼女に届くことはなく。
俺の意識は、そこで途切れた。




