筆鬼
「いやー喋ったな。色々と」
『──疲れた』
水島さんの取材、というよりインタビューは数時間に及んだ。
暗くなる前に終わらせてはくれたが、それでも外はもう夜の帳が下り始めていた。
俺と紫蜘蛛の出会いから今に至るまでを、二人で思い出しながら話してきた。
これまで戦ってきた怪異の話や、出会った人たちの話。
特に、資料室の花子の話は興味を惹いたらしく、深く掘り下げられた。
『──今度は、今昔堂にも来るって言ってたわね』
「ああ。一応、加古川さんたちにも話は通しておこうな」
そこで会話は一度途切れ、しばらく二人で無言で駅に向かって歩く。
再び口を開いたのは、紫蜘蛛だった。
『──ねえ、暁人』
「どうした?」
『──あの画魔について、どう思う?』
考え込むように、少し下を向いたまま紫蜘蛛が続ける。
『──あの子、目を晒していたのに人を襲わなかった』
『──あの子だけじゃない。あの家にいた怪異は皆、直視こそしなかったけど目を隠していなかった』
昨日の紫蜘蛛の言葉を思い出す。
怪異は本来、人を襲うもの。
だからこそ、人と共に歩もうとする怪異は、人を見ないために目を隠す。
だから紫蜘蛛も狐火も、資料室の花子も目を隠していた。
例外は墨香と白來だが、あの二人の目はいぶきさんの目でもあるから、特例中の特例だろう。
他は──海月。
彼女も目を隠さずに俺に接触してきた。
にも関わらず、人間である俺を襲わなかったのは──
「……あ。」
無意識に声が口から漏れた。
とても小さな声だったが、紫蜘蛛は聞き逃さなかった。
『──どうしたの?』
紫蜘蛛が俺の顔を覗き込む。
「……いや、多分だけど、エマが特別なんじゃないか?」
「彼女は水島さんが産んだ怪異といってもいい存在だから、初めから人を襲うって概念がないのかもしれない」
今思いついた仮説を誤魔化すように述べる。
我ながら悪くない説だとは思うが、紫蜘蛛は釈然としない様子だった。
海月とエマ、二人に共通する点。
思い当たる節が、一つあった。
だが、それを紫蜘蛛に言うべきかどうか悩む。
俺の口から答えを教えることじゃない気がした。
『──機会があったら、聞いてみるわ』
「ああ。それがいい」
それからは、俺も紫蜘蛛も話さなかった。
──八重原くんたちを帰宅させた夜。
いつも通りに原稿を進め、皆を部屋に帰して、エマと夕飯を食べる。
客人と取材以外は、いつも通りの日常だった。
『おやすみなサイ。マスター』
「うん、おやすみエマ」
エマが姿を消し、この部屋には僕一人。
部屋の明かりを消し、ベッドに横になる。
今日は実に充実した日だった。
興味深い話をたくさん聞けた。
彼の語る経験は、そのまま物語にしても良いくらい、刺激的でファンタジックだった。
次の空き時間に、彼の友達からも話を聞こう。
そんなことを考えながら、意識を手放しかけた時。
──背筋が震える。
寒さによるものではない。
だが、全身が小刻みに震える。
なぜだ。
起きることを拒否するように、瞼が張り付いたように動かない。
無理やり引き剥がして、薄目で部屋を見やると。
人がいた。
エマじゃない。
いつもの四人でもない。
黒の着流しに白いコートを羽織った、異常に後頭部が発達した男が、空中に腰掛けて小さな盃を傾けている。
暗闇の中で煌々と輝く赤い双眸は、興味深そうに部屋を見渡していた。
『海月に付いていた臭いを追って来てみたが……当てが外れたか』
『それにしても、人の世も変わったな。箱の中に平屋を詰め込み、天に向けて伸ばすとは。よほど土地に余裕がないらしい』
物思いにふけるように天井を見ながら呟く。
まるで、ずっとここに住んでいたかのような馴染みぶりだった。
(ぬ、ぬらりひょん……!?)
妖怪の漫画を描いている以上、その名と姿を知らないはずがない。
妖怪たちの総大将──ぬらりひょん。
そんな大物が、どうしてここに。
冷や汗を流しながら思考を巡らせていると、男の赤い瞳がこちらを向いた。
反射的に、目を固く閉じる。
『……寝たふりか。賢明な判断だ』
『本来なら我に勘づいた時点で呪い殺しているところだが、今宵の我は機嫌が良い』
『故に、赦してやる。そのまま目を閉じ、震えているといい』
耳元で寝かしつけるように囁いてくる。
全身が全力で生命の危機を訴えてくるが、結局身動き一つ取れなかった。
『──ん?これは……』
耳元から声が遠ざかる。
再び薄く目を開くと、ぬらりひょんは僕のデスクの前に立っていた。
手に持っているのは、僕が子供の頃に買ってもらったGペン。
今のデジタル環境に移行するまで、肌身離さず使い続けていたものだ。
『筆か?鋒もないとは、随分変わった筆だな』
『それに、情念の籠り方もなかなかだ。これは使えるかもしれんな』
ぬらりひょんがペンを眼前に掲げる。
怪しげな光が滲み出し、煙のように部屋中を漂う。
やがて、光の煙は一つの形を取った。
右手に巨大な筆を持った、隆々とした筋肉を湛えた大男。
頭には角が生え、地獄を描いたような派手な柄の着物を、片袖を抜いて纏っている。
『思った通りだ。お早う、“筆鬼”。君の生誕を祝福しよう』
鬼は無言でゆっくり頷く。
それを見たぬらりひょんは満足げに微笑した。
『今からお前は自由だ。好きなように振る舞い、生きるといい』
そう言い残して、ぬらりひょんは窓をすり抜けてどこかへ消えた。
筆鬼と呼ばれた鬼も、後を追うように窓に近づく。
同じようにすり抜けようとするが、そのまま窓にぶつかってしまった。
自分がすり抜けられないことを確認するように、何度か拳で窓を叩く。
『──不出来』
一言発して、筆を振るう。
窓とカーテンに墨が飛び、黒く染まる。
直後。
墨に塗れた窓とカーテンが紙に変わった。
ハラハラと宙を舞う二枚の紙を、筆鬼が捕える。
そのまま無表情で破り捨てて、外に出ていってしまった。
身体を縛る悪寒が、ようやく消える。
そのまま糸が切れたように、意識を失ってしまった。




