いつもの甘噛みと、消える思い出
「──あれ、寝てたか」
ゆっくりと瞼を開き、目を覚ます。
見慣れた天井。
自分の家、自分の部屋。
自分のベッドで寝ていたようだ。
──俺は確か、加古川さんのところに行っていたはずだ。
気づけば異界にいて、命懸けで戦っていた。
全て、覚えている。
痛みも、絶望も、歓喜も。
『──ん……暁人……』
耳元をくすぐる声。
横を見ると、紫蜘蛛が寝息を立てていた。
頬を緩ませ、油断しきった顔。
幸せそうな顔に釣られて、俺も頬が緩む。
「……紫蜘蛛。朝だぞ」
「カステラ、食べよう」
俺の言葉に、紫蜘蛛が小さく首を動かした。
『──ん』
『──その前に、いつもの──』
「……ああ、分かってる」
シャツの襟ぐりをはだけさせ、首筋を晒す。
紫蜘蛛がまっすぐ、俺の首筋に甘く歯を立てて食む。
「……っ」
わずかな痛みと、甘い快感。
あの日できなかった甘噛みを受けて、ようやく日常に帰ってこれたと自覚して──
突然、紫蜘蛛の歯がぐっと深く食い込んだ。
「いっっった!!?」
思わず叫び、紫蜘蛛を引き剥がす。
『──暁人。いつもと味、違う』
『──なんか、磯の味がするわ』
不満そうに口を尖らせる。
磯の味。
思い当たるのは──
『──もしかして、あのクラゲ女と何かあった?』
『──浮気?』
紫蜘蛛が糸を俺に絡ませてくる。
真っ白な糸が少しずつ黒く染まっていく。
まずい、本気で怒っている。
「待て待て!落ち着け!浮気じゃない!」
「海月は一時的な協力者だったんだ!」
必死に紫蜘蛛に言い訳を並べる。
紫蜘蛛の糸は、少しずつ俺を締め上げてくる。
ベッドが軋み、呼吸が少し苦しくなる。
「あいつがいなかったら紫蜘蛛を助けられなかったし、俺も何度死んでたか分からない!」
締め上げられる腕を無理やり動かし、紫蜘蛛を抱きしめる。
「……それに、告白はされたけど断ったよ……!」
「お前を失うことになるのは、何よりも嫌だったから……!」
紫蜘蛛の締め上げが、止まった。
顔を見ると、まだ少しむくれている。
『──そう』
『──じゃあ、許してあげる』
『──その代わり』
紫蜘蛛の口が耳元に近づく。
ふわりと甘い香りの吐息が、耳と鼻をくすぐり背筋を震わせる。
『──今日はもっと、甘えさせて』
再び首筋に歯を立てる。
自分でつけた噛み跡を、舌で優しく舐めながら食む。
「……っ」
「……分かった。今日は特別だぞ」
身体のあちこちを、甘噛みされる。
海月の匂いを上書きするように、ゆっくりと。
──今日が日曜日で良かった。
これじゃ遅刻は確定だった。
痛みと快感に身を任せ、しばらく目を閉じた。
それから、数時間後。
「──八重原くん、どうしたの?その絆創膏」
「紫蜘蛛様も、どこかツヤツヤしてますわ」
今昔堂に行くと、火那森先輩といぶきさんが既にいた。
先輩は俺の身体に貼られた絆創膏を、いぶきさんは普段より上機嫌な紫蜘蛛を見ている。
「いや、その……虫刺されとか、包丁で軽く切ったとか、そんな感じですよ」
『──今日のカステラは、普段より甘かったから』
二人でそれとなく誤魔化す。
さすがに朝からたっぷり甘噛みプレイに興じていたとは言えない。
「ところで、狐火と墨香たちは?」
『──そういえば。まだ寝てるのかしら』
普段なら三人とも表に出てきて茶を飲んだりしているのだが、今日はいない。
気配も感じられなかった。
「……ええ。狐火は今朝からずっと眠ったままで」
「おそらく、夢に現れた獏の影響だと思うのですが、墨香も目を覚まさなくて」
「白來は起きてはいるのですが、墨香を診ると言って私の中に入ったきりで」
二人がじっと考え込む。
ハミィの力で、狐火も墨香も無理やり暴走させられていた。
その影響が、まだ残ってるのだろうか。
「──やあ。今日も揃って──は、いないか」
「ともかく、元気そうで何よりだ。……特に紫蜘蛛くんはね」
書斎の方から、加古川さんが顔を出す。
目には濃い隈ができている。
「加古川さん!大丈夫ですか!」
咄嗟に加古川さんの方へ駆け寄る。
俺の記憶では、お菊や蘭丸と一緒に倒れていたはずだ。
「ん?ああ、僕は心配ないよ。ちょっと悪い夢を見てうなされていただけだからね」
「ただ、童子たちがなかなか起きなくてね。どうも力を使い果たしたようで、ぐっすり眠っている」
加古川さんが胸の辺りを軽く叩く。
「でも、君たちがなんとかしてくれたんだろう?夢に二人が出てきたよ」
「──俺たちが?」
加古川さんが書斎から出てきて、コーヒーマシンの前に立つ。
今朝はとびきり濃いエスプレッソを選んだ。
「私たちのところにも、出てきたわ」
「墨香と白來を止めてくださったのも、八重原様でしたわね」
先輩といぶきさんも、あの霧の遊園地での出来事を覚えている。
──あれは、本当に夢だったのだろうか。
ハミィは確かに俺たちで倒した。
だが、俺含め全員が夢の出来事だと認識しているのなら──
『──大丈夫よ、暁人』
『──あの獏は、あそこで死んだ』
紫蜘蛛が俺の服の裾を軽く引っ張る。
『──あそこで死んでないと、あの悲劇には蛇足ですもの』
『──誰よりも“物語の結末”にこだわっていた彼女が、そんなこと許すかしら』
『──文字通り、死んでも許さないと私は思うわ』
確信を持ったような、芯の通った口調。
一時は行動を共にさせられていた紫蜘蛛が言うなら、きっとそうなんだろう。
「さあ、ひとまずコーヒーでも飲もう」
「カフェインは夢から覚める、一番の方法だからね」
加古川さんが四人分のコーヒーを机に並べる。
紫蜘蛛はコーヒーが飲めないので、代わりに麦茶をもらった。
日曜日の昼時。
いつもと同じお茶会が開かれた。
『──はあ』
『……振られちゃったわね』
いつもの暗い空間の中。
頬杖をついて、何度目かも分からないため息をつく。
分かってはいたことだけど、それでもショックは大きかった。
暁人と紫蜘蛛は、もう切っても切れない深い縁で繋がっている。
ハミィの用意した夢を利用しても、そこに入り込む余地はなかった。
『──でも、本当に楽しかった』
『ありがとう、暁人』
『──随分と楽しそうだな、海月』
暗闇の向こうから、声が響く。
耳の奥を震わせるような、低い掠れ声。
『──悪五郎様』
暗闇の奥から、人影が現れる。
黒い着物に、毛皮のついた白いコート。
素足に黒い革靴を履き、白い帽子を被っている。
毛先が赤く染まった黒い長髪を、うなじの辺りで結んだ髪型。
黒い眼球の中に浮かぶ、赤い瞳孔。
強い威圧感と、人を否応なく惹きつける瞳から、目を離せない。
『現世で随分良い思いをしたようだな』
『人間にちょっかいをかけていたようだが──』
『──申し訳ありません、悪五郎様』
『少し、夢を見ていました』
頭を垂れて、跪く。
『ああ。良い、良い』
『私はお前が楽しければそれで良い』
『どうあれ、私の元に戻ってくるのも分かっているからな』
『だが──』
悪五郎様が屈み、私の顎を持ち上げる。
『人間の臭いが染み付いているのは、気に食わん』
『共に来い。その臭い、書き換えてやる』
『──はい』
悪五郎様に連れられ、暗闇に消える。
──ああ。
この匂いも、思い出も、消えてしまう。
絶対に手放したくない、私の記憶。
それでも、拒むことはできなかった。




