俺を視ている八重蜘蛛と、新たな憑き人
霧の遊園地を当てもなく歩く。
スマホは相変わらず電波が入らない。
ライトも霧で霧散してしまい、使い物にならない。
前に進むほど、霧が濃くなる。
甘い匂いには次第に鉄の匂いが混ざり、足元の柔らかさも肉を踏むような生々しい質感に変わっていた。
「……寂しい遊園地だな」
漂う血臭に、顔をしかめる。
「それに、気色悪い」
不意に、そんな言葉が口を突く。
人気のない、暗い遊園地。
本当にこれのどこが夢幻の国なのか。
気付けば漂う香りが完全に血の匂いに変わり、白い霧が赤くなっていた。
慣れない匂いと視界不良。
さらに不安定な足元も相まって、胃の中身が込み上げそうになってくる。
少し休もうと歩を止めた瞬間。
何か、気配を感じた。
「──!」
耳に意識を集中して、気配の正体を探る。
ヒタ、ヒタ、と水気を含んだ足音を聞いた直後。
『──!!!』
霧の中から、怪物が飛びかかってきた。
血に塗れた死装束を纏った、人のようなナニカ。
顔にあるのは大きく裂けた口だけだった。
関節は不自然な方向に折れ曲がっているのに、しっかりこちらを捕らえようとしている。
「のっぺらぼう──っ!」
咄嗟に横に飛び退く。
構えを取り、両手に黒い霧を纏おうとする。
《──俺はいつでもお前を視ている》
八重蜘蛛の言葉が頭をよぎる。
さっきは無意識に腕を怪異化してしまったが、八重蜘蛛に乗っ取られるリスクを意識してしまうと、どうしても躊躇いが勝る。
目の前ののっぺらぼうは、そんなことお構いなしに襲いくる。
このままじゃ死ぬかもしれない。
だが、八重蜘蛛に身体を渡すのも同じくらい嫌だった。
「言ってる場合じゃないか……!」
片腕だけ怪異化させて攻撃を受け止める。
黒い霧はハッキリと実体を持ち、甲虫の甲殻のような鎧に変化した。
腕を振り抜いて受け流し、背後を取る。
「はっ──!」
指を尖らせ、貫手の構え。
そのまま心臓を貫こうとして──
俺の心臓が跳ねる。
「──っ!?」
のっぺらぼうが、いつの間にか俺の方を向いて笑っていた。
首だけ真反対に捻り上げて。
血飛沫を上げながら、両脇からさらに腕を生やす。
面食らった隙を突かれて、伸びた腕に勢いよく突き飛ばされた。
「うわっ──!」
もう片方の腕も怪異化させて、バク転して受け身を取る。
左目がジリジリと熱を持つ。
視界の左端が、赤色に染まり始めた。
「──もうかよ……っ!」
流石に躊躇が勝ち、怪異化を解く。
直後、待っていたかのようにのっぺらぼうが飛びかかってくる。
「ッ──!」
両手を顔の前で交差して、身を守ろうとする。
だが、身体が竦んで怪異化はできなかった。
鋭い爪が腕に食い込む。
「まずい──っ」
思考の刹那。
のっぺらぼうが押しつぶされるように地面に叩きつけられる。
苦悶の表情を見せる間もなく、圧殺された。
「っ!?」
「なんだ、今の……」
血の池と化した怪異を見て、ひとまず傷を自分の糸で縫合する。
霧が、妙に重い。
身体が水の中に沈んだような、水圧に押しつぶされる感覚。
──この感覚には覚えがある。
突然、足元が冷水に踏み込んだように冷たくなる。
嫌な予感と共に、周囲を見渡し警戒する。
『──また会えたわね。暁人』
「ッ!?」
背後から頬を撫でられ、耳元で囁かれる。
背中全体に、水に濡れた柔らかな感触を覚える。
反射的に飛び退こうとするが、動けない。
身体が細い触手のようなもので拘束されていた。
「──海月……!」
『あら、覚えててくれたの?嬉しいわぁ』
既読虫との戦いの後、俺と紫蜘蛛の前に姿を見せた磯姫。
あれから動向も探れず、加古川さんたちもお手上げだったようだが。
「なんで、ここにいる……」
『なんでって、あなたに会うためよ』
『ハミィに頼んで、入れてもらったのよ。お友達特権、ってものかしら』
愛おしそうに顔を撫でられる。
嫌悪とも快感ともつかない震えが身体を襲う。
「……あんなのと、友達なのかよ」
『あら、あの子ああ見えて面白いのよ?退屈しないし』
『ああ、でも安心して』
顔から手が離れたと思った直後、触手と共に身体を強く抱き締められる。
『──今回は、あなたの味方だから』
「──ッ、どういうことだ」
意外なほど強い力に、息が詰まる。
殺す気なのか、加減ができてないだけなのか。
判断に困る。
俺の様子を見て、少しだけ力が緩められる。
海月の顔は、愉しげだった。
『あの子、あなたを殺すつもりなの』
『あなただけじゃない、あなたのお友達もね』
「……だろうな」
耳元の囁きと吐息に身体が震える。
夢の中で俺を食おうとした時の紫蜘蛛のような、理性を溶かそうとする話し方。
『私、あなたのお友達はどうでもいいのだけど、あなたが殺されるのは困るわ』
心臓の辺りを指先が撫でる。
水に濡れているとは思えない熱と滑らかさ。
背筋がゾワゾワと震える。
『だから、助けてあげる。あの蜘蛛女に代わって、ね?』
「──ッ!」
反射的に怪異化する。
霧を纏い、無理やり海月を引き剥がす。
「紫蜘蛛のこと、何か知ってるのか!」
『あら、怖い』
口を袖で隠して、目を丸くする。
だが、本心から恐れているようには見えない。
『──でも』
『そんなところも、好きよ』
言葉と同時に、身体が動かなくなる。
振り払ったはずの触手が、また絡みついていた。
「なっ──!?」
『本当にあの子のことが大切なのねぇ。妬いちゃうわ……』
嫉妬と愉悦の混ざった、蕩けるような声。
『あの蜘蛛女のところまでは、手伝ってあげる』
『その力、長くは保たないんでしょう?』
触手が霧に覆われた部分を撫でるように蠢く。
蠢く度に左目の熱が引いていき、霧が散っていく。
八重蜘蛛の気配が、体の奥へと引っ込んでいく。
「なっ……八重蜘蛛……?」
『あら?少し怖がらせすぎたかしら?』
口元を隠して、小さく笑う。
『でもこれで、あなたは一人では戦えなくなった』
『私と組まないと、あの子に会う前に死んじゃうわ?』
意地悪な笑みを浮かべて、海月が歩み寄ってくる。
「──選択肢は、ないわけか」
『いいえ。生きるか、死ぬか。今あなたが選べるのはそれだけ』
海月が手を差し出すと、身体を縛っていた触手の感覚がなくなった。
──自分で選べ。
言葉ではなく、行動で伝えてくる。
「──今回だけだ」
『ふふっ──今回だけで、済むと良いわね』
海月の手を取り、糸と触手が絡み合う。
──仮ではあるが、これで俺たちは“憑き人”になった。
「──ごめん、紫蜘蛛」




