全てを失う悪夢と、奪う八重蜘蛛
意識が浮き上がってくる。
重い瞼を持ち上げると、夜空が目の前に広がっていた。
生ぬるい風、砂利の感覚。
まるで、俺が死んだ日のような陽気。
ゆっくりと起き上がる。
痛みはない。
だが、身体が妙に重い。
立ち上がって周りを見ると、よく見た光景だった。
俺の家の前だ。
家には灯りが点いている。
俺以外にはいないはずなのに。
玄関に手を掛けると、鍵が開いていた。
不思議に思いながらも、そのまま入る。
廊下を過ぎて、リビングへ。
扉の前に立つと、声が聞こえた。
親父と、お袋の声。
──俺と、紫蜘蛛の声。
「──は?」
理解が追いつかない。
何が起きているのか確かめるために、扉を開ける。
リビングでは、家族と紫蜘蛛が食卓を囲んでいた。
──そこにいる俺は、俺じゃなかった。
「──っ!?」
真っ黒な肌。
真っ赤な目。
凶悪な牙。
鋭い爪。
外見は確かに俺だったが、どこかあの四つ目の怪物を思わせる要素を持っている。
俺が入ってきたことに気づいたお袋が、目を見開いて悲鳴をあげた。
「……っ!?きゃあああ!か、怪物!あなた!怪物が……!」
悲鳴を聞いた親父と赤目の俺、紫蜘蛛が立ち上がり、お袋を避難させる。
「な、なんだお前は!?」
「お袋!隣の部屋に隠れて!」
親父が近くにあった雑誌を投げつけてくる。
赤目の俺も、食器を投げつける。
その顔は、笑っていた。
まるで俺が来るのを知っていたように。
こうなることを知っていたように。
──なんでだ。
なんでお前が、そこにいる。
『──紫蜘蛛。お前は、お前は俺の──』
自分の声が変だ。
喉が潰れたようにガラガラで、低い声。
俺の言葉を聞き終わる前に、紫蜘蛛が糸を飛ばして俺の口を塞いだ。
『──出ていって。バケモノ』
『──ここに、あなたの居場所は、ない』
冷たく、刺すような声。
本気の拒絶。
『どうしてだ』
『そこにいる俺は、俺じゃない』
『俺が、八重原暁人なのに──』
涙が溢れる。
声が震える。
視界が涙で歪む。
息が詰まる。
そんな俺を見て、奴は愉しげに顔を歪めていた。
『──テメェ──!!』
俺の中の、何かが切れた。
口を塞ぐ糸を引きちぎり、赤目の俺に殴りかかる。
『──暁人!』
「暁人!」
「暁人!」
紫蜘蛛と両親が、奴を庇うように立ちはだかる。
紫蜘蛛が糸で俺を縛り、両親が俺に食器の破片を投げつける。
破片が次々と俺に刺さる。
痛みであげた叫びは、怪物のような咆哮だった。
そして。
──赤目の俺が、背中から蜘蛛脚を生やす。
「死ね、バケモノ」
言葉と同時に、四本の蜘蛛脚が俺を貫いた。
『ドウ、シテ』
倒れる直前、血溜まりに自分の姿が映る。
真っ黒な肌。
真っ赤な四つの瞳。
背中から伸びる蜘蛛脚。
そこにいたのは、“八重原暁人”ではなく。
──“八重蜘蛛”だった。
「──っ!?」
詰まった空気を吐き出すように飛び起きる。
無機質な、白い空間。
そこかしこに巨大なキューブ状の建物が置いてある。
まるで実験室のような、静かな世界。
──夢か。
とんでもない悪夢だった。
八重蜘蛛に居場所を奪われて殺される夢。
──夢で、あってほしかった。
『──ひでェ面してんな』
『殺される夢でも見たか?』
声の方を振り返る。
キューブの上に、何かがいる。
この状況でこの場にいる奴なんて、一人しかいない。
「八重蜘蛛──!」
『ほう?“八重蜘蛛”。それが俺の名か。良いじゃねェか』
愉しそうに呟きながら、八重蜘蛛が立ち上がる。
赤い瞳。
黒い身体。
背中から生えた四本の蜘蛛脚。
あの夢で見た、まんまの姿がそこにいた。
「──お前か」
「アレを見せたのは」
怒りで声が震える。
八重蜘蛛は変わりなく、愉しげに口を開く。
『なかなか良いもんだったろ?』
『お前がさっき見たのは、正確には夢じゃねェ』
『ありゃ、遠からず訪れる俺たちの未来だ』
『──いや、もう始まってる“現在”かもなァ?』
口元が歪み、悪どい笑みを浮かべる。
「お前が俺を乗っ取って、俺として生きる未来がか?」
「──ふざけるな!そんな事させるかよ!」
キューブの上の八重蜘蛛に向けて跳び上がる。
身体が異様に軽い。
地面を蹴っただけで、ありえない高さまで跳んだ。
まるで紫蜘蛛と一緒にいる時のように。
『──ハッ』
『“そんな事させない”?違ェよ!』
『“お前が選んだ道”だ!』
八重蜘蛛が蜘蛛脚から糸を放つ。
紫蜘蛛のそれとは違う、黒い糸。
宙で身体を翻して、躱す。
自分でも信じられないくらい、身軽だ。
八重蜘蛛の目の前に着地して、アッパーを叩き込む。
だが、まるで予知していたかのように最小限の動きで回避され、腕を掴まれた。
『──ほら。もう人間から離れ始めてる』
『このままいけばアイツらの仲間入りだって、お前も分かってんだろ?』
ミシミシと、骨が軋む。
痛みで顔がわずかに歪む。
『だからそうなる前に、俺が代わってやるってんだよ!』
「うっ──!?」
思い切り腹を殴られ、投げ飛ばされる。
キューブの下に落とされて、衝撃で意識が飛んだ。
──もう、あの夢は、見たくない。
だが、この世界に逃げ場はなかった。
どれだけ頭が訴えても、意識は瞬く間に黒へ沈んだ。




