俺を否定する声と、自分を見失った俺
九月。
夏休みが終わり、学校が始まった。
俺の日常は、あまり変わらなかった。
自分の家で紫蜘蛛と一緒に暮らして、怪異を倒す。
たまに資料室に行って花子と話し、今昔堂やいぶきさんの家で遊ぶ。
変わったのは、それくらいだ。
日常以上に変わったのは、俺自身と紫蜘蛛だ。
紫蜘蛛は餓鬼大将との戦い以降、噛み癖がついてしまった。
構って欲しい時や甘えたい時、戦闘中に興奮した時に、よく首筋に甘噛みしてくる。
悪い気はしないし、スカーフで隠れるから問題はないんだが、首元にはまあまあな数の噛み跡がついている。
俺の方は、身体能力が以前よりも上がっている。
垂直跳びは二メートルを超えるようになり、百メートルを全力疾走しても息切れしなくなった。
りんごを片手で潰せるようにもなったし、少し集中すると五感全てを鋭敏にできる。
──まだ人間の範疇だが、このままいくといずれ人間を辞めることになる。
そんな確信があった。
紫蜘蛛と一緒にいられるなら、人間を辞めても構わないと思う自分と、そんな自分と紫蜘蛛を強く拒絶する自分がいる。
それが、怖い。
俺は俺自身が分からなくなってきていた。
かといって、紫蜘蛛には相談できない。
彼女を心配させたくない。
そんな状態が半月ほど続いた頃、異変が起きた。
『──暁人。朝よ』
『──朝食、もうできてる』
紫蜘蛛の声が聞こえる。
だが、何故か身体が動かない。
瞼が、開かない。
いや、開けさせてくれない。
──ダメだ。
──彼女に近づくな。
俺じゃない俺の声が頭に響く。
餓鬼大将の一件から、この幻聴は急激に頻度を増していた。
紫蜘蛛を疑い、否定する声。
俺は彼女を信頼しているはずなのに、それを否定する俺。
「──悪い、紫蜘蛛。ちょっと気分が悪いんだ」
布団に潜り込み、静かに答える。
『──大丈夫?』
『──私が、相談に──』
「大丈夫だ」
紫蜘蛛の声を最後まで聞けなかった。
遮るように、声を荒げる。
瞬間、やってしまったと後悔が全身に走る。
『──そう』
「……っ。ごめん、紫蜘蛛。急にでかい声出して」
紫蜘蛛が無言で俺の中に戻る。
引き止める言葉は、出てこなかった。
普段はここで甘噛みが来るんだが、今日は無かった。
首元のスカーフを握る。
苦しさ、辛さ、後悔。
様々な感情が乗り、力が入る。
涙と吐き気が止まらなくなる。
その後、フラフラとトイレに入り、胃の中の全てを吐き出した。
「──なるほど。それで僕に相談に来たと」
吐けるだけ吐いた後、今昔堂に駆け込んだ。
加古川さんも、お菊も蘭丸も、俺の顔を見て慌てていた。
余程ひどい顔をしていたらしい。
加古川さんに泣きながら全部話した。
俺が俺ではなくなる恐怖。
紫蜘蛛と、彼女を信じる俺を否定する俺の声。
紫蜘蛛に辛く当たってしまったことの後悔。
加古川さんは、静かに全て聞いてくれた。
「ひとまず、コーヒーとカステラでも食べて落ち着きなさい」
「話はそれからにしよう」
加古川さんに背中をさすられながら、ゆっくりとカステラとコーヒーを食べる。
いつもは、紫蜘蛛が『私も食べたい』と出てくるのに、出てこない。
寂しさと後悔で、涙が溢れる。
加古川さんは変わらず無言でそばにいてくれた。
「──落ち着いたかい?」
「……はい。ありがとうございます」
とても長い時間をかけて、カステラとコーヒーを完食した。
加古川さんが立ち上がり、俺の向かいに座る。
「それじゃあ、どこから話すべきかな」
「……俺の身体の異変は、なんなんですか」
「紫蜘蛛の糸がなくても、身体がどんどん強くなってる」
「頭に紫蜘蛛を否定する声がずっと響いてる」
抑えていた不安が、一気に溢れ出す。
「俺は一体、どうしちゃったんですか!?」
感情が昂り、声を荒げる。
そしてまた、吐き気が襲ってくる。
「……今の八重原くんは、大きく揺れ動いている状態だ」
「短期間で人と怪異の間を行き来したせいで、身体と心が不安定になっている」
加古川さんが宥めるように口を開く。
「君の怪異化は少々特殊でね」
「君自身が怪異になったケースと、紫蜘蛛くんと混ざりかけたケースの二つを経験している」
「──俺自身が、怪異に?」
加古川さんの言葉を聞いて、四つ目の怪物を思い出す。
「君自身、覚えてはいないだろうけどね。餓者髑髏と戦った時に、紫蜘蛛くんの力を強引に取り込んで怪異になったんだ」
「……火那森くんたちから聞いた話だから、あくまで僕の推測だけどね」
コーヒーを一口飲んで、続ける。
「君に話しかけてくる幻聴は、おそらくその怪異化した時の君自身だろう」
「あそこで発現したせいで、怪異化した八重原くん──そうだな、仮に“八重蜘蛛”と呼ぶことにしよう」
「八重蜘蛛が生まれてしまった。君とも紫蜘蛛くんとも違う、第三の存在がね」
加古川さんの話を聞きながら、自分の手を見る。
俺の中に、俺がいる。
それも人でなくなった俺が。
気味が悪くて身体が震える。
無意識に、スカーフを握りしめた。
「八重原くんのような事例は、僕は見たことがないからね。何も断言できないのが正直なところだ」
「そう、なんですか」
か細い声で、相槌を打つ。
震える手で、コップの水を一口飲む。
むせそうになりながら、なんとか飲み下す。
「八重蜘蛛が紫蜘蛛くんを拒否するのは、おそらく単純に彼女が邪魔なんだろう。同じ器を奪い合う競争相手だからね」
顎を撫でて、加古川さんが考え込む。
やがて懐に手を入れ、一枚の札を取り出した。
「……このまま話しても、君を不安にさせるだけだろう」
「ここは一つ、本人に聞いてきてもらおうか」
「……なに、を──」
言い終わる前に、札が胸元に貼られる。
意識が急激に混濁する。
「これから、君は自分自身と向き合うことになる」
「君の今後にも関わることだ。苦しいだろうが、気をしっかりと保つんだ」
「──どうか、自分と紫蜘蛛くんを──」
意識が暗闇に沈んでいく。
周りの音が、景色が消えていく。
やがて、全てが暗闇に溶けていった。




