笑う絡新婦と、その手を取った俺
無限にも思える時間が過ぎた。
この場にいる全員が、限界まで張り詰めた糸のように緊迫している。
堰を切るように、加古川さんが目の前の女─"絡新婦"に話しかける。
「君に名前はあるかな?いつまでも"絡新婦"では、色々と不便だろう?」
《─紫蜘蛛─》
また、糸を伝うように俺に聞こえてくる。
どうやら、俺にしか聞こえていない。
敵意はない──ように思える。
「紫蜘蛛……その子の名前だ」
無意識に、口にしていた。
さっきまで胸を焼いていた怒り─俺を死なせたことへの激しい憎悪はどういう訳か、ほとんど静まっていた。
女が─紫蜘蛛がはっきりと反応を示した。
少しだけ顔をあげて、まっすぐ俺を見る。
その口元が、微かに緩んでいた。
「この子のこと、知ってるの?」
火那森先輩が俺を見る。
その瞳には、驚きと疑問の色が濃く浮かんでいた。
「いえ、今教えてくれたんです。こう…糸電話みたいに脳に直接語りかけるような」
紫蜘蛛がゆっくりと頷く。
彼女から"嬉しい"という感情が伝わってくる。
「へえ…物理的な糸による繋がりだけじゃなく、概念的な糸でも結ばれている、と」
狐火は顎に手を当て、俺と紫蜘蛛を交互に見た。
《──》
「…狐火さん。紫蜘蛛が、怖がってます」
いつの間にか、俺は彼女の通訳係になっていた。
「おや、一丁前に敵意には敏感らしい。伊達に"名前を得るまで"生きてはいないってとこかな?」
狐火が少し構えを崩す。
素人目には分からない。だがどうやらかなり警戒しているようだった。
「うーん…どうも八重原くんに通訳を頼んでいるようだねぇ。何故、自分の口で語らないんだい?」
加古川さんが身を屈めて、紫蜘蛛に問いかける。
《─疲れてる─》
《─貴方の治すのに─力を使って─》
「俺の治すのに…ほとんど力を使い果たした、そうです」
──驚いた。
あの場で俺が死ぬ原因を作ったのは紫蜘蛛だ。
だが、俺が死なずに済んだのも彼女のおかげだった。
一体なぜ?
分からない。目的も意図も、何も。
「じゃあやっぱり…あれは貴女がやったのね」
確信を得たように先輩が言う。
それに応えるように、紫蜘蛛は頷いた。
初めて、俺以外の相手に反応を見せた。
「なるほど。…君自身の言葉で意図を聞けるようになるには、どうすれば良いのかな?紫蜘蛛くん」
小児科の医師のような口調で、加古川さんが聞く。
穏やかではあるが、どこか尋問めいている。
《──貴方と、話がしたい─》
《─こっちに、来て─》
彼女の言葉と同時に、足が前に出た。
俺の意思じゃ、ない。
「─!?」
場の空気が一瞬で張り詰めた。
先輩は俺の肩を掴み、狐火は刀に手をかけている。
加古川さんは既に両手に札を構えていた。
《──》
悲しみが、流れ込んでくる。
警戒されるのは当然だ。
だが、彼女には本当に敵意はない─そう感じる。
「…大丈夫です、多分」
先輩の手をそっと外し、紫蜘蛛に近づく。
今度は自分の意思で。
「だが、そいつは君を─!」
「彼女に直接殺されたわけじゃない。だから、話してみます」
張り詰めた空気の中、紫蜘蛛の前でしゃがむ。
彼女に目線を合わせる。
「さあ、何から話そうか?」
《──!》
彼女から歓喜の念を感じた瞬間。
紫蜘蛛が──消えた。
いや、違う。
俺の視界が奪われた。
視覚だけじゃない、聴覚も。
皆の声が、遠くでくぐもって聞こえる。
大丈夫だと伝えようとしたが──
その前に、意識が落ちた。
〜〜〜〜〜〜〜
意識が戻ってくる。
そこはもう、書店じゃなかった。
真っ暗な空間。
光はない。だが──そこかしこに真っ白な蜘蛛の巣だけがはっきりと見える。
皆の姿はない。
音もない。
──いや。
一つだけ聞こえる。
キシ、キシ、と。
糸の軋む音だ。
音の方を向くと、紫蜘蛛が糸の上を器用に歩いて、こっちに近づいてくる。
そこでようやく気づく。
俺もまた、その蜘蛛の巣の上にいた。
蜘蛛の巣にかかった蝶を思い出し、心臓が跳ねる。
だが、危機感を覚えたのはその一瞬で、直後に気持ちが鎮まる。
「─良かった。ようやく、ここまで来れた」
声が鼓膜を振るわせる。
さっきまでの、糸を伝うような"念"ではなく。
紫蜘蛛自身の"声"だった。
一度深呼吸をして立ち上がる。
不思議な事に、落ちる心配は微塵もなかった。
「聞きたいことは山ほどあるが…いいか?」
「─ええ」
お互いに一歩ずつ近づく。
「君は誰だ?」
「─紫蜘蛛。あの祈祷師もどきの推察通り。絡新婦の、紫蜘蛛」
「ここはどこだ?」
「─私と貴方の、深層意識。分かりやすく言うなら、夢の中」
「何故、俺の中にいる?」
「──さあ、何故かしら」
お互い、顔を突き合わせる距離まで近づく。
「……何故、あの時あの場所に連れてきた?」
「─ああでもしないと、貴方に直接会えないから」
─ここがどうしても理解できない。
危険な場所に俺を連れていく。
それのどこが、俺と会うために必要なのか。
「俺が死ぬことは、分かっていたか?」
「─ええ、多分、死ぬだろうとは思ってた」
怒りがまた込み上げる。
……やっぱり、敵か。
だが、紫蜘蛛はまっすぐ俺を見る。
目は隠しているはずだが、確かに俺の目を見据えていた。
「─でも、死んでも。治せばいいと、思った」
──ゾッとした。
冗談でもなんでもない。
本気で、俺が死んでも構わないと思っている。
自分が治すから何も問題はないだろうと、心底から思っている。
「死ぬような目に遭わされて、それで蘇らされて…俺がお前をどう思うか考えたことはなかったのか?」
語気が強くなる。
現実世界で感じていた、もしかしたらいい奴かもしれないという感情は、未知の存在に対する恐怖に書き換わっていた。
「─?」
何を言っているのか分からないといった具合に、紫蜘蛛は首を傾げる。
「─だって、こうして会えたんだから、良いでしょう?」
──分かった。
彼女は─紫蜘蛛は、俺たちとは根本が違う。
紫蜘蛛が俺の頬に手を伸ばす。
身体が硬直する。
まるで、蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように。
そして頬に触れたその手は。
ほんのわずかに、温かかった。
──違う。
こいつは俺たちとは違う。
なのに──
硬直した身体が緩み、紫蜘蛛の手を握る。
何故かは、分からない。
「…やり方は最悪だ」
「──」
「それに正直、俺はお前のことが分からない。怖い」
「──ええ」
「─でも、それだけじゃない」
彼女の目を、しっかり見据える。
「だから、お前の事をもっと教えてくれ、紫蜘蛛」
「──!」
紫蜘蛛の頬が緩む。
いや、笑っている。
彼女の笑顔を見て、俺も頬が緩む。
次の瞬間、世界が白に塗りつぶされた。




