第三章 届かない刃
黒狼の依頼を受け、森へと足を踏み入れたレイン。
しかし、そこに待ち受けていたのは、想像を超える魔物の力だった--。
黒狼は、地を蹴った。
次の瞬間には、もう目の前にいた。
「――っ!」
レインは、反射的に身を横へ投げ出した。
黒狼の爪が、鼻先を掠める。
直後、地面が抉れた。土と小石が弾け、乾いた音が森に響く。
転がりながら腰のナイフを抜いた。立ち上がるより早く、黒狼が振り返る。
(速い……!)
視線を合わせた瞬間、黒狼が再び跳んだ。
身を低くしてかわす。頭上を黒い影が通り過ぎ、風圧でフードが揺れた。
着地した黒狼が、地面を蹴って急旋回する。
「なっ……!」
追撃が来る。
ナイフを構え、迫る牙を紙一重で避けた。黒狼の身体が横を通り過ぎる。
(今だ!)
踏み込み、すれ違いざまに刃を振り抜いた。
刃が黒い毛並みを裂く。
(……浅い!)
手応えはあった。だが、黒狼の動きは止まらない。
黒狼は着地と同時に振り返った。
その赤い眼が、レインを捉える。
次の瞬間、黒狼の爪が迫った。
後ろへ跳ぶ。
しかし、わずかに遅れた。
(……まずい!)
爪が外套を切り裂き、その下の腕を掠める。
「くっ……!」
熱い痛みが走った。
数歩よろめき、傷口を押さえる。指の隙間から血が滲んだ。
(傷は浅い。まだ動ける。)
そう判断した直後、黒狼が地面を蹴った。
咄嗟に横へ飛ぶ。
爪が、さっきまで立っていた場所を抉った。
避けたはずなのに、黒狼はすでに次の動きへ移っている。
黒狼が牙を剥き、レインへと喰らいつく。
ナイフの刃を横から当て、牙の軌道をわずかに逸らした。
だが、衝撃までは殺しきれず、腕に痺れが走る。
足元の根に踵が引っかかる。
体勢が崩れた。
黒狼が喉を鳴らし、低く身を沈める。
「……くそっ」
呼吸を整えようとした。
だが、息を吸う暇さえ与えられない。
黒狼が跳ぶ。
身体を捻り、爪をかわす。直後、ナイフを突き出した。
刃先が黒狼の肩を掠め、わずかな血が飛び散る。
黒狼が唸った。
初めて、明確な怒りがその声に混じった。
黒狼は傷を負っても、怯まない。
互いに距離を取る。
ほんの一瞬だけ、森に静寂が戻った。
ナイフを握り直し、黒狼の動きを見つめる。
(脚の踏み込み。肩の動き。
牙を剥く直前の、わずかな重心の変化。
どこかに隙があるはずだ。見極めろ。)
次の攻撃を読めれば、今度こそ深く斬れる。
黒狼の身体が、わずかに沈んだ。
(来る……)
身構えた。
だが、その視線がふと黒狼の胸元に引き寄せられた。
――(何だ?)
そこだけが、妙に気にかかった。
(黒い毛並みの奥に何かがある)
そう感じた。
理由は分からない。見えているわけでもない。
ただ、胸の奥がざわついていた。
目の前にあるのに、見落としている。
そんな感覚だった。
「……?」
動きが、ほんの一瞬止まる。
その一瞬で十分だった。
黒狼が地を蹴った。
「しまっ――!」
身体を捻った。
だが、避けきれない。
爪が脇腹をかすめ、鋭い痛みが走った。
衝撃とともに、身体が宙へ浮く。
「がっ……!」
地面に叩きつけられた衝撃で、息が詰まる。
脇腹に鈍い痛みが広がったが、まだ動けないほどではなかった。
ナイフが手から滑りかけた。
歯を食いしばり、必死に柄を握り込む。
黒狼の足音が近づいてくる。
一歩。また一歩。
その音が、異様なほど大きく聞こえた。
片手を地面につき、身体を起こそうとする。
腕の傷から血が流れていた。
脇腹にも、焼けるような痛みがある。
息を吸うだけで痛む。
それでも、ナイフを構えた。
黒狼が、低く唸る。
(まだ終わっていない)
そう言い聞かせる。
ここで逃げれば、依頼は失敗だ。
報酬も得られない。
何より、また自分の弱さを思い知らされる。
「……まだだ」
立ち上がった。
脚が震える。
それでも、一歩前へ出ようとした。
その瞬間、脇腹に激痛が走る。
身体がわずかに傾いた。
黒狼は、その隙を見逃さなかった。
地面を蹴る。
ナイフを振り上げた。
だが、黒狼の姿が視界から消える。
(速すぎる……)
次の瞬間、横から衝撃が叩き込まれた。
身体が木の幹へ吹き飛ばされる。
背中を打ちつけ、視界が白く弾けた。
「……っ!」
ナイフを落とさなかったのは、ほとんど意地だった。
黒狼が、再びこちらへ向き直る。
その姿を見た瞬間、レインは理解した。
(このまま戦い続ければ、勝つどころか命を落とす)
――それでも。
ナイフを握る手に力がこもった。
炎に包まれた故郷。
倒れた母。
目の前で戦う剣士。
そして、動けなかった自分。
(また……何もできないのか……?)
胸の奥が締めつけられる。
恐怖は消えていない。
身体も、思うようには動かない。
だが、あの夜とは違う。
今の自分には、ナイフがある。
戦う力がある。
周囲へ視線を走らせた。
黒狼との間にある木々。
足元に絡みつく木の根。
少し先にある、狭く入り組んだ地形。
(正面からでは勝てない。ならば、地形を使うしかない……)
黒狼が身を沈めた。
(来る……)
木の幹へ視線を向けた。
黒狼が飛びかかる。
直前で横へ身を投げ出した。
爪が幹を削り、木片が飛び散る。
その隙に、立ち上がった。
走る。脇腹が痛む。腕から血が流れる。
それでも、足を止めなかった。
背後から唸り声が迫る。
近い。
近すぎる。
木々の間を駆け抜け、根を飛び越え、斜面を滑るように下った。
背後で枝が折れる。
黒狼が追ってくる。
振り返る余裕はない。
痛む身体を引きずりながら、必死に走った。
前方に、倒木があった。
身を低くして、その下をくぐり抜ける。
直後、進路を変えた。
背後で、黒狼が勢いを殺しきれず、倒木にぶつかった。
大きな音が森に響く。
その隙にさらに距離を取った。
やがて、木々の間から街道が見えた。
背後の気配が遠ざかっている。
(追ってこなくなったか……。
それとも、まだ森の中でこちらを窺っているのか……。)
確かめる余裕はなかった。
(まずいな……このまま戦えば死んでしまう。)
レインは逃げることを選択した。
森を抜け、街道に出たところで足を止めた。
膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
腕から流れた血が、指先を伝って地面へ落ちた。
脇腹を押さえると、手のひらに赤い色が広がる。
「……くそっ!」
声が漏れる。
討伐は失敗した。黒狼の牙も手に入らない。報酬もない。
それ以上に、悔しかった。
(あれだけ鍛えてきたのに……!)
一人で旅を続け、魔物と戦うために技を磨いてきた。
それなのに、目の前の一体すら倒せなかった。
握りしめていたナイフを見下ろした。
刃には、黒狼の毛とわずかな血が付着している。
確かに、刃は届いた。
だが、倒すには足りなかった。
「……まだ、足りないのか」
呟きは、誰に届くこともなく消えていった。
ナイフを拭い、鞘へ戻した。
そして、もう一本のナイフにそっと触れる。
母の形見。
傷ついた小さな柄を、指先がなぞった。
(あの日、大切な人を二度と失わないために、
強くなると誓った。
それなのに、強さを求めて歩き続けた今も、自分はまだ何も成し遂げられていない)
目を閉じ、短く息を吐いた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
森の奥は、静まり返っていた。
黒狼の姿は、もう見えない。
だが、戦いの最中に感じた胸元の違和感だけは、なぜか頭から離れなかった。
(あの違和感、あれは一体何だったんだ……)
考えても、答えは出ない。
傷ついた腕と脇腹を押さえながら、街へ続く道を歩き始めた。
(今は、傷の手当てが先だ)
黒狼を倒すことはできなかった。
それでも、生きて帰ることはできた。
その事実を、今のレインはまだ、強さと呼ぶことができなかった。
――第三章 了。




