第八節 三分間
イーシャさんの空間障壁は限界が近い。シェンの体表から銀色の毛が抜け落ち始めている。融合同期の恒久的損傷が始まっている。イーシャさんはそれでも障壁を維持し続ける。あと少し。あと少し──
私はタマを抱いて炉心区画に入る。原子炉の格納容器の傍。冷却水の音とは違う、低い連続音がその場に響いている。シェンの障壁が代行者に抵抗している音。
タマをその場に降ろして、もらったインカムで源三さんに合図する。
「今!お願いします!」
制御室で源三さんが制御棒操作レバーを押し上げる。
炉の唸りが変わる。低い振動から、高く鋭い振動へ。建物全体が共鳴する。計器の針が跳ね上がる。定格の5%から現在の限界の50%、100%、102%、104%──
「A系統圧力上昇、緑!」ポンプ室に位置した技術者の声が響く。
「C系統圧力上昇、緑!」別の技術者の声。
出力が107%に到達した。計算上の限界を超える。
タマが喉を鳴らす。老いた猫の低く不規則な喉鳴り。その振動が原子炉の電磁場と共鳴し始める。格納容器の周囲の空気が振動し、可視光が明滅する。タマの体が発光する。これまでにない強さで──しかしその光は安定しない。揺らいでいる。タマの因子は枯渇寸前であり、最後の力を絞り出している。
タマが同期の第三段階──融合に入る。タマの知覚が私の神経系に完全に流れ込む。タマが感じているすべてが私の体を貫く。炉の振動。電磁場の揺らぎ。そしてその向こうに──フォージの制御言語の「糸」が見える。因子を通じて世界に張り巡らされた、見えない命令の網。
タマの「方言」が、炉の電磁場に乗って増幅される。微弱だった信号が、原子炉という巨大な増幅器を通じて、地響きのような干渉波に変わる。干渉波がフォージの制御言語の網に触れるたびに、網が震え、ほつれ、綻ぶ。
代行者が変調を起こし始めた。イーシャさんの障壁を侵食していた力が弱まる。代行者は初めて「想定外」を経験している。自分の制御体系を内側から崩す信号──設計図にない受信パターン──が、自分の「作品」から発せられている。
危機感を感じた代行者は多少の力場破損は容認して、強引に炉心に突進してイーシャさんの障壁を打ち破った。イーシャとシェンが吹き飛ばされる。イーシャさんの意識が途切れかけるが、シェンが最後の力で空間跳躍を発動し、イーシャさんと自分を安全な場所に退避させる。シェンの因子も、ここで燃え尽きた。敷地に投げ出されるイーシャさんとシェン。そのまま両者とも気絶してしまう。
光が明滅し始めた代行者が炉心区画に到達する。私とタマの前に、空間を歪める存在が迫る。
「Aライン圧力──黄色に入った!」
「Cライン圧力も黄!」
配管が限界に近づいている。あと何十秒持つかわからない。
私はタマを抱きしめたまま動かない。動く必要がない。タマの仕事は「鳴ること」であり、私の仕事は「タマの因子を炉の電磁場に乗せ続けること」。逃げることでも戦うことでもない。ここに立ち続けることが、二人の戦い。
干渉波が最大強度に達する。代行者の存在を支える座標系が崩壊を始める。代行者の「形」が揺らぎ、空間の歪みが不安定化する。
「A系統──赤に入る!」
源三さんが出力を一瞬落とす。107%から98%へ。心臓マッサージのような急激な変動。配管にかかる圧力が一瞬緩み、破裂の寸前で踏みとどまる。しかし出力を落とせば干渉波も弱まる。代行者の崩壊が止まりかける。
源三さんが再び出力を上げる。98%から109%。設計限界をさらに超える。
「C系統──赤! 赤です!」
「B-17のバルブから蒸気が漏れてる!」
若い技術者が走る。B-17バルブ。あの石川が命がけで閉めたバルブだ。応急修理の箇所から蒸気が噴き出している。配置の技術者がバルブに取りつき、増し締めする。薄い電工用の手袋だけで。吹き出している100度を優に超える高温の水蒸気が手も体も包み込む。手はボロボロに焼けて崩れていくが、離さずに回し続ける。
タマの喉鳴りが変わる。低く長い振動から、高く短い振動に。私の中に流れ込むタマの感覚が急速に薄くなっていく。因子のエネルギーが底を突きかけているんだ。タマの体から光が消え始めている。
自分の中にタマの体を感じる。軽い。いつも不遜な態度の偉そうな猫はこんなに軽かったっけ。骨と皮ばかりの老いた猫の体。その今にも折れそうな体が最後の振動を絞り出している。
猫の体を守るように背中を丸めてタマを包み込む。「──もう少しだけ」と呟く。タマに向かってではなく、一体化した自分たちに。
タマの喉が、最後の長い振動を発する。低く、深く、かすれた音。老猫だけが出せる、長い生の蓄積が詰まった振動。それが炉の電磁場と共鳴し、最後の干渉波となって代行者の座標系を完全に崩壊させた。
代行者の存在が空間から剥離していく。歪みが消え、重力が正常に戻り、空気が元の温度を取り戻す。フォージの地球上の存在が、消える。
「全ライン──圧力降下中。安定に向かってる」
源三さんが出力を通常に戻す。107%から85%へ。そして元の定格5%へ。損傷した炉を労わるように、ゆっくりと。計器室で、ポンプ室で、パイプ前で、技術者たちが崩れるように座り込む。
タマの体から因子の光が完全に消えている。喉鳴りが止まっている。
私の腕の中で、タマが目を閉じている。お腹が上下している。鼻もピクピク動いている。死んではいない。ただ、ひどく疲れた老猫がそこにいる。もう因子の気配はない。同期の感覚もない。自分の神経系からタマの知覚が消え、世界が「自分の目と耳だけ」に戻る。
静かだ、と私は思う。もう猫の声も契約者の声も聞こえない。こんなに静かだったのか、世界は。




