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9-1 前兆

 夜は早かった。


 夕食の匂いが廊下に残っているうちに、寮の空気がまた硬くなる。

 そういう空気は音を割る。割れた音は、返事の形で落ちる。


 わたしは自室の机の上に、残りの状態札を並べた。

 △、○、□。

 どれも薄い紙なのに、重い。

 重いほど現実に引かれる。

 現実に引かれるほど、黒幕に引かれにくい。


 机の端には、あの布包み――ヘアピンと紙片が入ったまま、仮の境界で包まれている。

 守った子に渡したはずなのに、ここにある。

 正確には、彼女が「返事をしない」ために一晩だけ、共有棚に置いたままにした。

 “所持”にしてしまうと、確定が走る。

 怪異は確定が好きだ。


 わたしはその判断を後悔しそうになる。


 後悔は重い。

 重いほど交換に向く。

 黒幕に渡してはいけない重さ。


(渡すな。止めろ)


 わたしは□札の角を指先で押さえた。

 停止。

 感情を、いまだけ停止する。


 そのとき、廊下のスピーカーが擦れた。


「……放送委員より……」


 日常の音。

 日常の文句。

 なのに、語尾だけが擦れている。


「……点呼を行います……」


 喉が一瞬だけ乾いた。


(点呼? 寮の点呼は終わったはずだ)


 スピーカーの中で、紙が擦れる音がした。

 名簿をめくる音。

 図書館のページとは違う。

 生活に馴染んだ名簿の音だ。


 あれは“はい”を集める音。


 刻印が冷え、胸の奥の針が起き上がる。


【警告】返事強制イベント:再来(校内放送)

【危険】寮内反響:喉化(再加速)


 放送は続いた。


「二年――……」


 学年を呼ぶ。

 呼んだ学年が「はい」と返す。

 そんな仕組みが、校内全域に広がったらどうなる。


 校舎そのものが喉になる。


 立ち上がった。

 走りたい。

 でも走れば呼吸が乱れて声が漏れる。


 わたしは走らず、早歩きで廊下へ出た。


 寮の廊下には、すでに何人かが顔を出していた。

 寝間着のまま。

 不安そうに。

 でも、その不安のままに、スピーカーへ返事をしてしまいそうな顔。


「え、なに? 点呼って……」

「夜にやるの?」

「先生の声じゃないよね?」


 わたしは声を出さない。

 ここで声を出すと、その声が誰かの返事を引っ張る。


 わたしは手を上げ、落ち着けの合図を作る。

 指を一本立てる。

 それから、胸の前で□の形を描くように指で空をなぞる。


 停止。

 止まれ。

 返すな。


 けれど、人は日常の規則に弱い。

 放送の言い方が“いつも通り”に似ているだけで、身体が勝手に返事を作ってしまう。


「……はい」


 どこかの部屋から、小さな声が落ちた。

 続いて、別の部屋から。


「はい……」


 声が増える。

 増えた声が反響して、寮の壁の内側を濡らす。


 ……はい……


 ……はい……


 わたしは喉を閉じる。

 閉じたまま、名を握る。


(汐見、灯子)


 この状況を止めるには、“終端”を校内放送に差し込むしかない。

 でも終端札は薄い。

 薄い札で、校内全域の喉に勝てるわけがない。


(札だけじゃ足りない。――終端の“場”を作る)


 わたしは理解する。

 終端は札の形ではなく、空間の形だ。

 札はその鍵に過ぎない。


 そして空間の形を作れる場所が、どこかにある。


 鐘楼裏。

 名簿室。

 封庫。

 あそこは喉の核。

 核を止めれば、全体の喉が痩せる。


(結局、行くしかない)


 放送が続く。


「……汐見灯子……」


 フルネーム。

 きれいな発音。

 偽物の丁寧さ。


 喉が反射で返事を作りかける。


「……は――」


 一音。

 “はい”の入口。


 わたしは即座に△札を床へ落とした。

 拒否。

 呼名を拒む。


 落とす音は小さい。

 でも夜の廊下では十分に響く。


 喉が閉じ、声が引っ込んだ。


【終端:成功(拒否)】

・フルネーム呼名→途中遮断

・返事:未発生


 しかし、放送は止まらない。


「……次。……二年――」


 名を呼ぶ。

 返事を集める。

 交換を成立させる。


 黒幕は、わたし個人の喉を狙う段階を越えて、学院全体を喉にしようとしている。


 背中に冷汗が滲んだ。

 冷汗は現実だ。

 現実は怪異の外側だ。

 けれど冷汗は同時に、恐怖という燃料でもある。


(燃やすな)


 わたしは自室へ戻り、机の上の札をまとめて取った。


 掴まない。

 折り曲げない。

 札は折れた瞬間に“確定”する。


 札を紙封筒に滑らせ、境界を挟む。

 封筒の上に□を描く。

 手書きではなく、指でなぞるだけ。形だけ。


 止める。

 折らせない。

 奪わせない。


 廊下に出る。


 守った子の部屋の前で、わたしは足を止めた。

 扉の名札はまだ薄い。

 薄いけれど、昨日よりほんのわずかだけ戻っている。


(鈍化は効いてる。……でも今夜、また削られる)


 ノックはしない。

 ノックは問いかけ。問いかけは返事になる。

 代わりに、扉の下の隙間へ、小さな紙片を滑り込ませた。


 そこには一文字だけ。


 □


 停止。


 彼女がこれを見て、返事を飲み込めるように。

 飲み込むだけで喉が閉じるように。


 返事を求める放送の声が、寮中に降り注ぐ。


「……はい……」


 「はい」が増える。

 増えた「はい」が、校舎へも流れていく。


 わたしは寮を出る決意を固めた。


 今夜――鐘楼裏へ。


 だが、ひとりで行かない。

 先生の言葉が刺さる。


 わたしは“人”を連れていかない。

 守った子も巻き込まない。


 連れていくのは、紗灯の影。

 そして、終端の手順。


 玄関を出る前に、わたしは一度だけ立ち止まり、足元の影に視線を落とした。


『……おねえちゃん……

 いく……?

 いま……?』


 返事はしない。

 代わりに、指で○を小さく描いた。


 完了。

 迷いはここで終わり。


 そして、□を描く。


 停止。

 恐怖はここで止める。


 靴を履き、寮の外へ出た。


 夜の空気は冷たい。

 冷たいのに、どこか湿っている。


 校舎の窓のどこかで、スピーカーの光がちらつく。

 点呼の放送が続いている。


 その放送の中に、わずかに混じる音がある。


 紙が擦れる音。

 名簿がめくられる音。


 わたしはその音を背に、裏通路へ向かった。

 鐘楼の影へ向かった。

 名簿室の核へ向かった。


 ここから先は、戻れない。


 けれど、戻らない。

 守るために。

 紗灯のために。


 そして、自分の名を奪われないために。


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