④−8 幻影(ファントム)
あざみのビル街で加納さんを見かけたんだ。友達らしい他の女の子たちと楽しそうに話しながら、雑居ビルに入っていった。喫茶店と企業のオフィス、小中学生向け学習塾が入居してるとこ。
「……」
ほっとした思いはあった。あの子が受験を諦めず、別の塾で勉強を続けていることに。
でも、ぼくが青葉にいなければ、あの子は学ぶ場所を替える必要なかったんだ。それは事実。
「皆ヶ崎ってさー、あいつ何なん? 男のくせに女のトイレ入ってるって」
「だからそういう病気なんだろ。体は男で心は女」
「あの顔で女になりたいとか、きも」
らせん階段を歩いているとき、上の方から聞こえてきた声。
少なからずそういうふうに思ってる子はいるんだろう。真実は違うけどぼくは否定しないし。
「でも一番むかつくのは、中学のテストで一位取ってるのに、小学生のクラスにいることだよな。おれら、いくらがんばってもほめてもらえないじゃん、格が違いすぎて」
いなきゃいーのに。
その言葉に傷つかなかったわけじゃない。ぼくにもハートはある。
でも、そう言わせるようなことしてるのはぼく自身だ。
「やあ」
廊下で話してた彼らのそばを通って、ぼくは教室に向かう。
「お、おう」
大丈夫、挨拶は返してくれた。
ごめんね。目障りでも、ぼくはここにいると決めてる。
塾のない曜日、バイトの帰りに花屋に寄った。しばらく休んでる子のお見舞いのため。
真紅の薔薇が、この上なく美しかったんだ。高潔で、堂々としていて。
(さすがにI love you.はまずいだろう)
買うものは決めて店に入った。感謝を表すピンクのバラ。お母さんのお花辞典で調べたんだ。
「これを五本と、かすみ草もつけて下さい」
「かしこまりました。プレゼント用ですか?」
「はい」
全体をフィルムで包み、茎の先には水を染み込ませた紙を巻く。その上から銀紙。かわいい黄色のリボンも結んでくれた。
「ありがとうございましたー」
ほのかに香るバラの吐息。
少し緊張していたんだ、彼女の家を訪ねるのは初めてだから。
住所は三年二組のクラス名簿で調べた。家の場所は町の地図を開いて。
戸建て住宅が並ぶ通りにある、比較的新しそうな二階建て。
玄関に立ち、呼び鈴のボタンを押そうと手を伸ばした瞬間、いきなり吠えられてびっくりした。
「わっ」
尻餅をつきそうになった。
ドア横のガラスに茶色いのが映ってる。結構でかい。
「ラッキー静かにして」
中からこの家のお嬢さんの声。すぐに鎖を外す音がした。解錠され、ドアが外向きに開く。
現れたのはパジャマにカーディガンの女の子。足元のコリーはぼくを警戒してる。
「やあ。ずっと学校も休んでるって聞いて」
もう二週間になる、最後に塾で会ってから。
「大丈夫?」
「……」
ぼくは花束を彼女に差し出した。
「これお見舞い。早く元気になって」
「ありがと」
よかった。八芝さんは受け取ってくれた。
「きみが塾に来るの、待ってる。じゃ」
ぼくは門の方を向いた。
「待ちなさいよ。お茶ぐらい出すから」
八芝さんのご両親はお勤めをしている。お父さんは新聞記者、お母さんは出版社の編集の仕事。
(昼間は誰もいない、彼女と犬しか)
ぼくんちだったら、お母さんが家にいてくれるから、病気のときはお世話してもらえるけど。
パチンとはさみで茎の先を切る。八芝さんが「お母さんにやってもらう」と言うので、それならぼくがと生けるのを任せてもらった。夜まで待ってたら傷んじゃうからね。
「そうやって、斜めに切るのどうして?」
麦茶の載ったお盆を持って、洗面所に来た八芝さん。ラッキー連れてる。
「こうすると切り口が楕円になるだろ。円のときより穴が大きくなって、より多く水を吸い上げられる」
「なるほど……」
ぼくは最後の一本を花瓶に挿し、簡単に整えた。
「器用なものね。すごくきれい」
「見様見真似。それに、花が元気だからだよ」
二階の南向きの部屋。壁には男性アイドル五人組のポスターが張ってある。彼らのCDアルバムも棚に。
本棚には世界の名作、偉人の伝記が並んでるけど、タイトルからして恋愛物と分かる少女マンガも仲良く同居していた。
「いい部屋だね」
ぼくは勉強机の椅子を借り、八芝さんはベッドで半分お布団を着てる。
「ごちゃごちゃしてるけど」
八芝さんは、水滴の垂れるコップの中身を少し飲んだ。濡らさないよう、お盆をひざに置いて。
机の上には参考書や問題集、ペン立て。小さいかごにはぼくがあげた赤い髪留めが入ってた。
「ただの風邪なの。昨日まで鼻水が止まらなかった」
「そういえば少し鼻声だね。熱は?」
「最初の頃はあったけど、今は大丈夫」
「そっか」
ちょっと安心。
「あんたはどうなの。その様子だと、塾には行けてるのよね?」
ぼくのこと心配してくれてる、八芝さん。
「うん、ちゃんと行けてるよ。お陰でね」
「そう、よかった」
クラスから一人いなくなったことや、山口くんの事情は伏せておくことにした。まだ本調子じゃない人に話すようなことでもない。
「あの日は本当にありがとう。きみが味方になってくれたから、ぼくは居場所を失わずに済んだんだ。今ぼくを受け入れてくれてる子たちは、きみの行動・言葉の影響を受けているはず。だから、感謝してもしきれない、八芝さんには」
「……」
部屋の中は静かだった。ぼくが立てた氷の音以外聞こえない。
俯いた八芝さんは、「あたしのこと何か言ってなかった?」と、どこか弱々しげな声でたずねた。
「誰が」
「あの場にいたみんな」
「特に誰も、何も言ってないよ」
少なくてもぼくは聞いてない。
「山口が、あたしに言ったのよ、なんであんたのことそんなにかばうのかって」
友達だから。三年二組の学級委員だったから。正義感。
答えならすぐ思い浮かんだ。
「何て答えたの」
「答えられなかった」
「……」
ぼくは八芝がいない方を向いた。廊下につながる木目のドア。
「あんたのこと好きなんじゃないかって言われて、答えられなかったの。違うと言えなかった、あたし」
声が震えてる。あのとき体を震わせてたみたいに。
「もしあんたのこと好きだったらどうしよう」
本当はうれしい言葉なんだ、ぼくのこと好きって。
好きだったらどうしようじゃなく、好きと言ってほしい。本心ではそう。
なぜならぼくも八芝のことが好きだからだ。衝動を抑えなくていいなら、さっきの花屋で赤いバラを選んでいた。
「客観的事実だけを言うよ。ぼくには恋人がいて、その人とは将来の約束もしてる。実際ぼくは、その人のことをとても大切に思っている」
傷つけたくはない、八芝のこと。
「加えて、ぼくの体の性別は女性だ。優美が本物で、皆ヶ崎雄二は仮の姿――幻影なんだよ。ぼくは最初から存在しない」
「分かってるわよ、そんなこと」
「きみを苦しめたくないんだ」
ぼくは立ち上がり、八芝が持っていたコップを机に置いた。
「!」
してはいけないことをしてる。彼女を抱きしめるなんて。
「本当の気持ちは口にするわけにいかない。でも両想いなのは事実だ」
「皆ヶ崎……」
ああ、ずっとこうしていたい。ニ年生のときから、ぼくは八芝を意識してた。
「泥沼に突き落とすようなこと、したくないんだ。好きだからって付き合えば、きみを苦しめることになる。こういうことで、順位つけられるの嫌だろう? 隠れてこそこそ会うとか、日陰の存在なんてきみには似合わない。堂々としていてほしい」
ぼくは八芝から体を離した。
目に涙をいっぱい溜めた女の子を見た。
「要するに、諦めろってことよね」
さびしそうな笑顔。
「大切にしたいんだ、さやのこと好きだから。友達でいてほしい」




