④−5 余波(1)
気持ち悪いと言って教室を出ていった子を、ぼくは追いかけなかった。
あの後すぐチャイムが鳴ったし、ぼくに関することで山口くんとやり合い、体の震えが止まらない八芝さんの方が気になったから。
実際追いかけていたとして、何が言えたかなんて分からない。向こうが聞く耳持たなかったかもしれない。
でも、後悔はした。何日か経った後に。
三時間目の社会の授業中、ぼくは職員室隣の面談室にいた。
机が一つと、パイプ椅子がいくつかあるだけの部屋。通塾開始前、ぼくは隆夫に付き添ってもらって、ここで先生たちにトイレのことで相談をした。だから入るのは初めてじゃない。
「嫌な思いをさせたな、申し訳なかった。どうして他クラスの子がわざわざ教室に来てあんなことを言ったのか分からないが、あちらの担任には厳重注意してもらう」
算数を教えてくれている、欧立クラス担任の大井先生。脂がのってる三十代。
「いえ、それには及びません。ぼくは気にしていませんので。特に注意などはしていただかない方が」
山口くんの性格をよく知らないけど、もし逆恨みをするような子だったら困る。ぼくは自分の身を自分で守れない小物だ。
「大井先生、皆ヶ崎くんの意思を尊重してあげて下さい。大人が関わらない方がうまく行く場合もありますから」
教生の朝香先生。一時間目は英語、あの後すぐの教室の雰囲気を知っているからここにいる――のだと思いたい。
バックに隆夫がいるからじゃなくて。
「そうだな、では注意などは求めないが。皆ヶ崎くん、何かあったら必ず相談するんだぞ」
「はい、お気遣いありがとうございます」
ぼくは笑顔でそう答えた。
「冷静に説明ができそうな何人かから話を聞いた。彼は、うちの教室に入ってきて、その場にいた生徒たちに言ったそうだ――きみが女子の手洗いを使っていることを」
「他には」
「男子の振りをしているが、本当は女子、とも」
あざみの小にいたときと同じだな。今度は逃げ出すわけにいかない。
「でも他の子が、雄ちゃんの体は男の子だと。幼稚園のとき見たって」
「じゃあ男子のくせに女子トイレに入ってる、変態ということになりますかね」
気持ち悪いってそういうことかと分かった。
「そこでさやかちゃんが、人のプライバシーに踏み込むべきじゃないって、みんなに言ってくれたの。後はさやかちゃんと隣のクラスの男の子のやり取り。内容は割愛するわね、あの子自身の話になってくるから」
「……」
その八芝は、ニ時間目が始まる前に帰った。
「ぼくのことにいろんな人を巻き込んでしまいましたね。授業に集中できない子もいるでしょうし。本当にごめんなさい、ご迷惑おかけしています」
普段は楽しい歌の時間も、今日に限ってみんなの声は沈んでいた。気のせいじゃなく。
「きみは何も悪くないよ」と、やさしい顔をする大井先生。
確かに物理的には、ぼくはいつも通り教室に入り、授業を受けただけ。
でも性別不明な人間が女子トイレを使っているという事実は、みんなにとって不快だろう。
「ぼくは退塾になりませんか」
向かいの担任にたずねた。
「そうなる理由がない。第一、“皆ヶ崎くん”を退塾させたとなれば、一緒にやめる子が続出する。入塾理由にきみの名前を挙げた子は、一人や二人じゃない」
「雄ちゃんは、青葉クラブの広告塔だもの」
朝香先生はにっこり微笑む。
ぼくはちゃんと特待生としての義務を果たせていたのか。少しほっとする。
「保護者からも聞いている、きみは何人かの生徒に、算数や英語、理科などを教えてくれているそうだね。お陰で家で机に向かう時間が増えたと、感謝の声があった。我々よりきみの方が、生徒のやる気を引き出しているらしい」
さすがカリスマ、と朝香先生。
「宝を捨てる気はない」
教室に戻って授業を最後まで受け、帰り支度をしていたところ、金髪三つ編みの女の子がぼくの前に来た。
「雄二、一緒に帰りましょう」
計算通りなんだ、先生がぼくのことを捨てないと言ったのは。
これまでずっと、塾側がぼくにここにいてほしいと思う理由を作ってきた、確実に。
(別に天才じゃないからさ、小四で中二の勉強するって、そんなに楽でもない。やっぱり難しいと感じながらやってる)
でも、教室にいる一人一人がぼくを受け入れてくれるかは別の話だ。同じ空気すら吸いたくないという子もいるだろう。
今手をつないでくれている涼ちゃんだって、気が変わることはあるかもしれない。
「もしみんなでぼくのこと無視しようって流れになったら、そうしてくれていい。きみが居づらくなったら困る」
「あらわたしは、せっかくの音楽友達を失ってしまうのかしら? 嫌だわ、そんなこと」
ふふ、と涼ちゃんは笑う。
二階に着き、重いガラス扉を外に向かって押した。ぼくは涼ちゃんを先に通してあげる。
「いつもありがとう」
レディファーストってやつ。女の子にはやさしく――小さい頃からお父さんに教えられてきた。
「わたしが何者であろうと、あなたは普通に接してくれるでしょう。ガイジンなんて呼ばない、けれどわたしたちの文化は尊重してくれる」
夜風が吹くあざみののビル街で、中英ハーフの女の子はぼくの目を真っ直ぐ見ていた。
「大好きよ、あなたのこと。決して浮ついた気持ちで言ってるわけじゃないの」
「ぼくも、きみが好きだ」
涼ちゃんに出会えてよかった。
次の週、怖れていたことが現実になった。
クラスの人数が一人減ったんだ。教室の真ん中ぐらい、誰も座らない席がぽつんと一つ。あの髪の長い女の子だ、名簿から名前が消えたのは。
志望校を替えてクラス異動したんだったらまだいい。でも塾そのものをやめた可能性もある。先生に聞く勇気はなかった。
そして山口龍太郎くん。
四年のどのクラスにも名前がない。退塾だ。
(ぼくのせいで二人も……)
責任を感じないではいられなかった。




