④−4 オレンジタルト
「わぁ、おいしそうだね。これを僕に?」
組み立て式の箱の中身を見て、うれしそうにする佐藤くん。
火曜日。わたしは彼に、オレンジタルトを作って持ってきた。(レシピは隆夫さんのを見せてもらった)
「お願いだから何もしないで」
今日は雄二じゃなく、優美の姿で青葉に来た。欧立クラスは休みで、他の子に会うことはない。
「何もって、何を?」
佐藤くんはそのうち一個を取り出す。市販の小さいタルト台に、オレンジペースト(多少手を加えた)、実だけにしたオレンジ、ホワイトチョコの飾りとミントの葉を載せたもの。
「山口龍太郎くんを使って、何かするつもりじゃないの? 彼がここの塾生になっているなんて、最近まで気付かなかった」
教室は欧立クラスの隣。ドア横の壁に掲示してある名簿に、その名前を見つけたんだ。
あざみの小・三年二組の集合写真で確かめたから、あの子は“山口くん”で合っているはず。
「僕は何もしないよ。する理由がないからね」
佐藤くんは縁っこを少しかじった。
「理由がなくても、あなたは何かする気がする」
「根拠は?」
「勘」
背の高い王子様は、おかしそうに笑った。
「なるほど直感的だね。女性らしい」
論理的に説明しろと言われれば、説明できることは何もない。
わたしの勝手な思い込みかもしれない。
でも増大する不安の中、わたしは行動を起こさずにいられなかった。
「なかなかいけるよ、このタルト。きみをお嫁さんにしたいぐらいだ」
佐藤くんの冗談は、無視することにした。
「約束して、何もしないって」
「誓うよ、何もしない」
わたしは佐藤くんを、強く睨みつけた。
「破ったら許さないから」
水曜の夕方、ぼくは三階の廊下を歩いているところだった。
後ろからぽんと肩を叩かれて、振り返ると。
「Hi. Tell your sister that I appreciate this present from her.」
八芝さんは、ぼくが机の中にこっそり入れた誕生日プレゼントをつけてくれていた。両耳の辺りに、赤い髪留め。
「Without fail.」
彼女はすぐ教室に入っちゃったから、ぼくの返事は短くしか言えなかった。
「優美からじゃないんだけどさ」
袋に一緒に入れてたカードには、『誕生日おめでとう。――皆ヶ崎』と書いてたんだ。
「まあいいけど」
きみが使ってくれるなら。
土曜のお昼。椎野町にある涼ちゃんの家に呼ばれて、お花が咲く広い庭でハギスをこちそうになったんだ。
羊の内臓を刻み、オートミール(燕麦のシリアル)と一緒に胃袋に詰め、煮込んだもの。お母さんの出身、スコットランドの伝統料理なんだって。
「*****」
エルシーさんの英語は、ぼくには聞き取れなかったけど。
「おいしいです!」
そう返事すると笑顔になったから、言葉以外のところで通じたんだと思う。
「こういう食材ってスーパーなんかじゃ手に入らないと思うけど、どこで買ったの?」
ぼくは隣の涼ちゃんにたずねる。
「市外に専門のお店があるのよ。父が昨日行ってきたの」
小鱈とじゃがいものスープを飲みながら、涼ちゃん。
「じゃあこのお料理はジンさんが?」
斜め前にいる、肩につくぐらいの髪の男性にぼくはたずねた。
「私とエルシーの二人で」
ご夫婦はそこで目を合わせ、微笑み合う。
(仲睦まじいんだ)
ぼくはメインのお肉を味わう。スパイス効いてて香ばしい。
「お二人はどうやって知り合ったんです?」
「私が彼女のおじいさんの主治医だった」
「なるほど」
食事の後は室内で、ホームコンサート。
玄関ドアを開けたところが吹き抜けのホールになっていて、二階へ続く大きい階段の右側に、黒いグランドピアノがどっしりと座っている。
ジンさんは『英雄ポロネーズ』を演奏し、ぼくら三人は暖炉のそばのソファで耳を傾けた。
「すごいですね。プロとして通用するレベルなんじゃないですか?」
ぼくみたいな初級者にとって、ショパンは憧れ。永遠に手が届かないかもしれないぐらい、難しいんだ。
「教えてくれた人がすごかったんだよ」と、ジンさんは笑う。
母の姉がピアニストなの、と涼ちゃんがぼくにささやいた。
その涼ちゃんも次に立ち、ぼくの好きな『トロイメライ』を弾いてくれる。
ぼくが彼女を認識したのは、子どものコンクールを聴きに行ったとき。本当に上手だったから、覚えていた。
その後、塾で同じクラスになり、ぼくの方から声をかけた。トロイメライを弾いていた子だよね、って。
(何度聴いてもいい。“夢”)
三番目はエルシーさん。ジンさんの伴奏で、祖国の民謡を歌った。
英語が違うから、歌詞はよく分からなかったけど、とてもきれいな声だった。歌姫と呼んでいいぐらい。
最後にぼく。ブルグミュラーを披露してもよかったけど、それよりは声の方が得意だから。
自由科で、みんなと一緒に歌ってるし。
涼ちゃんの前奏。左手の低音とともに、右手は静かな和音の四拍子。
「いま わたしの――」
月曜の夕方。
六階で真とおしゃべりして、三階に下りてきたとき、教室の前には利生くんがいた。ドアをふさぐように立っている。
「皆ヶ崎くんだめ、今入らない方がいい」
「どうして」
「山口くんが……」
ごめん、と謝ってぼくは利生くんの後ろのドアを開けた。
「あっ」
足を踏み入れた途端、視線が集まってきた。空気がいつもと違う。
ぼくの机には山口くんが座ってて、その前に八芝さん。
二人は何か話してたんだろうか。
小さい男の子は、天板から降り、ぼくの方に歩いてきた。
「バラしてやったからな、女子トイレ入ってるって」
口角を上げた顔をぼくに見せ、山口龍太郎くんは欧立クラスを出ていく。
ぼくは彼を追わなかった。
くやしそうに拳を握りしめている女の子の後ろ姿。興奮しているんだろう、肩も震えていた。
「八芝」
ぼくはそちらへ近付いていく。
振り返った彼女は――
「ごめん、防げなかった」
気丈だから泣いたりしない。でも怒りすぎて涙が出そう、という雰囲気だった。
「ありがと」
すべてを受け入れるみたいな、隆夫の笑顔を想像して、ぼくはその表情を作った。
それから教室を見回す。いつの間にか利生くんも中に入ってきていた。
「雄二……」
自席がある窓際に立っている涼ちゃん。そばで背の高いボーイッシュな女子が、彼女を支えていた。
それぞれの机に着いている他の子たちは、状況を見守っていたり、関わるまいと別のことをしたり。
「ぼくのことでお騒がせしちゃった? いなかったから何があったか分からないけど……。とにかくみんなに迷惑かけたなら謝るよ、ごめん」
塾は学校じゃないから、同じクラスでも、それほど団結しているわけじゃない。勉強以外のことに興味ないって子も一定数いるだろうし。
「女子便入ってるって本当か?」
涼ちゃんと同じ列の後方、体格のいい男子がたずねた。
「……うん」
答えてよかったかは分からない。でもその子は、「そうか」とだけ言って、開いていたマンガ雑誌に目を落とす。それ以上踏み込んでこなかった。
「皆ヶ崎くん!」
利生くんが駆け寄ってくる。
「ぼくにとって皆ヶ崎くんは、憧れの人だよ。今までもそうだったし、これからも」
ぼくが利生くんを計画通りに動かしたわけじゃない。これは彼の素直な気持ちだ。受け取らないと。
「ありがとう」
「迷惑よ!」
真ん中ぐらいに座っていた髪の長い女の子が、立ち上がって教室を出ていった。出る直前、「気持ち悪い」。
それからチャイムが鳴り始めた。
ぼくは八芝の手を握る。彼女の震え、感情の揺れは、本来ぼくのものだったはずだ。
もっと早くここに来ていれば、彼と対峙するのはぼくだった。
「大丈夫? 一時間目休むなら、一緒に行くよ」
彼女はぼくの手を離した。片手で目元を拭う。
「心配しないで」
席に戻っていく彼女の背中を、ぼくはただ見つめていた。




