④−3 怒り
最後に出てくる男の子、雄二があざみの小をやめることになった件:
参照される場合は ①−5 です。
隆夫にもらった腕時計で時間を確かめる。授業が始まるまで三十分。いつものように、六階でコーヒーを飲もうと思っていた。
「あ」
ビルの外にある掲示板。その前にセミロングの髪の子が立っていたんだ。
「やあ」
思い切って声をかけてみた。幾分緊張しながら。
「……うん」
八芝さんはぼくの方を見ようとしない。
「一か月ぐらい、口聞いてなかったよね。文通もしなくなったし」
「あんたとじゃなくて、優美ちゃんとやり取りしてたのよ。あの子のことは嫌いじゃないから」
ぼくのことは嫌いって意味。
普通に友達だと思ってたんだけど。
ぼくが黙っていると、八芝さんが口を開いた。
「あんたはすごいわね。四つも年上の人たち相手に、この成績でしょ」
ガラスの中に張られている、中学ニ年生のランキング表。一番上にぼくの名前。
「あたしだったらやる気をなくす」
その言葉と声のトーンで、八芝さんが怒っている理由が分かった。
(ぼくは自分のことしか考えてなかった。同じテストを受けてる他の人たちが、どんな気持ちになるか、想像しなかった)
ひざの横の手をぎゅっと握る。
「どうしても、目に見える結果が必要で。みんなに認めてもらうために」
「みんなって誰」
「欧立クラスの子たち、それにこの塾の先生」
「……」
八芝さんは小さく溜め息をついた。
「退塾しないでいいように?」
そのとき初めて、ぼくの方を向いてくれたんだ、彼女は。
「うん」と、ぼくは頷く。
「だから申し訳ないけど、ぼくは中学生のテストを受け続けるよ。真と同じ土俵で戦いたくないから、小学生用は受けない」
真は五年生のクラスにいるけど、テストは六年用を受けている。“ものすごい上位”じゃないけど、ランキングに名前が載る程度には上位だ。だから授業料を免除されている。
ぼくはこの前の冬、真と同じテストを受けて競争していた。でも二コ上の学年の問題では、難しすぎて真と並べなかった。
「あんたにはあんたの事情があるのよね」
許すと言っているわけじゃない。理解する、ぐらいだろう。
「あたしも小五のテストを受けてるのよ。全然ぱっとしない成績だけど」
「受けてるんだ。八芝さんも挑戦してるんだね」
腹が立つから、と彼女は言った。
「あんたがあたしを敵と思ってないこと」
お休みの日、ぼくらはお台所のテーブルで一緒に勉強している。隆夫は受験生だし、ぼくもテストで毎回一位を取らなきゃいけないから。
「うん、これで合ってるよ。上手に書けてる、証明」
隆夫はぼくのノートを返してくれた。
「ありがとう」
中二数学では、これまでと違い、“答えに行き着くための式を書けばいいだけ”ではない単元がある。三角形の合同の証明。どう書けばいいのか、まだいまいち感覚がつかめていなかった。
ぼくは隆夫の向かいの椅子に戻った。
「オレに教えられることがあってよかった」
「え?」
隆夫のつぶやき。ぼくは顔を上げて彼の目を見つめた。
「そのうちオレが教えてもらう側になるだろうけど」
隆夫は笑っていた。
「そういうの嫌?」
冗談じゃなく、真面目にぼくはたずねた。
それぞれに個性がある。ぼくが勉強でいつか隆夫を抜くことは、ありえると思っていた。
「そうだな、そのときになってみないと分からないけど。オレは受け入れるんじゃないかな、その事実を」
ちょっとほっとする、その言葉で。
「雄二が、すごく勉強熱心で優秀な子だってことは、最初から知っていたんだ。そういう雄二を、オレは好きになった」
「……」
だったらいいんだけど。
「オレは雄二を応援するよ。自分を超えてほしいと思う。そういうのが、教員の役割」
隆夫は大人なんだ。やっぱり年上だと思う、考え方とか包容力あることとか。
ぼくはまだ子どもで、隆夫のために何をしてあげられるだろうって、不安になることもある。
「……」
駅周辺に広がる二階の道を歩いていたとき、足を止めた。
青葉の掲示板の前に、あの男の子がいたから。
――皆ヶ崎。
――えっと、何?
――調子に乗ってんじゃねーよ、女のくせに。
胸が疼く。ぼくはそこをぐっと押さえた。
何もしていないのに息切れが起きそう。ぼくは急いで入口のガラス扉に向かった、その子の後ろを通って。
「いい気になってんじゃねーよ、皆ヶ崎」
幻聴じゃない、はっきりした声だった。




