④−2 誕生日
五月初め、ぼくは十歳になったんだ。
これで隆夫との年齢差が一つ減った。夏には元に戻っちゃうけど。
誕生日プレゼントは何がいいか聞かれたとき、これとおんなじマグカップ! とテーブルの上を指さして答えた。
夜空に浮かぶ満月を、見つめている猫の後ろ姿。何となく気に入ってて。
それに、お揃いの物を持っているって、恋人どうしらしいじゃない?
迎えた当日、隆夫は腕によりをかけてごちそうを作ってくれた。生クリームたっぷりの、ホールのいちごケーキ。ぼくの好きな具ばっかりの、手巻き寿司。
「プレゼントだよ」
「わ、二つも?」
一つはお願いしていたマグ。もう一つは腕時計だった。
「これって女物?」
細い革ベルトに、金色に縁取られた白い盤。針の形も数字も、おしゃれな感じ。
「変身したときつけててもおかしくないのを選んだ。ベルトが黒なら、雄二がしててもいいだろ」
変身……。ぼくが優美に替わったときって言いたいのか(笑)
ぼくは早速、左腕に巻いてみた。新品だから革がちょっと硬い。
「うん、悪くない」
お父さんが買ってくれた、男の子用のデジタルのもあるけど、明日からはこっちを使おう。
「気に入ってくれたならよかった」
隆夫は微笑む。ぼくは椅子を下りて、向かい側の人のところに行き、彼のほっぺたに口をつけた。
「雄二」
ぼくも、とびっきりの笑顔を見せる。
「八月のお誕生日には、ぼくがお祝いしてあげるからね! 期待してて」
月半ば。ぼくは欧立市役所・子ども課の、待合の椅子に座っていた。
壁のコルクボードには、ぼくら向けのバイト情報が張られている。他にも、子どもの困り事に対応するサービスの案内とか。
一人一枚配られている市民証は便利だ。これを持って窓口へ行けば、家の経済状況によるけど、教育クーポンをもらえる。それで文房具や本を買ったり、習い事に通ったり。
千円札サイズの薄い冊子をもらった子は、お礼を言って帰っていった。
その空いた窓にぼくは呼ばれたんだ。
「皆ヶ崎雄二くん」
「はい」
一回三時間で週二回、時給は子ども料金。前月分のお給料は、一万二千九百六十円だった。
(子どもの小遣いにしちゃ、十分な額だ)
庁舎の外に出ると、さわやかな風が吹いていた。きらきらに目を細める。輝いているのは、日の光を受けたソメイヨシノの若葉だ。
春に、隆夫と二人でお散歩に出かけた。市役所の塀の内側に立つ桜が満開で、外の歩道からぼくらはそれを見上げていた。
――花もいいけど、葉桜もまた格別だよ。生命力があふれる感じ。見てるとエネルギーが湧いてくるんだ。
ぼくの大切な人が、そう言っていた。
(これが、葉桜)
夏場の濃い緑色しか知らなかった。明るくて、まだ幼い葉たち。風にさわさわと音を立てて揺れる……。
駐車場に停めていたお古の自転車に、鍵を差し込み、通路に出してまたがる。
「かしわ餅買って帰ろう」
食欲湧いてきちゃった。
be動詞というのはね――。
ここは青葉の六階、飲食スペース。白い丸テーブルで二人向かい合って、ぼくは利生くんに英語を教えていた。
「ちょっと複雑。主語によって使い分けるなんて」
「そうだね、日本語ではこういう変化はないからね。でもすぐに慣れるよ」
ぼくはお気に入りのマグに口をつけた。
「他に分からないことはない?」
「be動詞は動作を表さないのに、どうして動詞っていうの」
利生くんの素朴な疑問。朝香先生は特にそこの説明はしなかった。だからこれはぼくの解釈。
「日本語の動詞と英語の動詞は、意味が違うんだよ。英語では、時間軸上を動く言葉が動詞。他の品詞――名詞も形容詞も、時間軸を動くことはない」
「時間軸。話がSFっぽい」
利生くんは休み時間に本を読んでいるような子だから、そういう用語に抵抗はないみたいだ。ちょっと笑っていた。
ぼくは真っ白な計算用紙に長い矢印を書き、過去、現在、未来と記す。その下に例文も。
This is a peach. これは桃だ。【現在形】
This was a peach. これは桃だった。【過去形】
「授業ではまだ習ってないけどね。isにはwasという過去形があるんだよ」
「過去形」と、利生くんは繰り返す。
「『だった』って言ったら、今はそうじゃないと分かるだろう。『だ』とか『だった』という言い方で、現在の話なのか過去の話なのかが分かる」
利生くんは黙って頷いた。
「今やってる一般動詞にも、同じように過去形があるんだよ。likeならlikedというふうに」
「そうなんだ」
「動詞は時間軸を動く。分かったかな?」
「うん、よく分かった」
そこで利生くんは自販機で購入した缶ジュースを飲んだ。
「やっぱり皆ヶ崎くんに頼んでよかった。分かりやすいもの」
ぼくはふっと笑い、「ありがとう」。
「こっちこそありがとうだよ。皆ヶ崎くんの貴重な時間、ぼくがもらっちゃった」
「人に説明することで頭の整理もできるから、自分のためでもあるんだ。必要なら他の教科も教えるよ」
「そんなふうに言ってもらえると助かるな。皆ヶ崎くんはやさしい」
ぼくの笑顔の裏には、打算的な気持ちもあるんだ。
園田くんはもともと、ぼくに対して好意的だった。だから味方に取り込む候補の一番。何かあったときのために。
「皆ヶ崎くんは、欧立クラスにいるから、欧立学園を受験するの?」と、利生くん。
「うん、そのつもりだけど」
特別おかしなことが起こらない限りは。
「きみもだよね?」とたずねると、「ぼくはまだ分からない」という返事。
「中学受験のこと、考え始めたの最近なんだ。だから他のみんなみたいに、低学年のうちから準備してきたわけじゃない。この塾で習うことも、ぼくには難しいと感じる」
「……」
利生くんがクラスに入ってきたのは、四月の終わりだった。たった一か月差だけど、みんなは知っていて利生くんは知らないことが確実にある。それも五教科分。
入塾して半月ちょっと。今が一番しんどい時期であるのは否めない。
ぼくはカップをテーブルに置いた。
「大丈夫だよ、園田くんなら。ぼくが保証する」
教室に入ると、窓際の一番前、三つ編みの子が立ち上がってぼくのところに来た。
「雄二」
手にはシューマンの、『子どもの情景』。
「約束のCDを持ってきたわ」
「いいの? お父さんのなんでしょ」
佐伯涼ちゃんのお父さんは、椎野町で開業している総合医。ピアノを聴くのも弾くのも、趣味なんだって。
「父が、雄二になら貸してもいいと言ったの。音楽の話ができる子と友達になれてよかったって」
中英ハーフの女の子は、にっこり笑う。
「じゃあ遠慮なく」
ぼくはプラケース入りのディスクを受け取った。後でカセットテープに録音させてもらおう。
「あ、さやか!」
ぼくの後ろのドアから、今入ってきたのは八芝さん。あざみの小にいた頃のクラスメート。
「ハーイ、涼ちゃん」
八芝さんはぼくの方は見ずに、後方にある自分の席に向かう。
「CDありがと、涼ちゃん。来週返すね」
「急がないわ」
ぼくは肩から提げた青のかばんに、今借りた物をしまう。
中には勉強道具の他、誰かへの誕生日プレゼントも、渡せないままそこにあった。




