③−8 心の均衡
ドレドレミファミファソファソファミレミレ……
「うーん、やっぱり小指薬指が動かしにくい。明らかに人差し指と強さが違うもの。毎日練習してたら変わってくるのかな」
ドレドレミファミファソファソファミレミレ……
お母さんが買ってくれた、電気のピアノ。本物と同じで、強く叩けば大きい音が出るし、弾き方によってやさしい音色も出せる。それでいてヘッドフォンをすれば音が漏れないから、アパートに置くにはちょうどいい。
わたしはお義父様にもらったディンブラのティーバッグをカップに入れ、ポットのお湯を注ぐ。
蒸らしている間、隆夫さんのことを考えた。
――好きだったんだ、あいつのことが。今でも完全には吹っ切れていない、未練が少しある。
――あいつは、オレから離れることを選んだ。一緒に来てはくれなかったし、好きなやつができたと言って、オレの恋人でいようとはしてくれない……だからオレは諦めないといけない。
「諦めないといけないってことは、諦める必要がなくなれば、隆夫さんはあの人のところへ行ってしまうということ」
たぶんこれは現実的じゃない。真面目な執事さんは、お屋敷のご主人を裏切るような真似はしないだろう。
「わたしは安心していていい。でも」
万が一、彼が胸に秘めた想いを隠しきれなくなったときには、隆夫さんはわたしよりも礼央さんを取る……気がする。
――一生一緒にいるって決めた。礼央の代わりとしてじゃなく、雄二として、優美として、ありのままのきみを愛したい。
隆夫さんの言葉。誠意。普段の態度。わたしを理解してくれていること。
不安な気持ちは取っ払わないといけない。隆夫さんを信じることが、愛なのだから。
(でも……)
いい色に染まった、お茶に口をつけた。味のバランスがとれてる、優等生の紅茶だ。
「心の均衡を保つのに、ピアノを弾くだけじゃ不十分なのよね」
青葉クラブの掲示板。この前受けた四年生のテストのランキング表。皆ヶ崎雄二と荻野真の名前が上下に並んでる。
(勝ったと言っても、たった一点差。でも荻野くんを追い越すことは目標じゃなくなった、残念なことに)
このときぼくはお腹が痛かったんだよ、なんて声がして振り返ると、そこに本人がいたんだ。
荻野くんはここの塾生だから、いても不思議はないんだけど。
「こんにちは」
「やあ」
特に用もないので、わたしは去ろうとした。
「今度デートしない? ぼくを追い抜かしたお祝いに、おごってあげるよ」
隆夫さんには一応伺いを立てた、土曜の午後に友達と会っていいか。もちろん快諾してくれたし、自由科と買い物以外で外出することが少ないわたしに、もっと人と交流した方がいいとも言っていた。
その子の名前は? 聞かれて、マコトと答えた。
真琴ちゃんか、と隆夫さんは勘違いする。男の子だよ、とは言わなかった、何となく。
待ち合わせ場所は、あざみの駅南口、コーヒーショップの前。
荻野くんちは北口を出てすぐのところにあるクリニックだ。お父さんが総合医で、お母さんが看護婦兼受付をしている。
「待った?」
荻野くんは薄着だ。一年中半袖なのは、あざみの小にいたときから知ってる。
「ううん、今来たとこ」
わたしは落ち着いたクリーム色のワンピースに、白いカーディガン、焦げ茶のポシェットという格好。
コートほどじゃなくても、上着はほしい季節。
「じゃあ、行こうか」
少し濡れてる手。荻野くんは体温が高い。
わたしたちは駅ビル五階の喫茶店に入った。
大人のお客さんが多い。子どもがいても、お母さんと一緒だったりする。
「今日はぼくのおごりだからね。何でも頼んで」
「じゃあ、ケーキセット」
約束は二時だったので、お昼ごはんは食べてきた。パンと、隆夫さんのシチュー。
「きみってすごいよね、塾にも行かずに上位に入れちゃうんだから。普段どんな勉強してるの?」
「本屋さんで買った参考書と問題集、あとお父さんが昔使ってた中学の教科書」
隆夫さんが持っている高校のを見せてもらうこともある。
「中学校の?」
「社会科だけね。結局、小中と同じことを学ぶじゃない? 中学ではより深く、くわしく。そちらを読みながらの方が理解しやすいの、小学校のだけよりは」
「そうなんだ。ぼくもそのやり方でやってみようかな」
「荻野くんは、塾の教材をしっかり頭に入れてる感じ?」
中学受験を考えるなら、出題されるものに絞って勉強するのが、一番効率がいいと思う。
「うん。それと予習シリーズ」
「わたしも前は使ってたわ。お母さんに取り寄せてもらって」
そこへ店員さんが、注文の品を持ってきてくれる。
わたしは苺がたくさん載った生クリームのケーキと紅茶。荻野くんは、フルーツのロールケーキを単品で。
「いただきます」
「おいしそうだね、きみの」
「ちょっと食べる?」
「いいの?」
「荻野くんがお金出してくれるんだから」
わたしたちはお皿を交換し、わたしはスポンジの端っこを少しだけいただいた。
「理由は何でもよかったんだけど。きみと話してみたかった」
「わたしが、同じ四年生のテストを受けてるから?」
「うん」
わたしたちの学年の生徒の中で、荻野くんは有名人だった。一年生のとき、当初はわたしたちと同級だったけど、五月頃から飛び級をしてニ年生になった。
四月二日生まれで、体も大きくて、一コ上どころか二コ上と言っても分からないぐらい。彼は成長が、わたしたちより先を行っている。
「実を言うとあんまり友達がいなくて。周りはみんな、ぼくのこと年下という目で見てる。四年生でも三月まで九歳の子はいるのにね」
「……」
「だからときどきでも、こうして会ってくれたらうれしい。きみとなら勉強の話もできるし」
荻野くんは単純に、話し相手がほしかったんだと思う。それ以外の意味なんてなくて。
(もちろんわたしもそう)
喫茶店を出た後、男の子に人気のロボットアニメの映画を見て(あんまりよく分からなかった)、ゲーセンで遊んで、夕方になった。
「この次は負けないからね。覚悟しておいて」
わたしは荻野くんに言っておかなければならない。彼がわたしと競争をするつもりでいるなら。
「あのね荻野くん、わたし、しばらくは小学生のテストを受けないつもりなの」
「……どういうこと」
声が低くなる。
「その代わり、春からは中学生のテストを受けようと思ってる」
「なんで?」
不機嫌になるのも無理はない。荻野くんには荻野くんの“つもり”があったはずだ。
「今、小学校課程を終わらせようとしているところなの。五年までは修了試験に合格してる。六年のも終わったら、次は中学校の勉強をする」
「きみは欧立学園を受けるんじゃないの。中学校へは行くつもりなんでしょ」
「うん、そうだけど。学校生活はちゃんと経験しておきたいから行く。でも、六年も通うつもりはないの。あそこは最短四年で卒業できるけど、場合によってはそれより早く出るかもしれない。だから、修了試験は受けておきたい、高校までの」
「……何を言ってるのか分かんないよ」
突飛かもしれない、わたしの考えていることは。
「好きな人がいて。十六になったら結婚したい。赤ちゃんも作るかもしれない。だから、中等教育科四年の途中で学校をやめる――まだ入学してもないけどね」
荻野くんは、一筋の涙を流した。
「ひまわりと言っていた意味が分かった。きみは、普通と違う生き方をしたいんだね。それに反対はしないけど、……さみしい」
荻野くんは目元を腕で拭う。
「……」
わたしは何て言ったらいいか分からなかった。
「ぼくは、きみと海峰へ行くのが夢だったよ!」




