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王子様と赤ずきん  作者: かおる
3章
34/38

③−8 心の均衡

 ドレドレミファミファソファソファミレミレ……

「うーん、やっぱり小指薬指が動かしにくい。明らかに人差し指と強さが違うもの。毎日練習してたら変わってくるのかな」

 ドレドレミファミファソファソファミレミレ……


 お母さんが買ってくれた、電気のピアノ。本物と同じで、強く叩けば大きい音が出るし、弾き方によってやさしい音色も出せる。それでいてヘッドフォンをすれば音がれないから、アパートに置くにはちょうどいい。

 わたしはお義父とう様にもらったディンブラのティーバッグをカップに入れ、ポットのお湯を注ぐ。

 蒸らしている間、隆夫さんのことを考えた。

 ――好きだったんだ、あいつのことが。今でも完全には吹っ切れていない、未練が少しある。

 ――あいつは、オレから離れることを選んだ。一緒に来てはくれなかったし、好きなやつができたと言って、オレの恋人でいようとはしてくれない……だからオレはあきらめないといけない。

「諦めないといけないってことは、諦める必要がなくなれば、隆夫さんはあの人のところへ行ってしまうということ」

 たぶんこれは現実的じゃない。真面目な執事さんは、お屋敷のご主人を裏切るような真似はしないだろう。

「わたしは安心していていい。でも」

 万が一、彼が胸に秘めた想いを隠しきれなくなったときには、隆夫さんはわたしよりも礼央れおさんを取る……気がする。

 ――一生一緒にいるって決めた。礼央の代わりとしてじゃなく、雄二ゆうじとして、優美ユウミとして、ありのままのきみを愛したい。

 隆夫さんの言葉。誠意。普段の態度。わたしを理解してくれていること。

 不安な気持ちは取っ払わないといけない。隆夫さんを信じることが、愛なのだから。

(でも……)

 いい色に染まった、お茶に口をつけた。味のバランスがとれてる、優等生の紅茶だ。

「心の均衡きんこうを保つのに、ピアノを弾くだけじゃ不十分なのよね」



 青葉クラブの掲示板。この前受けた四年生のテストのランキング表。みなざき雄二と荻野おぎのまことの名前が上下に並んでる。

(勝ったと言っても、たった一点差。でも荻野くんを追い越すことは目標じゃなくなった、残念なことに)

 このときぼくはお腹が痛かったんだよ、なんて声がして振り返ると、そこに本人がいたんだ。

 荻野くんはここの塾生だから、いても不思議はないんだけど。

「こんにちは」

「やあ」

 特に用もないので、わたしは去ろうとした。

「今度デートしない? ぼくを追い抜かしたお祝いに、おごってあげるよ」


 隆夫さんには一応伺いを立てた、土曜の午後に友達と会っていいか。もちろん快諾かいだくしてくれたし、自由科と買い物以外で外出することが少ないわたしに、もっと人と交流した方がいいとも言っていた。

 その子の名前は? 聞かれて、マコトと答えた。

 真琴まことちゃんか、と隆夫さんは勘違いする。男の子だよ、とは言わなかった、何となく。


 待ち合わせ場所は、あざみの駅南口、コーヒーショップの前。

 荻野くんちは北口を出てすぐのところにあるクリニックだ。お父さんが総合医で、お母さんが看護婦兼受付をしている。

「待った?」

 荻野くんは薄着だ。一年中半袖なのは、あざみの小にいたときから知ってる。

「ううん、今来たとこ」

 わたしは落ち着いたクリーム色のワンピースに、白いカーディガン、焦げ茶のポシェットという格好。

 コートほどじゃなくても、上着はほしい季節。

「じゃあ、行こうか」

 少し濡れてる手。荻野くんは体温が高い。


 わたしたちは駅ビル五階の喫茶店に入った。

 大人のお客さんが多い。子どもがいても、お母さんと一緒だったりする。

「今日はぼくのおごりだからね。何でも頼んで」

「じゃあ、ケーキセット」

 約束は二時だったので、お昼ごはんは食べてきた。パンと、隆夫さんのシチュー。

「きみってすごいよね、塾にも行かずに上位に入れちゃうんだから。普段どんな勉強してるの?」

「本屋さんで買った参考書と問題集、あとお父さんが昔使ってた中学の教科書」

 隆夫さんが持っている高校のを見せてもらうこともある。

「中学校の?」

「社会科だけね。結局、小中と同じことを学ぶじゃない? 中学ではより深く、くわしく。そちらを読みながらの方が理解しやすいの、小学校のだけよりは」

「そうなんだ。ぼくもそのやり方でやってみようかな」

「荻野くんは、塾の教材をしっかり頭に入れてる感じ?」

 中学受験を考えるなら、出題されるものにしぼって勉強するのが、一番効率がいいと思う。

「うん。それと予習シリーズ」

「わたしも前は使ってたわ。お母さんに取り寄せてもらって」

 そこへ店員さんが、注文の品を持ってきてくれる。

 わたしはいちごがたくさん載った生クリームのケーキと紅茶。荻野くんは、フルーツのロールケーキを単品で。

「いただきます」

「おいしそうだね、きみの」

「ちょっと食べる?」

「いいの?」

「荻野くんがお金出してくれるんだから」

 わたしたちはお皿を交換し、わたしはスポンジの端っこを少しだけいただいた。

「理由は何でもよかったんだけど。きみと話してみたかった」

「わたしが、同じ四年生のテストを受けてるから?」

「うん」

 わたしたちの学年の生徒の中で、荻野くんは有名人だった。一年生のとき、当初はわたしたちと同級だったけど、五月頃から飛び級をしてニ年生になった。

 四月二日生まれで、体も大きくて、一コ上どころか二コ上と言っても分からないぐらい。彼は成長が、わたしたちより先を行っている。

「実を言うとあんまり友達がいなくて。周りはみんな、ぼくのこと年下という目で見てる。四年生でも三月まで九歳の子はいるのにね」

「……」

「だからときどきでも、こうして会ってくれたらうれしい。きみとなら勉強の話もできるし」


 荻野くんは単純に、話し相手がほしかったんだと思う。それ以外の意味なんてなくて。

(もちろんわたしもそう)

 喫茶店を出た後、男の子に人気のロボットアニメの映画を見て(あんまりよく分からなかった)、ゲーセンで遊んで、夕方になった。

「この次は負けないからね。覚悟しておいて」

 わたしは荻野くんに言っておかなければならない。彼がわたしと競争をするつもりでいるなら。

「あのね荻野くん、わたし、しばらくは小学生のテストを受けないつもりなの」

「……どういうこと」

 声が低くなる。

「その代わり、春からは中学生のテストを受けようと思ってる」

「なんで?」

 不機嫌になるのも無理はない。荻野くんには荻野くんの“つもり”があったはずだ。

「今、小学校課程を終わらせようとしているところなの。五年までは修了試験に合格してる。六年のも終わったら、次は中学校の勉強をする」

「きみは欧立学園を受けるんじゃないの。中学校へは行くつもりなんでしょ」

「うん、そうだけど。学校生活はちゃんと経験しておきたいから行く。でも、六年も通うつもりはないの。あそこは最短四年で卒業できるけど、場合によってはそれより早く出るかもしれない。だから、修了試験は受けておきたい、高校までの」

「……何を言ってるのか分かんないよ」

 突飛とっぴかもしれない、わたしの考えていることは。

「好きな人がいて。十六になったら結婚したい。赤ちゃんも作るかもしれない。だから、中等教育科四年の途中で学校をやめる――まだ入学してもないけどね」

 荻野くんは、一筋の涙を流した。

「ひまわりと言っていた意味が分かった。きみは、普通と違う生き方をしたいんだね。それに反対はしないけど、……さみしい」

 荻野くんは目元を腕で拭う。

「……」

 わたしは何て言ったらいいか分からなかった。

「ぼくは、きみと海峰かいほうへ行くのが夢だったよ!」

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