③−7 優美の日常
最近楽器を習い始めた。きっかけは、自由科一階のピアノ室で、誰かが『エリーゼのために』を弾いていたこと。
あんなふうに弾けたら……! そう思って、昔教室に通っていたお母さんに教えてもらうことにしたんだ。
最初はバイエル。片手だけの練習。鍵盤ごとにどの指を使うか決まっていて、ドレミの後、親指をくぐらせてファソラシド。
「そうそう、上手よ」と、お母さんはほめてくれる。
弾くときは、背筋をピンと伸ばして真っ直ぐ譜面だけを見る。
薬指・小指は普段使わないから力が弱くなりがちだけど、鍵盤を叩くときはどの指も同じ強さで。
早く両手で曲が弾けるようになりたい。
でも、あせらずじっくり基礎を固めていこう。
帰りにあざみの駅地下の『Dolce』というお店で、おいしいシュークリームを買ったんだ。
実家で暮らしていた頃、ときどきお母さんがおやつに出してくれた。
今日はわたしの分と隆夫さんの分、合わせて四個。
「あ」
階段を上っていたら、たまたま前の通りを歩いていた荻野くんと目が合う。
「やあ」
荻野くんは空手の帰り。
わたしたちは駅前広場にあるベンチに腰かけた。階下を流れる車の様子が、鉄柵の隙間から見える。
「すっかり女の子になったね。見違えちゃったよ」
「もともと女の子だったの。ずっと男の子の振りをしていたのよ」
「ふーん」
あんまり興味なさそう。
隣の男の子は最後の一口を食べ終えた後、手についたカスタードクリームをベロッとなめた。わたしは黙ってポケットティッシュを差し出す。
「また男子に戻る予定は」
「分からない」
荻野くんとわたしの接点を考えると、彼の頭の中にあるのは、中学校のことだろう。
どちらの性別で通うか、現時点でわたしは決めていなかった。
「ぼくと一緒のとこ受ける?」
「海峰中? うーん、それは難しいわね」
治療が順調に進めば、その頃わたしは月経が起こるかもしれない。そういう体で男子校に入るのはさすがに……。
「じゃあ、どうするつもり」
「欧立学園本校。共学がいいの。それにあそこは、性別問わず使えるお手洗いがあるから」
「……」
生々しい話だったからか、荻野くんはしばらく口を閉じた。
わたしは飲み干したジュースの缶を足元へ置く。
「きみの事情は理解する。きみの選択も尊重する。でも、言わせてもらうなら、皆ヶ崎雄二として海峰を目指してほしかった。それができるのなら」
「わたしのこと、友達だと認識してくれているの?」
だったらちょっとうれしいかもしれない。“あの荻野くん”にそう思ってもらえるなんて。
「友達じゃない、ライバルだろ。きみはぼくを追い抜かしたんだ」
家に帰ると、お台所ではエプロン姿の高校生が、大きめのお鍋をかき混ぜていた。スパイスの香り。
「ただいま。何作ってるの?」
「おかえり。ポトフだよ」
わたしがピアノの練習に行く日、隆夫さんは早く帰ってきて、ごはんを作ってくれる。
「シュークリームを買ってきたの。後で食べて」
夜は勉強する。昼間、家事や自由科の授業の後もしているけど、もっと速度を上げたかった。わたしはまだ、小学校課程を終わらせていない。
――きみのレベルだったら、海峰中ぐらい合格するはずなんだよ。欧立なんかで満足できるの?
今日、荻野くんに聞かれた。
――それにさ、エリート街道行くつもりなら、そっちは絶対方角が違う。
わたしと荻野くんとでは置かれた状況が違うし、進みたいと思う方向も同じじゃなかった。
――わたしはひまわりでいたいの。
柵の前で、荻野くんを振り返る。
――欧立学園の方針は、『ひまわりをあさがおとして育てることはしない』。わたしはわたしのままでいたいの。個性が強すぎるから、自分で責任をとれる範囲で、自由にさせてくれる学校がいいの。
たぶんわがまま、自分でいたいというのは。誰だって自分を削って、世界に合う形にしている。痛みを伴うとしても。
わたしは、わたしが望む自分になりたい。
「優美」
ドアがノックされて、隆夫さんが入ってきた。
「あんまり夜更かしするなよ」
「わぁ」
ココアとオレンジタルト。隆夫さんは夜食のトレイを机に置いてくれた。
「ありがとう」
わたしは彼のほっぺたにチューをした。ちょっと赤くなる隆夫さん。
「それ、入試問題か」
「うん。中堅校のだから、そんなに難しくはないんだけど、わたしは手こずってるの」
隆夫さんは、わたしが開いている問題集を眺めた。
「教えようか?」
読んですぐ、やり方が分かるなんて。さすが高校生。
「もう少し考えて、できなかったらお願いするわ。なるべく自力でやりたいの、聞いた方が早いの分かってるんだけど」
「きみは自分で考えられる子どもだろ。その力は伸ばした方がいい。オレはつい、参考書を見ちゃうけど」
隆夫さんはわたしのことを理解してくれている。
「しばらく日曜は家にいるから。また一緒に勉強しよう」
「ええ」
早く大人になりたかった、隆夫さんのために。




