⑧ちゃんと、覚えてる
約束は、守るためにあるのだと思っていた。
でも、心に残るのは、守れなかったものばかりだ。
不思議なくらいに。
「覚えてるかい?」
また、この話。
湯呑みに入っているお茶をひと口飲んでから、僕は小さくため息をついた。
「ほら、あの約束だよ」
にこにこと笑いながら、おばあちゃんが言う。
いつもと同じ顔で、同じ声で、同じ言い方のこの話を聞くのも、これで何度目だろう。
「だから、覚えてないよ」
「えー、ひどいわねえ」
僕が答えると、おばあちゃんが少しだけ頬を膨らませる。
そのちょっと少女みたいな仕草も、もう何度も見てきた。
「だって、あんたが言ったんだよ」
「本当に言ったの?」
「そうよ。忘れちゃったのかい?」
おばあちゃんが、本当に楽しそうに言うから、この言葉が繰り返されるたびに、少し胸が痛い。
よく誰にでも優しいって言われるのに、身内には優しくできていないのだから。
「だから、覚えてないって、何度も言ってるでしょ?」
僕の言葉に、おばあちゃんは一瞬だけきょとんとした顔をして、でも、すぐに笑った。
「そっかあ。じゃあ、もう一回教えてあげる」
そう言って、嬉しそうにコタツに身を乗り出す。
もちろん、これから話す内容も、もう何度も聞いている。
だけど、おばあちゃんは、話したいだけなのかもしれない。
だから、黙って聞く。
きっと僕には、そのぐらいしかできないから。
「昔ね、あんたがまだ小さかった頃」
やっぱり同じ出だしから始まるから、僕は軽くうなずいて、話の先をうながしながら、黙ってもうひと口、お茶を飲む。
いつもぬるめに入れてくれるお茶が、少し熱い。
「おばあちゃんが、玉ねぎを切って泣いてたのよ」
おばあちゃんは、キッチンの方を見て目を細めた。
「そしたらね、あんたが言ったの」
おばあちゃんの表情に合わせるみたいに、少しだけ声のトーンが、柔らかくなる。
「おばあちゃん、泣かないでって」
おばあちゃんは、優しい顔で笑っている。
「かっこよかったんだから」
両手で口をおさえながら、くすくすと笑う、この笑い方もいつも通りで。
「それでね、そのあと」
ここで、もったいぶるみたいに、タメを作るのも、毎回、一緒。
「僕が守るからって言ったのよ」
ちょっと笑いながら言う言葉は、さっきまでより、少しだけゆっくりだからなのか。
その言葉が、妙に耳に残る。
「そんなこと、本当に言ったの?」
「言ったわよ」
「僕がいくつのときの話?」
「それは、ちっちゃい頃よ」
おばあちゃんは、自信満々にうなずくけど、答えになってない。
それに、ちっちゃい頃の話なんて、よっぽどのことでもない限り、誰も覚えないと思う。
「だからね、約束したのよ。あんたが大きくなったら、ずっと一緒にいるって」
おばあちゃんがにこっと笑う。
その笑顔は、やっぱりどこか少女みたいだった。
「覚えてるかい?」
「……覚えてないよ」
小さく答えて、遅れて胸がざわつく。
「そっかあ」
おばあちゃんは、いつも通りに少しだけ寂しそうに笑った。
それきり、おばあちゃんはしばらくなにも言わなくなるから、いつも少しだけ居心地が悪くなる。
でも、僕はまたお茶を飲む。
湯気が、ゆらゆらと揺れる。
それからしばらくして、僕は立ち上がった。
部屋に差し込む西日が弱くなり、だいぶ薄暗くなっていた。
パチッ。
部屋の明かりをつける。
「そろそろ帰るね」
「もう?」
「うん。だいぶ暗くなってきたし」
「あら、そうだねえ」
玄関に向かう。
後ろから、ゆっくりとした足音がついてくる。
「気をつけて帰るんだよ」
「わかってるよ」
靴を履いて、ドアに手をかける。
「ねえ」
呼び止められる。
「どうかした?」
「覚えてるかい?」
また、その言葉。
思わず、少しだけ強く息を吐いた。
「だから、覚えてないって」
早口で言ってしまってから、目をつぶって、ふっと息を吐く。
「……覚えてないんだよ」
でも、ふと、思い出した。
玉ねぎで泣いていたおばあちゃんと、それを見ていた僕。
おばあちゃん、泣かないで、僕が守るから、なんて本当に言ったのかはわからないけど。
「……覚えてるよ」
気づけば、そう言っていた。
目を開けておばあちゃんを見ると、おばあちゃんが、ぱっと顔を明るくする。
「ほんと?」
「うん」
少しだけ、視線を逸らす。
「ちゃんと覚えてる」
嘘をついた。
こういうやり方が好きなわけじゃないけど。
「そっかあ」
嬉しそうに笑うおばあちゃんを見て、それが正しいような気がした。
「じゃあ、大丈夫だねえ」
「なにが?」
「だって、約束しただろう?」
当たり前みたいに言ったおばあちゃんが、まっすぐに僕を見るから、少しだけ、言葉に詰まる。
だけど。
「おばあちゃんは、僕が守るよ」
軽く肩をすくめて答えた。
「任せて」
そう言うと、おばあちゃんは満足そうに頷いた。
それからしばらくして、おばあちゃんは、その約束の話をしなくなった。
正確には、できなくなった。
名前も、顔も、少しずつ曖昧になっていく中で、その話も、すっと消えた。
久しぶりに会いに行った日。
「どちらさま?」
そう言われた時、少しだけ胸がざわついた。
「……孫だよ」
「あら、そうなの。ごめんなさいね」
申し訳なさそうに笑うその顔は、やっぱりおばあちゃんだった。
しばらく一緒に座って、いつもみたいに、お茶を飲む。
「いいお天気ねえ」
「そうだね」
窓の外を見ると、柔らかい光が庭に差し込んでいる。
少し前に父さんと一緒に抜いた雑草がまた伸びてきているから、そろそろ父さんと抜かないといけないかもしれない。
他愛もない話をする。
学校のこととか、テレビのこととか。
穏やかな時間だった。
日が落ちて、帰る時間になって、立ち上がる。
「じゃあ、帰るね」
「はいはい、気をつけてね」
おばあちゃんは、にこっと笑う。
それは、初めて会った人に向けるような、優しい笑顔。
使った二人分の湯呑みを流しに持っていって、洗い。
冷蔵庫の中身を確認する。
「母さんがあとで、ご飯作りに来るから」
「あら、悪いわね」
また、優しい笑顔。
それでも。
「ねえ」
思わず呼びかける。
「なにかしら?」
おばあちゃんが、首をかしげるから、少しだけ迷う。
言うべきか、どうか。
「……約束、ちゃんと守ってるから」
そう言うと、おばあちゃんは、少しだけ不思議そうな顔をして。
「そうなの。ありがとうね」
優しく笑った。
たぶん、意味はわかっていないんだろうけど、それでもいい。
靴を履いて、おばあちゃんの靴を揃えて、家を出た。
もっと、ちょくちょく来ないといけないな。
少し歩いてから、空を見上げる。
静かな夜空だった。
ちょっとだけ欠けた月が見える。
その場に立ち止まって、それを見上げた。
車道を車が通り過ぎていく。
「……守ってるよ」
小さくつぶやく。
もう、覚えていない人に向けて。
やっぱり、それでも、いい気がした。




