⑥こんなに広かったっけ
見送ることには、慣れている。
手を振って、背中を見送るだけ。
それだけのことなのに。
ダンボールの口を閉じる音が、部屋に響いた。
ビリビリ、ビリ。
ガムテープを引く音は、ピリと、空気を裂くように乾いていて、俺はそれを、少し離れたところで聞いている。
「……何か手伝おうか?」
なんとなく聞く。
「ううん、大丈夫」
手を止めずに、振り返りもしない彼女から答えが返ってくる。
床には、同じ大きさのダンボールがいくつか並んでいる。
中身は、本や服、細かいものとか、この部屋にあったものが収まっている。
またひとつ積まれるのを、俺はただ見ていた。
何か手伝った方がいいのかもしれない。
そう思って、少しだけ体を動かす。
「……運ぼうか?」
俺が近くの箱を指差す。
「大丈夫、軽いから」
あっさり断られる。
「そうか」
それ以上は、何も言わない。というか、言うことが思いつかなかった。
代わりみたいに箱に手をかけて、少しだけ持ち上げて、でも、彼女が何も言わないから、そのまま静かに戻す。
前は、こんなふうに遠慮することなんてなかった気がする。
勝手に触って、勝手に片付けて、怒られる。
なんてことも、あったはずなのに。
今は、どこまで踏み込んでいいのか、わからない。
窓の外は、昼なのに少しだけ暗くて、灰色の空から、商店街の屋根に雨が落ちている。
部屋の中もどこかぼんやりしているけど、電気はつけていない。
つけるほどでもない、という微妙な明るさ。
その曖昧な明るさの中で、ただ立っている自分が、雨で散歩に行けなくて、耳を垂らして伏せをしている犬みたいだと思った。
これから彼女が行く先は決まっているのに、俺が連れていかれることは、ない。
「これ、どうする?」
小さな箱を持ちながら聞かれて、その箱の中を見ると、見覚えのある小物がいくつか入っていた。
そのほとんどが一緒に出かけたときに彼女に買った物だけど、その中に丸いガラスの置物があった。
手のひらに乗るくらいの、小さな惑星みたいなやつ。
完全な丸じゃなくて、少しだけ欠けた形をしている。
昔、帰り道に商店街で見つけて、なんとなく買ったものだけど、それだけは、ちゃんと彼女にあげた物ではなかった。
「あー、これのこと?」
「そう、それ」
「置いてっていいぞ」
少しだけ迷ったあとで、そう言った。
「そう、じゃあ、ここに置いとくね」
彼女は軽く笑う。
その笑い方は、いつもと同じでどこも変わらないように見える。
それなのに、その置き物だけが、トンと棚に置かれた。
部屋の中が空いていく。
棚の上も、机の上も、何もなくなって、さっきまであったはずのものが、どんどん消えていく。
「……早いな」
俺が、ぽつりと言う。
「何が?」
「荷造り」
「ああ」
少し考えるように間があって。
「まあ、そんなに物ないしね」
彼女はそう言って、また手を動かした。
確かに、そんなに物は多くないけど、それだけじゃないような気がした。
こういうときも、前はもう少しだけ、迷ってくれていた気がする。
俺たちの付き合いはそんなに長くはないけど、何度かこういうときもあって、それでも、いつも踏みとどまれた。
「あのさ」
「なに?」
「……本当に行くのか?」
少しだけ手が止まったけど、彼女はやっぱり振り返らない。
「うん」
手を動かしながら、短く答えた。
ダンボールに物を詰めて、ガムテープで封をして、それを部屋の隅で一塊になっているダンボールの横に並べる。
「まだ……」
「まだ?」
「……俺が悪かったよ」
俺が謝ると、彼女は手を止めて、しばらく黙ったまま、ダンボールを見つめる。
静かな部屋に、窓を叩く雨音だけが響く。
遠くで駅のアナウンスが聞こえて、沈黙に耐えられなくなった俺は、口を開いた。
「だけど、いつまでも過去を引きずっていてもしかたないだろ?」
「……そうね」
彼女の短い答え。
そして、止まっていた時が動き出したみたいに、手を動かし始めた。
「悪気があったわけじゃない」
「わかってるわ」
「傷つけるつもりはなかったんだ」
「わかってる」
「じゃあ、どうしたら……」
俺が何を言っても、彼女の手は止まらない。
だから。
「彼だって……」
「やめて」
彼女が被せるように言って、俺の言葉をさえぎる。
だから、それ以上は言えない。
俺の方を振り返らない小さな背中が、微かに震えている。
ビリビリ、ビリ。
最後のダンボールに封をするためのガムテープが貼られる。
「終わり」
彼女が小さく息を吐く。
「……おつかれ」
「ありがと、あとで業者が取りにくるから」
「わかった」
短いやり取り、それで終わる。
部屋の中を眺めると、無造作にダンボールが積まれているだけで、他には何もなくなっていて、さっきまであった生活の気配が、きれいに消えている。
しゃがみ込んでいる彼女から少し離れて、床にあぐらを組むと、やけに音が響いた。
「こんなに広かったっけ」
「ね」
彼女が部屋を見回しながら、少しだけ笑う。
同じことを思っていたらしい。
しばらく、お互いに何も言わずに座っていて、時間だけがゆっくり流れる。
「そろそろ行くね」
その一言で、再び、時間が早さを取り戻す。
「おう」
俺が答えると、彼女は立ち上がり、玄関に向かう。
俺はその小さな背中を見ながら、後ろをついていく。
玄関に座って靴を履く。
ゆっくりと立ち上がって、ドアに手をかけて、一瞬、止まる。
振り返るのかと思ったけど、彼女は振り返らずに、そのままドアを開けて、外の湿った空気が入ってくる。
「じゃあ」
「おう」
それだけ。
本当に、それだけだった。
俺は、なんとなく手を上げる。軽く、いつも通りに。
だけど、やっぱり彼女は振り返らずに、ドアが閉まる。
ガチャン。
音が、やけに大きく響いて、すぐに静かになる。
さっきまであった足音も、声も、ガムテープの音も、何もない、音が全部消えた部屋。
別に、理由があるわけじゃないけど、ただなんとなく、彼女がいた部屋に戻って、部屋の中を見る。
棚の上に目がいく。
小さな惑星みたいな置き物だけがそこに残ったけど、さっきまであったものが、それと積まれているダンボールを残して、全部なくなっている。
それでも、その置き物があるだけで、彼女がここにいた時間だけは残っている気がした。
少しだけ歩いて、部屋の真ん中に立つ。
俺の足音が、軽く響く空っぽの部屋。
遠くに駅のアナウンスの音。
「……飯でも食いに行くか」
小さくつぶやくと、近くの商店街にある、馴染みのバーのことが思い浮かんだ。
「あそこにも、もう行けないな」
小さく笑ったけど、やっぱりすぐには動かなくて、そのまま、しばらくそこにいた。




