⑤いいよ、いいの?
僕は最後に嘘をついた。
たったそれだけの話なのに。
どうしてこんなに残るんだろう。
「話があるの」
その言葉だけで、彼女がそれから言うことがわかった。
言葉がわからなくても、察する犬みたいに、彼女の仕草を見つめて。
「わかった」
短く返事をする。
向かいに座る彼女が、片方の手の指先で、髪の毛の先を何度もねじっている。
途中でほどいて、また巻き直す。
もう片方の手はグラスに、だけど好きなはずのハーブティーは、ほとんど減ってない。
廃工場をリノベーションしたカフェ。
元々は醤油工場だったそこは、テラスから中庭に植えられている桜が望める。
「あのね……」
彼女が言い淀んで、少し桜を見て、また僕を見た。
「最近、うまくいってないよね?」
「そうだね」
僕がかぶせるように答えたから、彼女が驚いた顔をする。
それから、少しうつむいた。
「……そっか」
吐き出されたのは小さな声。
だけど、彼女は、さっきまで肩に入っていた力を抜くみたいに、ふっと息を吐いた。
「やっぱり、そう思うよね?」
彼女がほほえんで、僕を見る。
「別に、嫌いになったってわけじゃないんだよ」
「うん」
「だけどね、なんていうか」
「うん」
僕はうなずく。
だけど、それ以上は言わない。
「わかんないんだけど……」
彼女の言葉が続かなくなって、視線がテーブルの上を泳ぐ。
その先にある僕のコーヒーの表面が、わずかに揺れていた。
さっき僕が、意味もなくカップに触れたせいかもしれない。
「なんかさ、愛されている気がしないんだよね」
「えっ?」
僕は小さくおどろいた。
「でも、ちゃんと大事にしてるよね?」
「……そうだね」
「ケンカだって」
「してないね」
彼女が被せ気味に言うから、僕は少し言い淀む。
「でも、それって……」
「なに?」
「よくないことだと思うの」
「えっと、なんで?」
僕が聞くと、彼女はうつむいたままで、ふっと息を吐いた。
「あなたは誰にでも優しいから」
間があって。
「……私じゃなくてもいい気がする」
彼女が少しだけ顔を上げて、目が合う。
だけど、すぐに逸らされた。
「一緒にいて、楽しくないってわけじゃないの」
「うん」
「店員さんに、優しくできるところとかも好きなの。だけど……」
そこで言葉は止まったけど、続きは聞かなくても、わかる。
犬じゃなくても、それぐらいは察することができる。
「そっか」
また短く、それだけを返した。
本当は、言えることはいくらでもある。
これからはもっと表現するとか。
君を優先できるようにするとか。
もう少しちゃんと向き合えば、きっと戻れるとか。
歌詞みたいな前向きな言葉を並べることもできる。
でも、目の前にいる彼女の顔を見ていると、それらは正解じゃない気がした。
「あなたも、そんなふうに思ったりしない?」
「……どうだろう」
僕は少し首をかしげた。
「うーん」
庭の桜を見る。
風に揺れて、小さな白い花びらが散って、舞う。
「あんまり考えたことなかったから、わかんないかも」
「そうなんだ」
彼女がまたうつむく。
だから。
「最近、ちょっとぎこちないかもとは思ってたけど」
「私が?」
「いや、特にどちらがとかじゃないと思うけど」
「……そっか」
彼女が小さくつぶやく。
「なんか、ごめんね」
「なんで謝るの?」
「だって」
「謝る必要なんてないよ」
僕が誤魔化すみたいにコーヒーに口をつけると、口の中に苦さが広がる。
目の前には、うつむいたままの彼女。
その姿を見て。
「いいよ」
口からこぼれ出た。
少しだけ沈黙が訪れて、風に揺れる桜のざわめきが、やけに遠く聞こえる。
隣の席の笑い声が、別の世界の音みたいだ。
僕がソーサーに戻すとき、ティースプーンに触れて、カチッとカップが音を出した。
「……いいの?」
カップの音をきっかけにしたみたいに、彼女がぽつりと聞く。
顔を上げた彼女が僕の目を見る。
真っ直ぐに。
だから。
「別れよっか」
僕は軽く言った。
なるべく軽く。
彼女は驚くことなく、ただ静かにうなずく。
「……うん」
それで終わり。
彼女がまた、ふっと短く息を吐いて、何かを言いかけるみたいに口を開いたけどやめて、ハーブティーのグラスを手に取った。
そのあと、二人でどうでもいい話をした。
桜のこととか、天気のこととか、最近見た映画のこととか。
無理にじゃない。
本当に、ただなんとなく。
さっきまでの話が嘘みたいに、普通の会話。
でも、それもすぐに途切れる。
飲み物が空になったから。
席を立つ。
レジで会計を済ませる。
どっちが払うかで少し揉めて、支払いは結局、割り勘にした。
また外に出ると、ちょっと風が冷たくなっていた。
「じゃあ」
「うん」
そこで、言葉が止まる。
その後に、何を言えばいいのか、わからない。
たぶん、何を言っても同じだ。
だから。
「元気でね」
笑って言った。
たぶん、ちゃんと笑えていたと思う。
「……うん、元気で」
同じように、笑って返される。
その顔を、少しだけ見つめてしまう。
見納めみたいだな、と思う。
でも、そんなことは言わない。
「じゃあね」
軽く手を振って、背を向ける。
いつも通っていた道を、ひとりで歩く。
さっきまで隣にいた人はいない。
それだけのことなのに、少しだけ違う道に見える。気がする。
角を曲がって道をそれて、少し遠回りをして帰ることにした。
見慣れない駅前に続く道、いつもの商店街の道は、なんとなく嫌だった。
商店街のアーチ看板が、やけに遠くに見える。
少し歩いたところで、信号に引っかかって、立ち止まる。
赤い光をぼんやりと見つめながら、さっきの会話を思い出す。
彼女に言わなかった言葉たちがまた浮かんできたけど、どれももう意味はない。
犬の遠吠えみたいに、ただ寂しいだけ。
歩行者信号が青に変わって、僕はまた歩き出す。
それだけのことで、何の意味もないのに、ふと足を止めて、なんとなく空を見上げた。
細い月が、そこにあった。
三日月。
欠けた頼りない光はほとんど僕たちには届かなくて、丸くなることもできずに、ただそこにある。
「……帰ろっと」
小さく呟いて、視線を下ろす。
やっぱり見慣れない帰り道。
だけど、それもきっと、そのうちに見慣れる。




