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二つの瓶  作者: 梨花むす
第二部
40/41

40 罪人たち

トラメンダ:疫病プルラの特効薬

モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草

アンティフラ:プルラの治療薬


ルート:かつて山で暮らしていた『ヤマビト』


ソニタ:ルートの母エルヴィアの伯母、ルートの大伯母

トニオ:ソニタの夫、元鍛冶屋


クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男

エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男

シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主


レイ:トモロ村出身の少年


ヤソン・グラウ:研究所所長、植物学者

シフラ:研究所の副所長、薬師


タチアナ:ハーフェン帝国皇女、皇帝の妹

「レイ。鼻、痛くない?」


 ルートは、ベッドの中からレイに言った。

 レイは、エウリコに殴られた顔をシフラに診てもらっているところだ。血はすでに止まっているが、鼻の左側が赤く腫れていた。シフラが鼻のまわりを触り、「痛いか」と聞くと、「腫れたところだけですね」と顔色ひとつ変えず答えていた。

 ここはルートの部屋だが、別々に診察するのはめんどくさいとシフラが言い、レイもここで手当てを受けることになったのだ。レイは目だけをルートのほうに向け、答えた。

 

「別に、このくらいは大したことないです。鍛冶屋にいたときの、親方の拳骨のほうがずっと重かったですから」

「そんなの……。え、鍛冶屋って、そうなの?」


 ルートは、シフラの手伝いで立っているソニタのほうを見た。ソニタは頬に手を当て、「うーん……、トニオも鍛冶屋だったけど、職人たちはちょっと荒々しいところもあるからねえ」と苦笑した。

 そうしているうちに手当てを終えたシフラが、「ま、あとは冷やしておくくらいだな」と言って、汚れた手を拭った。

 

「まあ、やんちゃな坊ちゃまが、そんなに鍛えてなくてよかったな。若殿なら鼻が折れていたかもしれないがな」

「なんで俺が、クラレオ様に殴られないといけないんですか」

「知らねえよ。場合によってはあるかもしれないだろうが」


 シフラは適当なことを言うと、彫りの深い顔をくしゃくしゃにして笑った。

 シフラはトラメンダの改良のため、この研究所にやってきた薬師だ。前はムランの街で、評判の薬屋を開いていたという。冗談ばかり言うし、なんでも茶化して、よくヤソンに叱られている。しかし、薬作りに対しては真摯に取り組んでいると、ルートは思う。そうでなければ、薬の効果を理解するために医術まで学ぼうとは思うまい。

 シフラは手当ての道具を薬箱に戻していたが、ふと、その手を止めて言った。


「レイはともかく、あの坊ちゃんは若殿に殴られてもおかしくないな」

「えっ、クラレオ様が……?」


 ルートは思わず声を上げてしまった。ルートはクラレオが怒ったところを見たことがない。人を殴るなどもってのほかだ。

 思い浮かぶのは――いつもの穏やかな笑顔、夢を語るときの横顔、皆に命令を下すときの少し厳しい声、そして、ルートが心配をかけてしまったときの、何とも言えない悲しげな目。

 シフラは驚いたルートに構わず続けた。

「そりゃお前、なんてったって、状況がまずいだろ。皇女様の目の前だからな。お優しい方だが、今回はさすがにお怒りだろうよ」


 思わず「ううん……」とルートが唸ると、シフラが片眉を上げて、あきれたように言った。

 

「なんでお前が悩む。悪いのは全部、あのエウリコ坊ちゃまだろうがよ。なんで兄弟なのに、あんなに馬……出来が悪いかね」

「まあまあ、シフラさんたら」

「しかしね、ソニタさんもご存じでしょう。この時期に、わざわざ皇女様がおいでになる理由は一つしかないって」

「まあ……、そうですけども」


 ソニタは、なぜかルートのほうをちらりと見た。シフラは続ける。


「やっと、クラレオ様と皇女様の婚約がまとまるかどうかってところじゃないですか。お家にとって相当大事な時期だってくらい、俺たちでもわかる。だからこそ、皇女様をわざわざこんなところまで連れてきたんでしょうに」


 口調とは裏腹に、シフラの顔はいつもの悪戯っ子のような笑顔を浮かべていた。そこで、ドアを丁寧にノックする音がした。


「入りますよ」


 扉が開き、ヤソンが顔を出した。

 

「ヤソン先生」


 ヤソンは少し疲れた顔をしていたが、ルートと目が合うと微笑んだ。


「ルート、もう体調は大丈夫ですか」

「はい、もう大丈夫です」


 ルートは身体を起こそうとしたが、ヤソンに止められた。


「無理せず、もう少し寝てなさい。ああ、レイも手当てが終わったみたいだね」

「ええ」


 ヤソンは満足そうに頷くと、シフラのほうを向いた。先ほどまでの微笑みがすっと消え、疲れた顔に戻った。


「じゃあ、お前の仕事も終わったんだな」

「もう休んでいいか」

「そんなわけないだろう。まだ殿下はいらっしゃるんだ。薬箱を置いたら、さっさと応接室に来い」

「俺にだけ厳しくないか?」

「気のせいだ。それに、たまには副所長らしい仕事をしろ」

「へえへえ」


 シフラは肩をすくめ、口を尖らせながら手早く片付けをすませた。ヤソンとともに部屋を出る直前、シフラが振り返って「ああ、そうだ」と言った。シフラは、肩にかけた鞄から小さな袋を取り出した。


「ソニタさんに渡しておきますよ。いつものやつです」

「ああ、落ち着くお茶ですね」

「今日は大変でしたからな。みなさんで飲んだらどうです」

「ありがとうございます。そうさせてもらおうかしら」


 シフラはソニタに袋を渡すと、「じゃあな」と言って部屋を出て行った。ふわりと、優しく甘い香りが部屋に広がった。

 五年前に研究所に来てからも、ルートはたびたび倒れた。最初の頃は目を覚ますのも今より遅く、トニオやソニタなど、研究所の人々を心配させたものだ。シフラは一年ほどしてからここに来たのだが、ルートの症状をできるだけ和らげるよう、いろいろと試してくれた。

 そのうちの一つが、この茶だ。目を覚ましたあとも、具合が悪いとまた同じような発作を起こしてしまう。シフラ特製の茶は、苦しいほど脈打つ心臓や止まらない身体の震えを鎮めてくれた。


「じゃあ、私はお茶を入れてくるわね」


 ソニタがルートの頭を撫でたあと、袋を持って部屋を出て行った。



 ◆



 ソニタが部屋を出ると、ルートは身体を起こした。

 

「レイ、ごめんね」

「さっきも言いましたが、たいしたことではありませんので」

「殴られていいなんてことはないよ。それに……」


 ルートは申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「……僕のせい。僕が、すぐに動かなかったから」

「あんなときに動いたらだめですよ。あなたが何をされるかわかりませんでしたし。俺が殴られた分、時間稼ぎができたんだからよかったんです」

「……」


 ルートは黙ってうつむき、ベッドから下ろした足を、所在なげにぷらぷらと動かした。

 レイは、先ほどの言葉を本心から言っていた。あのとき、一目見てエウリコ――あいつは、危ないやつだとわかった。なぜなら、その目には自分も知る狂気があった。ルートに対する、狂おしいほどの執着が。

 ルートは、ふと足を止めると顔を上げ、「ねえ、レイ」と言った。

 

「……あの人のこと、知ってる?」

「クラレオ様の弟君……とは聞きましたが」

「僕が、昔お城にいたのは知っているでしょう」

「はい」

「そのとき、あの人に殴られた……ことがあるんだ」

「……殴られた……?」


 レイが眉根を寄せて言うと、ルートは頷いた。髪がさらさらと揺れ、波打つ様子も美しい。

 レイは、エウリコの傲慢な顔を思い出した。なぜこんなに美しいものに、そんな乱暴なことができるのだろうか。

 

「僕は、離れの建物で仕事をしていたの。そうしたら、あの人が入ってきて……、はじめから怒ってた」

「話をする前からですか?」

「うん。クラレオ様のこととか言ってた気がするけど、僕はよくわからなくて。怖くて逃げようとしたの。そしたら、腕を掴まれて……」

 

 ルートは、腕を抱えて黙り込んだ。身体が細かく震え始め、レイが声をかけようとしたとき、

 

「ああっ」


 ルートは突然叫ぶと、両手で顔を覆った。顔は青ざめ、息が激しく、荒くなっていた。レイは、ベッドへと駆け寄った。


「ルート様」

「床に倒れて、あの人が乗ってきて……。そのあと……、そのあと、何が起きたの? 気持ち悪い、やめて!」

「ルート様! 息をするんです! ゆっくり!」

「あ、ああ……、はあ……」


 血走った目から、涙があふれ出ていた。レイは、ルートの背をさすりながら呼びかけた。「もう大丈夫です」「あいつはいません」と、何度も繰り返した。


「はあ…………」


 だんだんとレイの声が届くようになったのか、ルートの呼吸はしだいにゆっくりとなった。ルートは「ごめん……」とかすれた声を出し、目の周りが赤くなった顔をレイに向けた。

 レイは、ルートを見つめ返して言った。

 

「あいつに殴られただけじゃなくて、()()()()()もされたんですね」


 ルートは黙っていたが、やがて、こくりと頷いた。重苦しい空気が部屋に満ち、レイはそれ以上口を開くことができなかった。ぽとん、ぽとんと、シーツに涙が落ちる音を、ただそばで聞いていた。

 しばらくすると、ルートが自嘲するように鼻を鳴らした。


「おかしいでしょ? もう何年も経ってるのに、子どもの時のことが忘れられない」

「……おかしくはないと思います」

「これだけじゃないんだ、これだけじゃ……」


 ルートは窓のほうを向いた。どこか遠くを見つめる端正な横顔を、レイは見つめていた。


「僕が、全部悪いんだ」


 深緑の瞳が潤み、長い睫毛が伏せられると同時に、涙がはらりとこぼれた。

 

「……あなたが悪いなら、俺はもっと悪い」


 レイが思わず言うと、ルートが驚いた顔でこちらを向いた。


「どうして、レイが悪いの?」

「俺にも言えないことはあります」


 ――いつか自分が罪を告白したら、この人はどうするのだろうか。


 今は言えるわけもない。レイが黙っていると、ルートは何か言いたげに口を動かしていたが、やがて軽く吹き出した。


「そうかあ」


 ルートはそのまま、くすくすとしばらく笑っていた。

 ソニタが淹れた茶を持って戻ってきたとき、目が赤いのにルートが笑っているので、ソニタは「どうしたの?」と首を傾げた。


ここまでお読みいただいてありがとうございます。次も楽しんでいただけると嬉しいです。

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