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二つの瓶  作者: 梨花むす
第二部
39/41

39 温室

トラメンダ:疫病プルラの特効薬

モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草

アンティフラ:プルラの治療薬


ルート:かつて山で暮らしていた『ヤマビト』


ソニタ:ルートの母エルヴィアの伯母、ルートの大伯母


クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男

エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男

シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主


レイ:トモロ村出身の少年


ヤソン・グラウ:研究所所長、植物学者

シフラ:研究所の副所長、薬師

パッソ:研究所の兵士

カンポ:研究所の兵士

ヴァッレ:研究所の兵士

アルジネ:研究所の兵士


タチアナ:ハーフェン帝国皇女、皇帝の妹

 その日、ルートとレイは温室にいた。皇女はすでに研究所に到着され、ヤソンの説明を受けたあと、クラレオとともに研究所内を回ることとなっていた。

 出迎えのとき、遠巻きに皇女の姿を見たが、小柄だということと、高そうなドレスを着ていることしかわからなかった。


 ルートはそわそわと落ち着かない様子で、隣に立つレイに話しかけてきた。

 

「いつ来られるのかな。僕、失礼をしないか心配だよ」

「あなたは大丈夫でしょう。失礼をするのは礼儀作法を知らない、自分のほうです」

「そんなの自信ないよ。変なやつだと思われたらどうしよう」

「心配する必要ないですよ」

「何言ってるの。レイはいいよ。背も高いし、身体だって大きいから見栄えがするじゃない。僕はこんなだもの」


 ルートは口をとがらせ、レイに向かって上着の袖を広げて見せた。

 

 今日のルートは、レイがここにやって来た日と同じ格好をしている。外は汗ばむ暑さだが、帽子をかぶり、眼鏡をかけ、長袖の上着を着ている。

 今のレイなら間違えようもないが、眼鏡の硝子を通すと、瞳の深緑はやや鈍い色になり、耳まで隠す帽子は絹糸のような髪を隠し、顔の輪郭をわからなくしてしまう。

 レイは、ルートの華奢な身体を包む、ぶくぶくとした厚着に目をやった。

 レイはもう、その中身を知っている。ルートの身体は、まるで子どものままのような肉の薄さである。背はさすがに伸びているが、喉はつるりとなめらかで、声の高さも子どもの時とほぼ変わっていない。


 ――『妖精』のような方だ。しかし……。


 レイにも少しずつ、ルートにまつわる事情が耳に入るようになってきた。山で死にかけていたのをパッソたちが発見したこと、しばらくは城で過ごしていたが、何らかの出来事があっていられなくなったこと。その出来事が、ルートにとってひどい心の傷になったこと。

 それらを思うと、レイは刃を胸に突き立てられたような気持ちになる。ルートが飢えて生死の境をさまよったのは、トモロ村のせいだ。山で幸せに暮らすことができていれば、城で酷い目に遭うことはなかったかもしれない。

 そんな人々の悪意の結果、ルートの身体の時は止まってしまったのではないだろうか。 みずみずしいままに、しかし美しさの蜜で満ちていく身体は、より人々を妖しく誘う。そうして、ルートはまた危険にさらされる。だのに、ルート自身にはその危険がわからない。すぐそばにいる、レイの心の内すら知らぬのだから。


 ――八花草のように、この人も毒が吐けたらいいのに。


 そうすれば、ルートに近づく者はみな、その身を捧げて死んでいくのに。

 

「……あなたはご立派ですよ」

「褒めすぎだよ」

「それくらいにしておきなさい、ルート」


 ソニタがいかにも微笑ましいといった様子で口をはさんだ。ソニタの持ち場は台所なのだが、一人で視察を受けるのは心細いとのことで、ルートたちと一緒に温室で待つことにしたのだった。

 

「レイと自分を比べても仕方ないわ。……あら、眼鏡がずれているから、ちょっとこちらにいらっしゃい」

「え、そう?」


 ルートは素直にソニタの方へ行き、顔を突き出した。ソニタがルートの眼鏡に手をかけたとき、入り口のほうで、バタバタと大きな足音がした。


「ここか!」


 男の怒鳴り声が響いた。レイたちは、一斉に声のほうを向いた。


 ルートの顔が、みるみる色を失っていった。ソニタの手から眼鏡が滑り落ち、


 ――かしゃん。


 床にぶつかり、鋭い音を立てた。

 

 

 ◆



 ――身体が動かない。声が出ない。


 怒鳴った男が、傲然と近づいてくる。肩に置かれたソニタの手に、ぐっと力が入った。


「どなたでしょうか」


 レイがずいと前に出て、男の前に立ち塞がった。男はロッカ家の兵士と同じ姿をしていたが、その態度はパッソたちと全く異なっていた。


「そいつを渡せ」

「……どういうことでしょう。俺たちは何も聞かされていませんが」

「うるさい!」


 男は、いきなりレイの頬を叩いた。鈍い音が響き、レイはわずかによろめいた。ソニタはルートを抱き、悲鳴を上げた。


「使用人が逆らうな!」

 

 ――知っている、この言葉を吐いた人を、僕は知っている!


 クラレオの弟、エウリコ・ロッカ。

 ルートの足から力が抜けていく。ソニタに抱かれたまま、ずるずると床にへたり込んでしまう。

 どうして、この人がここにいるんだろう。それとも自分が、いつの間にかあの離れに戻ってしまったのだろうか。

 

「こんなところに隠れていたんだな」


 エウリコはさらに近寄ってこようとした。レイが割って入り、エウリコを制止した。


「いけません。クラレオ様にお伺いを立てないと……」


 エウリコの顔が、さっと赤くなった。エウリコはレイの胸ぐらを掴み、「うるさい!」と顔に拳を振り下ろした。レイの鼻から血が飛び、床にぼたぼたと落ちた。


 ――どうしたら、どうしたら……。


 息のしかたがわからない。頭がくらくらと揺れる。


「や、やめて」


 ルートが絞り出すように声を出すと、エウリコがこちらを向いた。

 

「ふん」


 エウリコは、振り捨てるようにレイから手を離すと、温室を見回して鼻で笑った。

 

「まるでお姫様だな。皆に守られて、ひきこもって草の世話か。ご苦労なことだ」


 五年前と同じ無遠慮な目が、大事な場所を穢していく。クラレオが用意してくれた、ルートが働くための場所。ともに語り、語られた大切な思い出。たまらなく苦しくなり、ルートの目から涙があふれた。

 エウリコは、鼻を押さえ血を止めているレイを、顎で指した。


「これ以上あいつが殴られたくないのなら、大人しくしてろ」


 ソニタがルートを抱いたまま離さないのを見て、エウリコは顔をしかめた。


「ばあさんも殴られたいのか?」


 背筋がぞわりとした。大事な人々が、また自分のせいで酷い目に遭う……。

 ルートは震えるソニタの手を押さえ、よろよろと立ち上がった。


「そうだ、それでいい」


 エウリコはにやりと笑い、ゆっくりとルートのほうへと歩いてきた。ルートは、来ようとしたレイを手で制した。

 

 五年前は、エウリコにふるわれた暴力だけが怖かった。しかし、成長して知識が増えるにつれ、自分が何をされたのか、何をされようとしていたのかが分かり、おぞましさが加わった。


 エウリコはルートの胸ぐらを掴んで引き寄せ、帽子をむしり取った。


「あっ……」


 ばさりと髪が広がった。エウリコが唾を飲む音が聞こえた。

 エウリコは胸から手を離すと、乱暴にルートの上着を剥いだ。ルートはなすがままで、自分が人形にでもなったかのようだった。汗ばんだ肌に生温かな空気が触れるのを、ただ感じていた。

 

「やっと、やっと……」


 エウリコは、幽鬼のような形相でつぶやいた。そして、そのままルートの身体に手を伸ばしてきたとき、


「何をしている!」


 新たな声が飛んだ。エウリコの手が、びくりと止まった。


 ――あの声は。


 クラレオだ。ぼんやりとした視界の中に、正装をしたクラレオが、温室の入り口に立っているのが見えた。

 

 ――珍しいな。怒っているみたいだ。後ろに立つ女性が皇女様だろうか。ああ、ちゃんとお迎えしたかったのに、こんなことになってしまって。

 

 エウリコは舌打ちをすると踵を返した。クラレオたちとは反対側へと走り出すエウリコを、カンポとアルジネが追って駆けていく。

 温室に大勢の人々が入ってきた。クラレオだけでなく、ヤソンやシフラもいる。一気にまわりが騒がしくなったかと思うと、ぐらりと大きく世界が揺れた。温室の壁が傾き、ソニタの声が遠くに聞こえた。

 

「ルート、大丈夫か」


 クラレオの心配そうな顔が見える。ルートの手には、いつの間にかクラレオの手が重なっていた。昔から大好きな、少し硬くて温かい、大きな手。

 

「……はい」


 そう答えると、冷え切った身体が溶けていくような気がした。


 

 ルートが意識を失っていく中、誰の耳にも届かなかった、かすかな声があった。


「あなたなのね」


ここまでお読みいただいてありがとうございます。次も楽しんでいただけると嬉しいです。

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