41 扉の前
トラメンダ:疫病プルラの特効薬
モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草
アンティフラ:プルラの治療薬
ルート:かつて山で暮らしていた『ヤマビト』
ソニタ:ルートの母エルヴィアの伯母、ルートの大伯母
クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男
エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男
シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主
レイ:トモロ村出身の少年
ヤソン・グラウ:研究所所長、植物学者
シフラ:研究所の副所長、薬師
パッソ:研究所の兵士
カンポ:研究所の兵士
ヴァッレ:研究所の兵士
アルジネ:研究所の兵士
タチアナ:ハーフェン帝国皇女、皇帝の妹
――どうしましょう。私のせいだわ。
タチアナは、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。この事態を引き起こしたのは、自分が『ヤマビト』に会いたいとわがままを言ったせいだった。
騒ぎを起こしたのはエウリコ・ロッカ。クラレオの弟であり、自分に『ヤマビト』の存在を教えた男である。エウリコはタチアナたちの一行に、ロッカ家の兵士のふりをして紛れていたのだ。おそらく、『ヤマビト』に会いたいばかりに。
『そのヤマビトの一人に、非常に美しい姿の者がいるのです。兄は、そいつを何年も、後生大事に囲っているのですよ』
タチアナは顔を上げ、部屋の中を見回した。石造りのこの建物は、もとはロッカ家の別荘だったという。タチアナが通された応接室は、貴族を迎えるに十分なしつらえにはなっていた。しかし、椅子の背板や細かな模様で飾られた壁は色が褪せ、経た年月を感じさせた。ここに人を迎えることなど、ほとんどないのだろう。
あの言葉に含まれていたのは、エウリコ自身の嫉妬だ。しかし、的外れとも言えまい。エウリコのようなならず者がいるから、クラレオは、この研究所の中で“あの人”を守らなければならなかったのだ。
エウリコの狙いを見抜けず、浅はかにも罠にかかってしまったことが悔やまれる。
――傷つけるつもりなど、なかったのに。
一目見たかっただけなのだ。クラレオの心をとらえた者がどんな人物なのか、ただ知りたかっただけなのだ。
タチアナは、深くため息をついた。
外から女性の悲鳴が聞こえた瞬間、クラレオは顔色を変えた。「殿下はこちらでお待ちください」と言うと、迷わず兵士たちとともに走って行った。温室では、倒れたあの人に駆け寄り、その手を取った。そのときの瞳は、かつてタチアナが見たのと同じ熱を帯びていた。
この人だ、この人でしかない、と思った。タチアナの口から、思わず「あなたなのね」という言葉が漏れた。
それにしても、なんと美しい人だっただろう。派手な化粧もなく、華美な衣装もないのに、まるで身体から光が放たれているかのようだった。気を失った、無防備な姿でも、人外とも言えるその美貌はなお輝き、目を離すことができなかった。
「ふう」
侍女が言葉を尽くして慰めようとしてくれたが、タチアナの心はふさぐ一方だった。
そうしていると、コンコン、と扉をノックする音がした。侍女はタチアナに心配そうな目を向けながら、扉のほうへと向かった。
「入っても、よろしいでしょうか」
クラレオの声だった。タチアナは「ええ」とだけ答えた。
クラレオは、静かに入ってくると、「失礼します」とタチアナの向かいに腰を下ろした。後ろに、先ほど会ったこの研究所の所長と、副所長がひかえている。やせ型で背の高い所長は神経質そうな表情をしているが、小柄で髭の生えた副所長は、なんとも考えの読めない顔をしていた。
「……倒れた方の具合は、大丈夫ですの?」
タチアナはおずおずと口を開いた。立場上、態度に示すことはできないだろうが、クラレオは怒っているに違いない。
しかし、意外にもクラレオは、驚いたような顔をした。
「はい。もう目を覚ましておりますが……」
「それはよかったわ。怪我をされた方はどうでしたの?」
「その者も、もう手当ては終えました」
そう言うと、クラレオは後ろの副所長のほうに目をやった。副所長は「へえ」と軽く頭を下げると、顎髭をひと撫でして話し始めた。
「下男のほうは鼻血程度です。大した傷はありませんでしたよ。もちろん、倒れたほうも起き上がって喋れるくらいピンピンしておりました」
隣の所長が肘で副所長をつつき、「もう少しちゃんと喋れ」と小声で言っているのが聞こえたが、タチアナは「まあ、よかったこと」と安心して息を吐いた。
すると、突然クラレオが頭を深く下げた。それを見て、所長が慌てた様子で副所長の頭を押さえつつ、自分も頭を下げた。
「殿下、このたびは大変申し訳ありませんでした。家の者が、大変な失礼をいたしました」
「まあ」
タチアナは侍女と顔を見合わせ、目をぱちくりとさせた。クラレオが頭を下げたまま戻さないので、戸惑いつつも声をかけた。
「いけません、顔をあげてくださいまし」
「しかし」
「このたびのこと、そもそも悪いのは私ですわ。私がここに来たいと言わなければ」
「いいえ、こちらの警備体制の不備、私の管理の不行き届きですから」
「そんな……」
何度タチアナが「自分が悪い」と伝えても、真面目さゆえか、クラレオは引かない。頑固とも言えるその態度に、タチアナは困り果てた。
「なんとお詫びしてよいか……」
幾度めかのその言葉に、タチアナは「では」と返した。クラレオがはっと顔をあげた。
「そこまでおっしゃるのなら、私のお願いを二つほど、聞いてくださいますか?」
「なんでしょうか」
クラレオにじっと見つめられ、タチアナは少し顔が熱くなるのを感じた。
「一つは、温室におられた方に会わせてくださいまし」
「……」
「私からも、謝罪をしたいのです」
「謝罪など……、いえ、わかりました。私どもも一緒でよろしければ」
「かまいませんわ」
タチアナが言うと、クラレオは黙って頷いた。できれば会わせたくはないだろうが、この状況で断るのは難しいと判断したのかもしれない。タチアナとしては、クラレオがいるほうがむしろよいと思っていた。
クラレオは、探るような目をタチアナに向けた。
「それで、もう一つはどういったものなのでしょうか」
「それは……あの……」
タチアナは口ごもり、手をもじもじと動かした。
――こんな状況で頼んでもいいものかしら。でも……。
クラレオや所長たちが、不思議そうな顔でタチアナを見ている。皆の視線が痛い。顔にみるみる血が昇ってくるのを感じ、タチアナは思わず目を伏せた。
◆
「ええっ、皇女様が?」
部屋まで呼びに来たアルジネの言葉に、ルートは目を丸くして答えた。
「そう、どうしてもルートに会いたいとおっしゃってるみたいだよ」
「ええ……、なんでえ……」
「緊張するよねえ」
アルジネは眉を下げ、気の毒そうに言った。ここ五年というもの、ルートは研究所に関わる人々としか顔を合わせたことがない。それどころか、山にいたときは家族くらいしか話せる人はいなかったのだ。
――ましてや、皇女様だなんて。
ヤソンが家庭教師をしてくれているとはいえ、礼儀作法には自信がない。さっきの今でもあるし、緊張のあまり倒れてしまったらどうしたらいいか。
手のひらにじっとりと汗がにじんだ。アルジネは慰めるように、ルートの肩をぽんぽんと叩いた。
「そんなにかしこまらなくても、大丈夫だと思うよ。副所長もいつもの感じだけど、別に怒られてはないみたいだから」
「うーん……」
「クラレオ様もいらっしゃるし、何かあったら助けてくださるよ」
「うん……」
でも、と言いかけた言葉をルートは飲みこんだ。何を言っても、行かなければならないのは変わりない。しかし、かえってクラレオに迷惑をかけてしまうことが不安なのだ。
『やっと、クラレオ様と皇女様の婚約がまとまるかどうかってところじゃないですか』
手当てのときにシフラはそう言っていた。それならば、皇女様は高貴であるだけでなく、クラレオ様にとって大事な方だ。そんな方に失礼をするわけにはいかない。ただ、
――まとまらなかったら……?
ルートは首を振ると、上着を手に取った。先ほど着ていたものはエウリコに汚されてしまったので、ソニタが新しいものを用意してくれていた。
ルートが眼鏡をかけようとしたとき、レイが言った。
「それはもう必要ないんじゃないですか。皇女様はあの場におられましたから、あなたのお顔はご存じだと思いますよ」
「そうなの?」
アルジネは頷いた。ルートは少し逡巡したが、結局眼鏡はやめることにした。今は眼鏡を見ると、エウリコの怒鳴り声を思い出しそうだった。
支度がすむと、ルートはアルジネの案内で応接室に向かった。後ろにレイが控えてくれているのが、少し心強かった。
応接室の背の高い扉の前まで来ると、心臓が早鐘を打ち始めた。応接室は、時々ソニタが掃除していることくらいしか知らない。めったに入ることがない部屋だというのも、より緊張を高めた。
レイが、後ろからすっと近づいて来たかと思うと、ルートにささやいた。
「あなたなら大丈夫ですよ」
何を根拠に、と思ったが、レイがあんまり真面目な顔だったので、ついくすっと笑ってしまった。先ほどもそうだったが、こんなとき、レイはいきなり突飛なことを言う。
アルジネが「いいかい」と声をかけ、扉をノックした。扉が静かに開かれ、ルートは「失礼します」と言って、中へと足を踏み入れた。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。不定期投稿ではございますが、続きは作成していく予定ですので、しばらくお待ちいただければ幸いです。




