37 遠い目
トラメンダ:疫病プルラの特効薬
モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草
アンティフラ:プルラの治療薬
ルート:かつて山で暮らしていた『ヤマビト』
クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男
エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男
シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主
タチアナ:ハーフェン帝国皇女、皇帝の妹
夏が近くなったころ、タチアナのもとに皇都から手紙が届いた。皇都に残した侍女が書いた、その手紙は、最近の皇都の様子をつまびらかに伝えていた。
――皇都では、プルラが猛威をふるっております。宮殿の中でも数名の者が倒れました。人がおらず、あたりにネズミが走り回る有様です。タチアナ殿下におきましては、まだロッカ領で過ごされますようにと、皇帝陛下からのお達しでございます――
タチアナは、大きくため息をついた。侍女の文面からは、彼女が皇都でひとり、疫病に怯えている様子が伝わってきた。自分だけが安全なところにいることに、どうしても負い目を感じてしまう。
――また、トラメンダの数が足りず、人々はアンティフラまでも争って手に入れようとなさいます。近々、ロッカ家へ使者が向かうかもしれません――
陽射しが強くからっとしたロッカ領とは違い、帝国の中でも北に位置する皇都は、一年を通してひんやりとした空気を纏う水と氷の都である。雪が降ったときこそ最も美しい、豪奢であるが繊細に造られた建物の中を、今はネズミが我が物顔で走り回り、人々は我が身かわいさに薬を求めてさまよっている。愛する故郷を思い、タチアナはもう一度ため息をついた。
「トラメンダは、急いで作らせてはいるのですが……」
シスモンドに報告に行くと、次男のエウリコと話しているところだった。シスモンドはタチアナを迎えると、応接用と思われる丁寧に磨かれたソファに座るよう促した。そして自分も向かいに座ると、申し訳なさそうに言った。
「時間がかかりますの?」
「急いで十日ほどです。それを皇都まで運びますので、陛下のお手元に行くまでにはさらに五日ほどかかりますでしょうか」
「十五日ほど……」
タチアナは、皇都からここに来るまでの道のりを思い出した。荷馬車を急がせたとて、そのくらいの日にちはかかるだろう。
タチアナは、思い切って聞いてみることにした。
「……シスモンド卿」
「なんでございましょう」
「今、モンテグラシスの量は足りているのですか」
ぴくり、とシスモンドの右手が動いた。後ろに立つエウリコも、少しだけ眉を動かした。
「……さほど多くはありませんが、一定の量は得られております」
シスモンドはじっと、タチアナを見つめた。
「ご関心がおありですか」
「私、以前トラメンダに命を救われましたの」
「ああ、そうでしたね」と、少しほっとした表情でシスモンドが言った。タチアナは続けた。
「プルラはとても大変な病気です。私は運良くトラメンダを使ってもらうことができましたが、そうはいかない方々もおられますわ」
「その通りでございます」
シスモンドは頷いた。タチアナは、闘病の末、骨と皮だけになった父の顔を思い出した。そして、病床の父を見舞いたいと訴えたとき、怒って追い返した兄の怖い顔も。
「トラメンダが使える人は、多い方がいいですもの。だから気になってしまって」
「なるほど……」
「トラメンダをたくさん作るには、モンテグラシスがたくさん必要ですわね。モンテグラシスというのは、そんなに難しい薬草なのですか」
シスモンドは、常の柔和な表情に戻り、大きく首肯した。
「ええ、モンテグラシスは、野菜などのようには育てられないのです」
「と、いうと……」
「毒があるのです。地に生えているときは、獣すら近寄れません。また、採れる時期も限られております」
「まあ……」
「そういうわけで、技術のある者しか採集ができないのです」
「そうなのですね」
そこまで話をして、タチアナは刺すような視線を感じた。顔を上げると、険しい顔をしたエウリコと目があった。エウリコは会釈すると目をそらし、今度はその視線をシスモンドに向けた。
「どうされましたか」とシスモンドが尋ねた。タチアナは首を軽く振ると、「なんでもありませんわ」と答えた。
その後は他愛ない話をしていたが、シスモンドに疲れが見えたため、タチアナは辞することにした。
タチアナが部屋を出た後、シスモンドは「休む」と寝室のほうへと向かった。それを見送ると、エウリコは追いかけるように部屋を出て行った。
◆
タチアナは部屋に戻る途中、ぶしつけにも後ろから声をかけられた。振り返ると、ロッカ家の次男、エウリコが立っていた。
「殿下にお話が」
タチアナは、この青年があまり好きではなかった。愛嬌のある顔立ちや態度に侍女たちはざわめくが、目の前の青年は、タチアナにとってうんざりするほどありふれた目つきをしていた。
皇女としてのタチアナを品定めし、いかに自分のために利用してやろうか――そんな思いを腹の中に抱えた者たちは、いつもこんな目をしてタチアナを見る。
タチアナの声は、自然と冷ややかなものとなった。
「……こんなところで、男女が立ち話をするものではありませんわ」
「これは失礼いたしました」
エウリコは慌てて頭を下げた。
タチアナ自身は大らかなたちではあるものの、ロッカ家にとっては客人であるし、未婚の皇女という立場もないがしろにされるべきではない。本来、タチアナと話をするためには、まず侍女に言付けをしなければならないのだ。
タチアナはそのまま立ち去ろうとしたが、エウリコは頭を上げると、「殿下」ともう一度タチアナを呼び止めた。
二度の無礼に対し、さすがに抗議をしようとした侍女を、エウリコは手で制した。しかし、額にやや汗が滲んでいるのは、暑さのせいではないだろう。
「兄のことで、お耳に入れておきたいことがあるのです」
「……クラレオ様の?」
「ええ。殿下のお立場を考えますと、どうしてもお伝えした方がよいかと思いまして」
タチアナの胸が、どきんと跳ねた。
――あの方の、秘密……。
タチアナは、クラレオの熱を帯びた瞳を思い出した――どこか遠くを、いつも見つめているあの瞳を。
動揺を抑えようとしたが、わずかに声が震えた。
「……いったい、なんだと言うのです」
その答えを聞くと、エウリコは口の端を歪め、タチアナを舐め上げるように見た。
「殿下、少しお時間をいただけますね?」
◆
タチアナの部屋に招かれたエウリコは、内心小躍りしていた。
――引っかかった。
一か八かの賭けであった。さすがに皇女に声をかけるのは憚られたが、心優しいと評判のタチアナ殿下ならばと、試した甲斐があった。
まだ十七歳の少女だ。見目よく優秀な兄に憧れを抱かないわけがない。ましてや、婚約者候補ともなれば、気にしないわけがない。
「そちらの椅子におかけください」
タチアナの侍女が、エウリコに椅子を勧めた。タチアナのためにクラレオがしつらえさせたのだろう、女性好みの繊細な意匠の椅子だった。
ロッカ家の侍女は外に出されたが、皇家から来た侍女たちは部屋に残り、タチアナの後ろに控えている。普段は声をかけてやると少し顔を赤らめたりするのに、今は緊張した面持ちでエウリコを見ていた。
エウリコが座ると、タチアナが口を開いた。顔つきは強張っていた。
「それで、どういったお話ですの」
「先程も申し上げた通り、兄のことについてです」
「手短にしてくださいませね」
「もちろんでございます」
強がってはいるが、一刻も早く聞きたいといった心持ちなのだろう。エウリコはひそかにほくそ笑んだ。
「そんなに難しい話ではありません。殿下はさきほど、父とモンテグラシスの話をされましたでしょう」
「ええ、そうでしたわね」
「殿下。モンテグラシスには、『ヤマビト』と呼ばれる者が関わっているのをご存じですか」
「ヤマビト……?」
「モンテグラシスが生えている山に住んでいるやつらです。そやつらがモンテグラシスを採ってくるのですよ」
「……」
タチアナが、その形のよい眉をひそめた。話の関わりがつかめないのだろう。しかし、本題はこれからだ。エウリコはずいと身を乗り出した。
「そのヤマビトの一人に、非常に美しい姿の者がいるのです。兄は、そいつを何年も、後生大事に囲っているのですよ」
タチアナの琥珀色の目が見開かれ、後ろの侍女たちが、「まあ」と声を上げた。侍女たちの「山に住んでいる?」「野蛮な……」といったひそひそ声が聞こえてくる。
タチアナは硬い表情で、エウリコに尋ねた。
「囲っている……とは、どういうことなのでしょう」
「さあ」
「さあ?」
「いえ、私にも詳しいことはわからないのですよ。しかし、兄がどこかに隠していて、たびたび会いに行っているのは確かです」
「……」
タチアナの唇が、きゅっと結ばれた。そうだ。それでいい。あの涼しい顔をした兄に、どす黒い疑念を抱くがいい。
今日だって、クラレオは従者を連れて留守にしている。あいつに会いに行っているに違いないのだ。
エウリコはたたみかけた。
「山に住んでいたような、下賤の者ですよ。兄はあの通り優秀な男ですが、一方そんなものにご執心なのです。私、黙っているのが心苦しかったもので、失礼は重々承知ではあったのですが、どうしても……」
エウリコが沈痛な表情を作り、訴えかけると、侍女たちは同情的な視線を向けてきた。タチアナはじっと黙っている。
すると突然、タチアナの瞳から涙がこぼれだした。
「殿下」
「タチアナ様」
侍女がわらわらと群がり、ハンカチなどを差し出す。タチアナは声も出さず、ただそのままはらはらと涙を流した。
「大変失礼いたしました。では、私はこれで……」
エウリコはそう言うと、逃げるように退散した。扉を閉めるときも、まだ侍女たちの心配そうな声が聞こえていた。
自分の部屋へと戻りながら、エウリコは考えた。
――やったか。
皇女を泣かせたのがばれたら、父親からは大目玉を食らうだろう。かつて父親は、自分に容赦なく鞭をふるった。兄をかばい、自分だけを悪者にした。家からも追い出した。
鞭の傷はもうすっかり綺麗になっているが、あのときの父の顔は今も忘れない。
しかし、危険を冒す価値はあった。
――これで、殿下が動いてくれたら……。
あいつの存在に殿下がお怒りだとわかれば、兄はあいつを手放さざるを得まい。ぬくぬくと兄の手の中で守られてきたあいつは、もう一人で山には戻れまい。
そのときこそ、きっと――。
◆
「殿下、大丈夫でございますか」
「エウリコ様もあんまりでございます。いきなりこんな話を……」
「でも、言ってくださらなかったら、それはそれで……」
侍女たちの話す声が、何も頭に入ってこない。
――どうして。
さすがに、どこかの貴族の娘かと思っていた。身分が低いために、また、タチアナという存在がいるがために、表に出せないのだろうと。
しかし、『ヤマビト』とはどういうことだろう。シスモンドの言っていた『技術のある者』が、その『ヤマビト』なのだろうか。
山に暮らし、薬草を採って生きる人間が、いったいどうやって侯爵家のクラレオとそこまでのつながりを持つことができたのか。
『下賤の者ですよ』
それは、自分はクラレオにとって、そんなにも魅力がないということなのか。皇女という身分をもってしても、その人には太刀打ちできないということか。
幼い頃から婚約者候補だと教えられた、年上の美しい青年。優しく穏やかなその態度に、ほんの少しの期待も抱かなかったとはいえない。しかし、それは悪いことだろうか。
たとえその目が、いつも遠くを見つめているのに気づいていたとしても。
――もう、帰りたい……。
あの弟は、いやらしい笑みを浮かべて、わざわざ自分に真実を告げてきた。これなら、知りたくなどなかった。あんな男の言葉に、耳を傾けるべきではなかったのだ。
ロッカ家はどういうつもりなのだろう。恋に浮かれた若い娘を、笑いものにでもするつもりなのだろうか。こんなに遠くまでやってきたというのに、どうしてこんな思いをしなければならないのか。
「……しばらく、一人にしてちょうだい」
涙はもう出てこなかったが、ひどく疲れた感じがした。誰とも、何も話したくなかった。誰の顔も見たくなかった。
あの大好きな本も、今は開く気にはなれなかった。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次も楽しんでいただけると嬉しいです。




