36 騎士様/静かな罰
トラメンダ:疫病プルラの特効薬
モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草
アンティフラ:プルラの治療薬
ルート:かつて山で暮らしていた『ヤマビト』
エルヴィア:ルートの母、トモロ村出身
エド:ルートの父、『ヤマビト』
ソニタ:ルートの母エルヴィアの伯母、ルートの大伯母
トニオ:ソニタの夫、元鍛冶屋
クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男
エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男
シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主
バルダン:ロッカ家前家令
スタルノ:ロッカ家現家令
バウワー:ロッカ家お抱えの医師
レイ:トモロ村出身の少年
ターシャ:レイの姉
ジーノ:トモロ村出身の青年、ターシャの夫
ヤソン・グラウ:研究所所長、植物学者
シフラ:研究所の副所長、薬師
パッソ:研究所の兵士
カンポ:研究所の兵士
ヴァッレ:研究所の兵士
アルジネ:研究所の兵士
タチアナ:ハーフェン帝国皇女、皇帝の妹
パッソの懸念をよそに、新人の少年レイが問題を起こすことはなかった。
レイはひと月の間、真面目によく働いた。モンテグラシスのことについてはまだ詳しく伝えていないが、自然に察しているものもあるらしく、余計な詮索をすることもなかった。
レイが長く勤めそうだとわかり、ソニタは、ルートに年の近い友人ができるのかと喜んだ。しかし、レイのルートに対する態度はとても友人と言えるものではなく、あまりにも丁寧すぎた。
ルートは気安く話しかけるのに、レイはあくまで下の者としての態度を崩さない。距離をとり、必要以上に話しかけることもない。しかし、ルートにいったん呼ばれたら、何を押しても馳せ参じ、その頼みを叶えた。
結果、レイはルートの専属従者のようになった。
「まるで、姫君に仕える騎士様だな」
シフラがからかうように言うと、レイは涼しい顔で、「俺はただの下男です」と答えていた。
ルートが倒れた日から、レイは仕事以外で山に行くことはなかった。夜は部屋に戻ってくると、明日の準備をしてさっさと寝てしまう。四人の兵士たちは、レイが寝床をそっと抜け、足音を忍ばせて部屋を出ようとするのではないかと、毎夜注意を払っていたが、レイは静かに寝息を立てているだけで、すべては杞憂に終わった。
「まあ、一応大丈夫ってことですかね」
「今のところ、追い出す理由もないからなあ」
アルジネの問いに、パッソは首を傾げながら答えた。
レイの禁欲的な態度は、パッソにとって予想外であった。目が悪いわけでもなし、若い少年がルートとあれだけ近くにいて、あんなにも禁欲的な態度をとれるものだろうか。
ただ、とにかく人手が増え、研究所としては非常に助かっている。面倒事がないのならば、レイにはこのまま居続けてもらいたいのだ。そうすれば、パッソたち兵士の、本来の役割である警備に人手が割ける。
「やっぱり、副所長の言うとおり、大人の女が好きなのかねえ」
「知るか、そんなの」
ヴァッレが言うと、カンポが口を尖らせて言った。カンポはこの間、妻と子に会いに行ってきたばっかりなので、くるくるとせわしげに指輪を回している。ヴァッレが肩をすくめた。
アルジネが、呑気な調子で話に加わる。
「仕事がめちゃくちゃ好きとか。所長みたいに」
「そっちのほうがよくわかる。あいつはよく働く」
カンポが頷いた。ヴァッレは、人の良さそうな笑みを浮かべる。
「そうか。じゃあ女の人が好きだとかじゃなくて、ただ真面目な子なのかもね」
「変わり者ではあるけどな」
仲間の雑談を聞きながら、このまま何事もなく日々が過ぎていけばいい、とパッソは思う。この研究所の中は時間が止まったように、平和な時間が流れている。しかし、ここに来てトニオがいなくなり、レイという新しい人間が増えた。これから先、変化がないなんてことがあるだろうか。
いや、変化はいつか訪れるものだ。それは避けられない。
パッソは、日に焼けて背の高い、レイの姿を思い浮かべた。
――そのときは、あの少年がルートの助けになってくれるように願うまでだな。
パッソは静かに、ゆっくりと息を吐いた。
◆
「レイ、新しい仕事はどう?」
姉のターシャは宿屋で働いていたが、昨年幼なじみのジーノと結婚した。今はムランの街の端に小さな家を借り、二人で住んでいる。靴職人として独立したジーノを支えながら、今も時々宿屋の手伝いに行っているようだ。
レイは、テーブルの向かいに座った姉の顔をちらりと見ると、スープを一口すすった。
「悪くないよ。こうやって休みももらえてるし」
「そうね。それに、前より顔色もいいみたい。今はどんな仕事をしているの?」
「まあ、前とそんなに変わらないよ。焚き付けを集めたり、薪を割ったり」
「ふうん、領主様のお仕事なのよね。他にはどんな人がいるの?」
レイの脳裏に、明るいブラウンの髪がよぎる。
「……ごめん、あんまり答えられないんだ」
「ああ、それはそうよね」
ターシャはそれ以上聞いてくることはなかった。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
レイはスープの皿を持つと、台所へと持っていった。洗おうとすると、後ろからターシャが声をかけた。
「後でまとめてやるから、置いといて。それより、こっちへいらっしゃい」
ターシャは薬瓶を持ってくると、テーブルに置いた。レイは黙って椅子に座り、ターシャに背を向けた。
ターシャがレイの上着をそっとめくった。
「あら」
ターシャが驚いた声をあげた。
「新しい傷……ないのね」
「うん、大丈夫だろ」
「忙しいの?」
「そうじゃないよ。もうやめようと思って」
「まあ、え、いいの?」
ターシャは目を丸くし、レイの顔を覗き込んだ。レイは思わずふふっと笑いをこぼした。
「なんだよ、さんざんやめろって言ってたくせにさ」
「そりゃそうだけど。レイったら、いくら言ったってやめなかったじゃないの」
戸惑いはまだ顔に浮かんでいたが、ターシャも笑った。
「いいんだよ。もう」
「そう。でもよかったわ」
ターシャの目に、うっすらと涙が浮かんだ。姉には昔から心配をかけている。申し訳なさで胸がちりっと痛んだ。
レイは、先日ルートと交わした会話を思い出した。
「レイって、どうしてあんなことをしていたの?」
台所の裏でひとり薪を割っていると、ルートがやってきた。まわりを確認し、声をひそめてレイに話しかけてきた。
「あんなこと、ですか?」
「山でだよ。僕が倒れた日」
「ああ……」
あの位置に倒れていたのだから、当然、見ていてもおかしくはない。レイは自分の浅はかさを悔いた。
「もしかして、あれで驚かせてしまいましたか」
「いや、その……」
ルートは目を伏せた。髪と同じ色の睫毛が、陽の光をきらりとはじく。詳しくは知らないが、ルートが突如倒れたり、研究所から出ようとしないのには、何か理由があるらしい。
「申し訳ありませんでした」
レイは深々と頭を下げた。すると、「違うんだ」とルートの声が降ってきた。頭を上げると、ルートの深緑の瞳にじっと見据えられた。
「身体を傷つけることなんて、やめてほしいんだ」
「つらいですか」
「つらいよ。当たり前でしょ、仲間だもの……」
ルートは眉をひそめ、にらむような目つきになった。怒っているのかと思ったが、ルートの息はだんだんと荒くなり、身体は細かく震えだしていた。顔も、青ざめつつあった。
「ごめん、ちょっと……」
ルートは腕を抱え、その場にしゃがみこんだ。レイはそばに駆け寄り、声をかけた。
「息をしてください。ゆっくりと」
「ああ……」
ルートのさざ波のような肩の動きが、しだいにゆっくりと静かになったとき、レイは言った。
「もう、いたしません」
ルートはまだ声が出ないようだったが、レイの顔を見て、強張った笑顔を作った。
レイには、それでじゅうぶんだった。
――もう、必要ないからな。
あの人を踏み台にして生きてきた自分には、罰が必要だ。しかし、打つのをやめたとて、罰は続いている。
美しい人の見る先は、自分などとは到底比べようもない、高貴な人だった。どんなに尽くそうとも、万が一にもこちらに向くことはないのだと、そばにいればいるほど身に染みて感じられる。
それで、いいのだ。
生きている限り続くこの罰は、自分だけのものなのだから。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。これから「変化」が始まっていきます。不定期更新にはなりますが、引き続きおつきあいいただければ幸いです。




