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二つの瓶  作者: 梨花むす
第二部
32/41

32 山の中

ラメンダ:疫病プルラの特効薬

モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草

アンティフラ:プルラの治療薬


ルート:かつて山で暮らしていた『ヤマビト』


エルヴィア:ルートの母、トモロ村出身

エド:ルートの父、『ヤマビト』


ソニタ:ルートの母エルヴィアの伯母、ルートの大伯母

トニオ:ソニタの夫、元鍛冶屋


クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男

エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男

シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主

バルダン:ロッカ家家令


レイ:トモロ村出身の少年


ヤソン・グラウ:研究所所長、植物学者

シフラ:研究所の副所長、薬師

パッソ:研究所の兵士

カンポ:研究所の兵士

ヴァッレ:研究所の兵士

アルジネ:研究所の兵士

 ――遅くなっちゃったな。


 薄暗い山道を歩きながら、ルートはいつもの川へと急いでいた。久しぶりにクラレオと会って、ずいぶんと話がはずんでしまった。その後、部屋にやってきたアルジネを見送ったら、こんな時間になってしまっていたのだ。


 山に慣れたルートは、夜の山道をある程度は歩くことができる。それでも、あまり遅くなればみんなが心配するだろう。なんといっても、今日はクラレオがいるのだ。研究所は警戒を強くしている。

 

 みんなと同じように研究所の風呂に入ればいいのだが、ルートは、冬以外はあまり風呂を使わない。今のような春の気温であれば、川で水浴びがしたい。肌に時々蘇る、粘液のようないやな思い出を、きりりとした冷たい水が洗い流してくれるような気がするからだ。


 ――あれ?


 川の近くまで来ると、水の流れるさらさらという音に混ざって、妙な音が聞こえた。細いが、鋭い。獣の足音なら、襲われないように気をつけなくてはならない。

 ルートは木陰に身を寄せた。そのまま気配を殺し、周囲をうかがう。音は一定のリズムを刻み続けており、ルートのほうに近づいてくる様子はなかった。


 ――僕を狙っているわけではなさそうだな。


 音は道の先から聞こえているようだった。それはまさに、ルートの目指す川のほうだ。ここまで来ると、警戒心よりは年相応の好奇心が勝った。ルートは足音を立てないようにしながら、そうっと音のするほうへと向かった。


 ぱしん、ぱしん。


 鋭い音は鳴り続けている。聞けば聞くほど、妙な音だった。ルートは川の近くまで来ると、岩場の陰に身を隠して、音の出る方向をうかがった。


 ――え?


 川に降りるまでの岩の一つに、うずくまるような人影があった。音は、その方向から聞こえてくる。目をこらしてよく見ると、男の背中のようだった。

 誰か、水浴びでもしにきたんだろうか?

 しかし、誰なんだろう。山に入るのは兵士たちとルートくらいで、所長も、副所長もここまで入ることはない。ましてや、水浴びするなど聞いたことがない。若いアルジネが、かつて面白がって水浴びに付き合ってくれたことはあるが、さっき会ったときは風呂上がりだったはずだ。


 ――まさか……。


 知らない人間が、いる? 

 ルートの背中に冷たいものが走る。ここに、研究所以外の人間がいるだって?


「いやだ……」

 

 怖気が口から零れる。ルートの頭の中に、押し込めていた記憶が蘇った。薄暗い小屋、ぼろぼろの服、酒臭い息、男の怒鳴り声、殴られた身体の痛み、体を這い回る気持ちの悪い感覚。

 息が、苦しい。

 自分の呼吸が浅くなるのが分かる。目の前が、暗くなっていく。


 ルートは倒れないように、岩に手をつき、体を支えた。そのとき、風を切るような音がした。


 ひゅっ、ばしん。


 ルートは息を呑んだ。男の手には、腕の長さくらいの細枝が握られていた。

 男は、それを自分の背に、思い切り振り下ろしているのだった。


 ひゅっ、ばしん。ひゅっ、ばしん。


 男の、傷だらけの背中が目に入った。そこに、枝が容赦なく打ち下ろされていく。男のぼろぼろの背中はそのたびに裂け、黒い血が幾筋も垂れていく。

 ルートの目の前が、ぐらりと揺れた。

 倒れたバルダン。その身体の下から染みのように広がっていく、赤黒い色。

 

 ――いけない、このままでは……。


 そう思ったのを最後に、ルートはその場に崩れ落ちた。



 ◆



 パッソが風呂から戻っても、レイは部屋に帰ってきていなかった。さすがに心配になり、山を探しに行こうとアルジネが靴の紐を締め直したとき、扉の外から若い声がした。


「この方が、山で倒れていたんです」


 レイはうやうやしいまでの丁寧さで、ルートをその腕に抱えていた。

 

 ――まずいな。


 パッソは、心の中で舌打ちをした。思ったよりも早く、レイは見てしまったのだ。

 気を失ったルートのしどけなく無防備な姿が、レイの腕の中であらわになってしまっていた。長い睫毛は伏せられ、細い腕は下へだらりと垂れ、水浴びをする予定だったからか、眼鏡も帽子もつけていない。薄物一枚の上半身は、華奢な身体の線を透けさせていた。

 ルートが水浴びに行くことを予想できていなかったのが悔やまれる。山で何があったのかわからないが、とにかく所長に報告すべき事態であった。おまけに今日はクラレオもいるのだ。パッソが指示を出す前に、ヴァッレが部屋を出て走って行った。


「とりあえず寝かせよう」

 

 そう言うと、パッソはレイにルートを抱えさせたまま、ルートの部屋へと運ばせた。ベッドに乗せるときまで、レイの手つきはひどく丁寧だった。騒ぎを聞きつけてやってきたソニタが、ルートの閉じた瞳と青白い顔色を見て、慌てて湯を取りに行った。


 パッソは、横目でちらりとレイを見た。こいつは今、何を思っているのだろうか。予想に反し、レイの表情は硬いままだったが、その目はずっとルートをとらえていた。

 パッソたちは基本、ルートに対してよこしまな気持ちを抱くことはない。クラレオの顔がちらつくこともあるし、何よりも自分たちにとっては、ルートは山の中で見つけたときからいつまでも、保護すべき子どもにすぎなかった。しかし、そんな自分たちでも気を抜くとぐらりと「おかしな」気分になりそうなことがある。そんな危ういルートの姿が、新参者の少年の前で、今まさに剥き出しになっている。


 パッソが毛布をかけてやると、ルートがうっすらと目を開けた。瞼の間から除く深緑の瞳がパッソのほうを向くと、後ろに下がったレイが、小さく息を呑む音が聞こえた。


「……パッソさん……?」

「ああ、目が覚めたか」

「僕、確か山に……」

「ここは研究所だ。お前、倒れていたらしいぞ」

「……あ……」


 ルートは、長い睫毛を何度か上下させると、ぱちっと目を開いた。身体を起こそうとするのを、パッソが制止する。


「まだじっとしてろ。そのうちソニタさんや、副所長が来るから、動くのはそれからだ。それに、今日はクラレオ様がいるんだぞ」

「……ごめんなさい」

「謝ることじゃない」


 ルートは素直に布団に潜った。ルートがこんなふうに倒れるのは、一年ぶりくらいだろうか。ここに来たばかりのルートは、何かの拍子にたびたび倒れることがあった。人の出入りが落ち着くにつれ、次第に減ってきていたのに。

 

 報告を受けたらクラレオ様が飛んでくるだろうな、と思いながらルートを見下ろすと、なぜかルートの顔は横を向き、その目は吸い寄せられるように何かを見つめていた。その視線の先には、扉のそばに立つ日に焼けた背の高い少年、レイがいた。

 ルートはレイから目を離さないまま、薄く形のよい唇を開いた。


「……ね、君……」


 レイの身体がぴくりと動いた。レイの目もまた、食い入るようにルートを見つめている。

 

「君、今日来た……レイだよね?」

「はい」


 レイは表情を変えず、声をはずませることもなかった。手を後ろに組んだまま、静かにこくりと頷く。

 

「山の中で……川にいたのは、レイ……?」

「はい」

「……ねえ、あそこには、君だけしかいなかったよね?」


 ルートの質問に、レイはわずかに片眉を上げた。質問の意図を図りかねているらしい。

 

「……ええ。あそこにいたのは俺ひとりです」


 ルートは、ほっと息を吐き、表情をゆるめた。

 

「そうか……。じゃあ、レイが、僕を運んできてくれたの?」

「はい」

「よかった。ありがとう、助かった」


 ルートはレイに向かって、花がほころぶように笑った。

 ああ、もう終わりだ、とパッソは密かに嘆息する。こんなにも無垢で美しい笑顔を見てしまっては、もうレイは正気でいられなくなるだろう。今日の夜にでも、この少年をつまみ出さないといけないかもしれない。

 パッソがアルジネのほうをうかがうと、アルジネも同じ思いを抱いたのか、眉を寄せて苦々しい表情をしていた。

 レイはさすがに一瞬呆けたような顔をしていたが、ほどなく元の厳しい顔に戻り、扉のほうを振り返った。


「……どなたか、来られるようです」


 やがて、扉の外から複数人の足音が響いたかと思うと、扉がノックされた。パッソが返事をすると、まず、心配そうなソニタがそうっと顔を出した。


「ルートの具合はどう?」

「大丈夫ですよ。さっき目を覚まして、今は話せるくらい元気です」

「ああ、よかった」


 ソニタは、心の底から安心したような笑顔を浮かべた。そして、後ろを振り返って言った。


「大丈夫だそうですよ」

「ありがとう。入るよ」


 レイ以外の者は、その声で誰が訪ねてきたかわかった。ルートは慌てて身体を起こし、今度はパッソも止めなかった。


「クラレオ様」


 ルートの声に呼応するように扉が大きく開き、クラレオと、続いてヤソン所長とシフラ副所長が入ってきた。薬学に詳しく、医術の心得もあるシフラは、ルートの主治医のような役割を果たしていた。パッソたちは邪魔にならぬよう、後ろへと下がった。


「大丈夫かい」


 ベッドのそばに立ったクラレオは、穏やかな笑みをルートに向けた。ルートは、ばつが悪そうに目を伏せる。

 

「はい、すみません」

「倒れるのは久々だね……。なにかあったのかい?」

「……いえ、ちょっと……。あの、僕、山に水浴びしに行ってて……」

「おや、まだ水は冷たかったんじゃないか?」


 ルートは下を向いたまま、ふるふると首を振った。

 

「いえ、入る前に倒れてしまったので……。鹿……にちょっと、びっくりしてしまったから」


 ルートの目が、一瞬だけレイのほうをよぎった。なるほど、とパッソは得心した。

 山育ちのルートが、今さら鹿に驚くわけがない。おそらくルートは、人がいないはずの山の中で、不意にレイという”人間”に出会ったのだ。侵入者かもしれないと恐怖したルートは、発作を起こして倒れてしまった。それなら、レイが近くにいたのも頷ける。

 

「……あまり、無理してはいけないよ。問題なさそうでよかったが、一応シフラに診てもらおう」

「はい」


 シフラが近づき、ルートの脈をとる。ルートはもう顔を上げ、ためらいながら、しかしわずかな嬉しさをにじませながら、クラレオの声かけに応えている。

 その様子を確かめると、パッソはそっと兵士たちとレイを促し、部屋を出ていった。

 

ここまでお読みいただいてありがとうございます。次も引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。

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