31 兵士たちの部屋
トラメンダ:疫病プルラの特効薬
モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草
アンティフラ:プルラの治療薬
ルート:かつて山で暮らしていた『ヤマビト』
ソニタ:ルートの母エルヴィアの伯母、ルートの大伯母
トニオ:ソニタの夫、元鍛冶屋
クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男
エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男
シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主
レイ:トモロ村出身の少年
ヤソン・グラウ:研究所所長、植物学者
シフラ:研究所の副所長、薬師
パッソ:研究所の兵士
カンポ:研究所の兵士
ヴァッレ:研究所の兵士
アルジネ:研究所の兵士
「あの若い方は、どういったお役目を?」
一日の仕事を終えた後、今日やって来たばかりの少年に尋ねられて、兵士長のパッソはやや答えに困っていた。この研究所で「若い方」といえば、ルートのことしかあるまい。
レイという少年は悪いやつではなさそうだが、まだ信用に足る人間だとも決まったわけでもない。ルートがヤマビトであり、モンテグラシスに関わりが深く、ロッカ家にとって大変重要な人物であることを、今の段階でべらべらと喋るわけにもいかなかった。
パッソは少し思案した結果、浅い事実だけを答えることにした。
「クラレオ様のお気に入りでね。賢い子だから、ここの仕事を手伝ってもらっているのさ」
なんだか誤解を生むような言い方をしてしまったな、とパッソは思ったが、「そうですか」と少年が納得した様子だったので、それですませることにした。それに、その誤解はかえってルートの身を守るに違いない。遅かれ早かれ、いずれこの少年はルートの真の姿を見ることになるだろうから。
パッソは、自分のかぎ鼻をぽりぽりと掻いた。研究所に詰めている四人の兵士は、ルートを最初に山から助け出した者たちであり、パッソも当然その一人だった。
彼らにとって、ルートは洞窟でひとり飢えと寒さに倒れていた、哀れな子どもである。それに彼らは、敬愛する主人であるクラレオが、ルートを宝物のように大事にしているのを知っている。ルートに対して守ってやりたい気持ちは起きても、いかがわしい気持ちなど起きるわけがなかった。
しかし、レイはどうだろう。普通だと思っていた人間が豹変し、ルートを自分のものにしようとするのを、パッソたちは何度も見てきた。真面目そうなこの少年のそんな姿は見たくないな、とパッソは思った。
「あの、山のほうには、自由に行ってもかまわないのですか」
少年の次の質問は他愛のないものだったから、パッソは少しほっとした。研究所は山のふもとにあり、山の方の石塀には簡単な門が作り付けてある。研究所の人間なら誰でも、焚きつけを集めるためなどで、裏山に入るのはめずらしくなかった。
「それは構わないが、ひとりであまり奥に行くなよ。獣だって出るし、迷われても困る」
「ええ、そんなに奥には行きません。ただ、山の空気が好きなもので」
そういえば、この少年は鍛冶屋の手伝いをしていたのだったな、とパッソは思い出した。鍛冶場では、高温の炎を維持するために大量の薪を必要とする。レイはその薪集めのために、よく山に入っていたのだろう。
レイがここにやってきたのは、亡きトニオの伝手によってであった。人は欲しいが、大々的に募集するわけにもいかずに困っていたとき、トニオが昔の鍛冶屋仲間に頼み、信頼できる人間を探してもらったのだ。トニオは、自分の死期を悟っていたのかもしれない。残念なことに、レイが到着する前にトニオはこの世を去ってしまった。
パッソは、黙々と自分の荷物を整理するレイを見やった。ルートと違い、レイはいわゆる下男なので、個人の部屋は与えられない。しばらくは「不埒者」でないかどうかの監視も兼ねて、パッソたちと同じ部屋で寝泊まりすることとなっていた。
荷物を片付け終えたレイが、ふいと部屋を出ようとしたので、パッソは慌てて声をかけた。
「おいおい、どこに行くんだ」
「ちょっと、山のほうを見てきます」
「え、今から行くのか。もうすぐ暗くなるぞ」
日の長い季節ゆえにまだ外は明るいが、すぐに日没はやってくる。研究所の敷地内は、一通り所長が案内したようだが、まだ慣れていないだろうし、迷うこともあるだろう。
「一緒に行ってやろうか?」とパッソは提案したが、レイは首を振った。
「大丈夫です。遠くには行きませんし、明日からの仕事のために少し見ておきたいだけなので」
なんとなく少年の様子に気圧され、パッソは「……そうか」とだけ返した。それに、別段レイをとどめる理由もないように思われた。とりあえず、今晩のパッソの任務としては、レイが必要以上にルートに近づかなければいいのだった。
「まあ、気をつけてな」
レイは一礼すると、扉からするりと出て行った。
また妙なやつが来たもんだな、とパッソが小首を傾げると、カンポがもう一人の兵士とともに部屋の中に入ってきた。
カンポは出て行ったレイとすれ違ったらしく、
「なんだ、あいつ、所長にでも呼ばれたのか」
と怪訝そうに言ったので、パッソは「いいや」と首を横に振った。
「山を見てくるんだと」
「はあ? 今から? 何考えてるんだあいつ」
「散歩でもしたいのかなあ」
眉をひそめたカンポに対して、のんびりと言ったのは、ヴァッレという兵士である。岩のような体躯に平たい顔を乗せたヴァッレは、性格さながらの温和な笑顔を浮かべていた。
「あの子はここに来るときも、山ばっかり見ていたからねえ。山になにかいい思い出でもあるんじゃないのかい」
「ああ、お前はあいつと一緒に帰ってきたんだものな」
ふだんは研究所で過ごしているパッソたちだが、時々用事や休暇を兼ねて、順繰りにムランの街に行くことがある。今回はヴァッレがいったん城に戻っており、クラレオの一行とともに研究所に戻ってきたのだった。
「まあまあ、とりあえず真面目そうな子じゃないか。多少山に行くくらいは許してやろうよ」
「ふん、本当にまともなやつならな」
「ソニタさんもいい子だと言ってたぞ」
「あの人にかかったら、たいていの人間はいいやつだろうが」
カンポの口調はきついものだったが、ルートを心配してのことであることがわかっているので、パッソはただ苦笑した。
「そういや、あいつは今日一日所長と一緒だったんだろ。所長は何か言ってたか?」
パッソの問いに、カンポは手をひらひらと振った。
「無駄だよ。所長はこういうことには面倒くさがりだろう。明日からの仕事のことしか考えてないよ」
「ま、そうか。副所長殿は?」
「あの人はもっと興味ないだろ。面白がって見てただけさ」
「薬と酒と女にしか興味ないからな」
今度は、三人ともが顔を見合わせて苦笑いをした。副所長のシフラは四十代半ばの陽気な男で、休暇をもらうと女性に会うため街に出る。しかし、お相手の女性は休暇のたびに違っているともっぱらの噂であった。
「色男の副所長の話はもういいが、うちの色男はどうした」
「アルジネか? あいつは湯を使ってるよ」
アルジネは最も年若い兵士で、クラレオやルートほどではないが、そこそこに整った顔立ちをした青年である。さっぱりとした性格と愛嬌のある笑顔を持ち、城を離れるときは少なからぬ数の女性たちに残念がられていた。
「終わったら、ルートの部屋を回ってくるって」
「じゃあ、そろそろ帰ってくるな」
そう言っていると、ちょうどアルジネが部屋に入ってきた。さっぱりとした表情のアルジネは、濡れて色の濃くなった赤毛を振り、いくつかの水滴をまわりに飛ばした。
「冷てえな」とカンポが顔をしかめたが、アルジネはあまり気にした様子もなく、にこにこと明るい声を出した。
「ただいま戻りましたあ。あれ、新人は?」
「あいつは外に出たぞ。山を見てくるらしい」
「ええ? 今から山ですか? そりゃあ、だいぶん面白いやつだなあ」
アルジネはさわやかに笑い、また頭を振った。隣でカンポはさらに顔をしかめる。見かねたヴァッレがアルジネに布を渡しながら、パッソに尋ねた。
「しかし、一人で大丈夫なんですか? 俺、様子見てきましょうか」
「まあ、山には慣れているみたいだし、そんなに遠くへは行かないだろ。それよりアルジネ、ルートは変わりなかったか」
アルジネは頭を拭きながら、にこやかに答えた。
「ええ、クラレオ様と久しぶりに会ったからですかね、ご機嫌でしたよ」
「ああ、そりゃよかった」
――若殿も、ご機嫌だろうて。
ルートがこの研究所に住むようになってから、クラレオは月に数度は必ずここを訪れていた。時には日帰りでも顔を出していたものだ。しかし、ここしばらくは来訪が途絶えていた。
――まあ、仕方あるまい。
今年になって、当主であるシスモンド・ロッカ侯爵が病に倒れた。回復はしたものの、体は弱り、左半身にはやや麻痺が残っている。
クラレオは二十六歳。領主の座を継ぐにはじゅうぶんな年齢だ。今は父シスモンドを支えなければならず、ロッカ家の政務に追われているのだろう。今日こうして研究所を訪れることができたのは、ようやく時間がとれたというところか。
パッソは先ほど見た、ルートの嬉しそうな顔を思い出した。自分たちが山から助け出した少年は、この五年を平穏に暮らすことができた。しかし、これからはどうなのか。
パッソは窓に目をやった。外は夕闇がさらに濃くなり、夜の気配が近づいてきていた。
「パッソさん」
気がつけば、アルジネがパッソの顔を覗き込んでいた。
「やっぱりレイのことが心配なんですか? まあ、先に風呂行ってきてくださいよ。パッソさんが戻ってくるまでに帰ってこなかったら、俺が様子を見てきますから」
「……ああ、頼む」
アルジネは明るく笑う。パッソもつられてふっと笑った。まあ、自分が気を揉んでもいたしかたないことだ。何かあれば、今まで通り都度対処するしかない。
パッソは着替えを持ち、風呂へと向かった。
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