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二つの瓶  作者: 梨花むす
第二部
30/41

30 変装

トラメンダ:疫病プルラの特効薬

モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草

アンティフラ:プルラの治療薬


ルート:かつて山で暮らしていた『ヤマビト』

ソニタ:エルヴィアの伯母、ルートの大伯母

トニオ:ソニタの夫、元鍛冶屋


クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男

エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男

シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主

バルダン:ロッカ家家令


レイ:トモロ村出身の少年


ヤソン・グラウ:研究所所長、植物学者

シフラ:研究所の副所長、薬師

「あらあら、もうお着きなの?」


 兵士の知らせに、朝食に使った皿を洗いながらソニタは言った。ソニタは、同じく隣で皿洗いをしているルートに顔を向けた。


「ルート、あなたはクラレオ様のお出迎えに行っていいわよ。ここは私がやっておくわ」


 ルートは首を振った。

 

「ううん、だいじょうぶ。今日は新しい人が来るから、僕は準備をしないといけないし」

「……そうだったわね」


 ソニタは眉を少しだけ下げた。

 

「じゃあ、申し訳ないけど、私が先に行こうかしら」

「うん。あと少しだし、残りは僕がやっとくよ」

「お願いするわね」


 手を拭いてエプロンを外し、ルートの頬に軽くキスをすると、ソニタは台所からパタパタと出て行った。ルートは手早く食器を片付けると、自分の部屋へと向かった。

 

 部屋までの廊下を歩きながら、ルートはこっそり小さなため息をついた。これからする身支度のことを考えると、少しばかりゆううつな気持ちにならざるをえなかった。

 ルートは部屋に戻ると、またひとつため息をついてから衣装ダンスを開けた。のろのろと袖の長い上着を取り出し、腕を通す。髪をまとめ、帽子をかぶる。最後に、深緑色にきらめく瞳を隠すように、銀色の縁がついた眼鏡をかけた。

 この格好は、新人を迎えるときの決まりだった。ルートは鏡で自分の姿を確かめながら、三回目のため息をついた。


 ――これは、しかたないことなんだから。


 知らない人の前では顔や肌を隠す、一人で研究所の外に出ない、という決まりは、五年前にクラレオが作った。クラレオは決して押しつけようとはしなかったが、ルートは抵抗せず受け入れた。

 五年前の惨劇を繰り返してはならない。ルート自身も二度と危ない目には遭いたくなかったし、自分のせいで他人に危害が及ぶことは、より許しがたかった。


 ――また、バルダン様のようなことがあったら……。

 

 悲惨な最期を迎えたロッカ家の家令、バルダンのことを思い出すと、ルートの胸はきりきりと痛む。優しかった老家令は、ルートをかばった結果、暴漢のナイフに刺されて死んだ。横たわるバルダンの下に広がる血だまりを、ルートは一日だって忘れたことはない。

 だからこそ、ルートはこの五年間というもの、山を除いては、ほとんど研究所の外に出たことはなかった。頑丈な石壁の塀は、周囲の景色を隠してしまう一方で、守られている安心感をルートに与えてくれた。

 クラレオが用意してくれたこの建物の中で決まりを守っていれば、ルートは安全な五年間を過ごすことができた。だから、少々のきゅうくつさなどは我慢すべきなのだ。それに、外に出たりすれば、とんでもない人物に出くわすことだってある。


 ――あの人には二度と会いたくない、声も聞きたくない……!


 エウリコ・ロッカ。クラレオの弟であり、ロッカ家の次男だ。


 五年前に、子どもだったルートを襲った人物である。ルートは、そっと自分の胸元に手を当てた。

 そのときはわけがわからなかったが、今となっては、名前を聞くだけで、蛇が身体を這い回るような感触が蘇る。それはたとえようもなく不快で、皮膚をむしり取ってしまいたいような気持ちになる。

 ルートが研究所に移ったのと同じ時期に、エウリコは遠く皇都へ修行に出されたと聞いた。しかし、それで完全に安心できるほど、ルートにつけられた傷は浅くなかった。最後に城で聞いた怒号も、まだまだ耳から離れてくれない。なぜかはわからないが、エウリコという人は、よほどルートのことを痛めつけたいらしいのだ。


 ルートが部屋から出ようとしたとき、外から複数の人の声が聞こえてきた。ルートは、はっと顔を上げた。

 

 ――クラレオ様が来られたんだ。


 ルートは慌てて扉を開け、玄関へと急いだ。小走りで廊下を進みながら、しずんでいた心がだんだんと沸き立ってくるのを感じた。なんといっても、クラレオが研究所にやってくるのは一カ月ぶりなのだ。

 クラレオが住むムランの街から研究所までは、馬を使えばさほど遠くはない。これまでクラレオは、月に何度かは馬を走らせて研究所にやってきていたのだが、最近は忙しいらしく、来訪が途絶えていた。


 ルートにとって、クラレオは太陽のような存在であった。クラレオはルートの生命を救い、仕事を与え、住むところを与え、ソニタたちにも会わせてくれた、大恩ある人物だった。そして、ルートにとっての憧れでもあった。

 誰だって、クラレオには憧れざるをえない、とルートは思う。たくましさと美しさがほどよく調和した容姿もさることながら、人格は高潔で、ルートたちのような平民にも優しく接し、兵士や使用人たちからの評判も高い。次期領主として申し分がないという噂は、壁の中のルートの耳にも届くくらいであった。




 

 ルートが玄関につくと、開かれた扉からクラレオが入ってくるところだった。五年前のルートなら、飛び跳ねてその姿をいち早くとらえようとしていたかもしれない。しかし、十七歳になったルートは、黙って列に並ぶ分別を身につけていた。


「出迎えご苦労さまだね。皆は息災かな」


 クラレオがよく通る声で言うと、研究所がぴりっとした緊張感に包まれた。所長のヤソンが頭を下げ、皆もそれにならった。


「頭を上げてくれ。今日は、新しい仲間を連れてきたのだ。彼に挨拶をしてもらおう」


 クラレオが目配せをすると、兵士が後ろから一人の男を連れてきた。その人物がクラレオの隣に並ぶと、研究所の人々ははっと息を呑んだ。出てきたのは、ルートと同じくらいの年頃の少年だったからだ。


「……レイです。よろしくお願いします」

 

 少年はぺこりと頭を下げ、すぐに後ろに下がった。その謙虚な態度は、研究所の人々から概ね好意的に迎えられたようだった。少年が頭を上げると、よく陽に灼けた顔が見え、背の高さが目立った。

 

 ――へえ……。


 ルートも驚き、少しばかり動揺していた。今までに研究所にやって来た人物は、たいていルートより十歳以上も年上だったからだ。同年代の少年と一緒に過ごすのは、ルートにとって初めての経験だった。

 ルートは興味を持って、レイという名の少年をじっと眺めていたが、


「ルート」


 クラレオに声をかけられ、顔を上げた。自分を見下ろす優しい笑顔に、ルートも自然と笑顔になった。


「レイは、ルートと同じくらいの年なんだ。仲良くしてやってくれ」

「はい!」


 ルートは元気よく答えた。クラレオに頼まれたなら、ルートはどんなことでも応えるつもりであった。声が大きすぎたのか、レイがぴくりと肩を動かしたが、何も言わず再び頭を下げた。

 クラレオは満足そうに頷くと、ヤソンの方へと向き直り、そのままいくつかの報告を受けた。報告が終わると、クラレオは言った。


「じゃあ、ヤソン。レイのことはまかせるよ。皆も仕事に戻してくれ」

「承知しました」

「ああ、ルートはこちらへ」


 クラレオは優美な所作でルートに近づくと、その手を取った。クラレオの温かく大きな手の感覚は、ルートの胸をあたたかいもので満たした。


「久しぶりだからね。部屋でゆっくり話を聞かせておくれ」

「はい、クラレオ様」


 研究所には立派な応接間があるのだが、クラレオはルートの部屋で話をするのを好んだ。 ヤソンがレイのほうへ向かい、皆も解散していく中、ルートとクラレオは連れだって部屋へと向かった。


ここまでお読みいただいてありがとうございます。引き続き楽しんでいただけると嬉しいです。

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