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二つの瓶  作者: 梨花むす
第二部
29/41

29 少年

トラメンダ:疫病プルラの特効薬

モンテグラシス(=八花草):トラメンダの原料となる薬草

アンティフラ:プルラの治療薬


ルート:『かつて山で暮らしていた『ヤマビト』

ソニタ:エルヴィアの伯母、ルートの大伯母

トニオ:ソニタの夫、元鍛冶屋


クラレオ・ロッカ:ロッカ侯爵家嫡男

エウリコ・ロッカ:ロッカ家次男

シスモンド・ロッカ:侯爵、ロッカ家当主

バルダン:ロッカ家家令


レイ:トモロ村出身の少年

 クラレオ・ロッカは、馬上で頭を悩ませていた。


 研究所に行くための途上である。本当は馬を走らせたいのだが、今日は歩く者がいるので、馬もゆっくりとした歩みにならざるを得ない。

 クラレオは、兵士たちとともに歩く背の高い少年を、肩越しにちらりと見やった。その少年は、新しく研究所に加わる予定の人間であった。


 ――……この者は、勤め続けることができるのだろうか。


 少年の前にも、数名の人間を研究所で働かせようとしたことがあるが、いずれも続かなかった。しかし、実のところクラレオが心配しているのは、研究所が再び人手不足になることではない。そして、その人手不足がモンテグラシスの研究に支障をきたすことでもない。

 彼にとっては、研究所に住むたった一人の身の安全が、なにより大事なのだった。


 ――ルートは、元気にしているだろうか……。


 ルートがロッカ家の居城を出てから、五年の歳月が経った。愛らしく華奢な身体をしていた子どもは、今では輝くばかりに美しい少年へと成長し、かつてその身にひどい暴力を受けたことが信じられないほどだった。

 一方、ルートが心に負った傷は治らなかった。エウリコに怯えて城を飛び出して以来、ルートは城に近づくことすらできなくなった。近づけばバルダンの死の光景やエウリコの怒声が蘇り、震えて動けなくなってしまうのだった。

 ルートは申し訳ないと泣いたが、誰もがルートのせいではないとわかっていた。ルートを利用しようする者たちの勝手な思惑が交錯し、この結果を生んだのだ。そして、その加害者に自分も含まれることを、クラレオは否定できなかった。


 ――私ができる全てを賭して、ルートを守る……


 それは、先月亡くなったルートの大叔父、トニオとの約束だった。トニオは善良だが豪毅な男で、自分の孫のようにルートを愛し、守ろうとした。


「領主様が立派な方だっていうのは、俺みたいなものも承知してます。ルートが自分から領主様方に協力したいと言うなら、止める理由はありません。ただ、ルートを苦しめるようなことには、とうてい賛成できませんな」


 五年前、ルートがトニオとソニタの家に逃げ帰った日、家を訪れたクラレオたちの前で、物怖じもせずトニオは言った。鍛冶に使うハンマーを肩にかついだトニオが、ロッカ家の嫡男を前にしてもあまりに不遜な態度であったため、トニオがいつかクラレオに襲いかかるのではないかと、後ろの兵士たちは気が気でなかったらしい。


 トニオの怒りはもっともで、怒りの大きさに比べれば、その態度は丁寧なほうといえた。 クラレオは、その後何度もトニオ夫婦の家を訪れた。ルートはクラレオを喜んで迎えてくれたが、城の話をしただけで顔色を変えるようになってしまっていた。

 バルダンの事件後、トニオとソニタの献身でいったん回復しかけた心は、エウリコの襲来でその傷をえぐられ、恐怖を植えつけられた。ルートにとって、ロッカ家の城はもはや安心できる場所にはなりえなかった。


 しかし、トニオ夫婦の家が安全とも言い切れない。ロッカ領内にモンテグラシスを狙う輩がいることは確かであり、モンテグラシスに詳しく、それに関わりの深いルートも、いつまた狙われるかわからなかった。


「老い先短い身だ。ルートが安全なところなら、俺たちはどこへでも行きますよ」


 クラレオはシスモンドの許可を得て、ロッカ家の狩猟小屋をモンテグラシスの研究所とするために改築した。山のふもとにあるその建物を、要塞のようにぐるりと堅牢な石塀で囲み、頑丈な門の扉が閉ざされれば、破城槌でもなければ侵入できないようにした。

 建物の中は快適に生活できるよう整え、少数ではあるが兵士を常駐させた。そこまでしてから、クラレオはルートとトニオ夫婦に研究所に移ってもらうよう頼んだ。


「俺たちは、俺たちができることをやります。足りないところは、クラレオ様に頼みます」


 研究所への引っ越しがすんだとき、トニオは初めてそれまでの渋面を崩し、真剣な顔でクラレオに言った。そのとき、クラレオはやっとトニオの信頼をいくばくか得られたのを感じた。


 ――トニオの代わりは、そういない。


 亡くなったトニオほど、ルートを純粋に愛し、献身的に守れる者はそういないだろう。何と言ってもトニオはルートの家族で、常にそばにいることができた。それに比べ、次期領主たるクラレオは、なんとも自由のきかない身だった。


 研究所で働くのは、モンテグラシスの秘密を守れる者でなくてはならない。新しく研究所に雇い入れることにしたこの少年も、口が固く、よく働くことは周囲の折り紙付きだった。彼は、ロッカ家が行う『試験』にも難なく合格した。もともとは鍛冶屋の下働きだったらしいが、薪を集めるために山に入ることも多く、山にも慣れていた。その点も、山に入ることの多い研究所にとっては好都合だった。


 やっと見つかった人材であるのだが、クラレオはまだ喜べなかった。


 一番の問題は、ルートの容姿だった。『試験』に合格しても、いざ研究所にやってくると、ルートを一目見て虜になってしまう者が後を絶たなかった。。男でも女でもそれは同じで、ルートの人間離れした美貌は、人々を知らず知らずのうちに引き寄せた。――まるで、灯火に誘われる羽虫のように。

 ルートに見蕩れてぼんやりしてしまうくらいならまだいい。よこしまな考えを抱き、ひそかにルートの部屋に忍び込もうとした者も少なくなかった。

 そういった不埒者は、部屋に入る前にトニオや兵士たちに首根っこをつかまれ、夜中だろうと極寒の季節だろうと、門の外に放り出されることとなっていた。それは、ルート自身には教えていない、まわりの者たちで決めたルールであった。


 この少年が、不埒者たちの仲間入りをしないとは言えない。これまでの経験から、そういった輩はだいたいひと月で正体を現した。それまでは、兵士たちにそれとなく見張らせておくしかあるまい。


「まだ歩けるか。研究所はもうすぐだが」

「大丈夫です」


 隣を歩く兵士が気遣って声をかけたが、少年は簡単な答えだけを返し、黙々と歩き続けた。


 ――……少し変わっている、との評判だったな。


 クラレオは、もう一度少年を見やった。少年はどこか超然とした感じで、大人の兵士たちに囲まれている緊張感も、新しい職場への不安も見て取れない。ルートと同じような年齢だというが、よく陽に焼け、背は隣の兵士よりも高く、肩幅も広かった。ただ、体つきについては、少年らしい肉の薄さがまだ残っていた。

 クラレオは、少年が変わり者でも構わなかった。問題は、信頼できる者かどうかであった。


「見えたぞ」


 前列の兵士が叫んだ。クラレオたちの視界に研究所の石塀が入り、兵士の一人がクラレオの到着を告げるため、馬の足を速めて研究所へと駆けていった。

 少年も顔を上げ、隣の兵士が指さす方を向いた。面倒見のよさそうな兵士は、これから新しい職場に入る年若い働き手を思いやり、激励の言葉をかけていた。少年は軽く頷きながら神妙に兵士の言葉を聞いていたが、やがて前を向いたまま黙ってしまった。


 ――おや。


 兵士は少年の様子を緊張の表れととり、気を遣って話しかけるのをやめたようだが、クラレオには少しばかり妙に思えた。

 少年の目は、研究所というよりむしろ背後の山の連なりへと向いており、その瞳は、まるで恍惚としているように見えたのである。


レイはすくすくと成長して、185cmくらいになっているイメージです。

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