第4話 公爵(1)
「ええ。間違いなく、アーケン公爵からのものです」
招待状を開けた翌日。
執事長を通して訪ねたシルヴェロス男爵は、封筒と手紙を何度も確認したあと、きっぱりとそう答えた。
「誰かが公爵を騙っているのではないかと疑う気持ちは分かる。だが、貴族の封印印章は簡単に偽造できるようなものではない。マナを込めた道具で押すため、固有の痕跡が残るのだ。だから、わざわざ偽造しようとする馬鹿もほとんどいない」
外から見れば、ただ封蝋に押された印にしか見えない。
だがどうやら、貴族の手紙には俺が思っていた以上にしっかりとしたセキュリティが施されているらしい。
「それに、別の貴族が公爵を装っている可能性もない。この封印から感じるマナは、私が知っているアーケン公爵のものと一致している」
何それ。
マナにも指紋みたいなものがあるのか?
やっぱりファンタジー世界ってすごい。
そこまで断言されてしまえば、魔法のことなど何も分からない俺としては頷くしかない。
そして、残っていた疑問を口にした。
「ええと……男爵様は、公爵に私の本を送ったんですか?」
もし男爵が公爵にも一冊送った覚えがあるなら、そこから手紙が届いたとしても不思議ではない。
だが男爵は、自分にもなぜ届いたのか分からないと言わんばかりに、封筒をひっくり返して眺めた。
「いや。私は公爵には送っていない。おそらく別の経路で本を手に入れ、それを配ったのが私だと知って、こちらへ送ってきたのだろう」
……頭痛ぇ。
本当に頭がおかしくなりそうだ。
文字の勉強のために書き、魂の本名まで刻み込んだあの練習作が、たった五十人程度で止まるどころか、それ以上に広がっている。
その証拠を、今まさに突きつけられている。
しかも。
よりによって公爵だ。
王族を除けば、この国の身分制度の頂点に位置する存在。
当然、俺は会ったこともなければ、どんな人物なのか詳しく聞いたこともない。
だが常識的に考えれば、そんな人間がどれほどの権力を持っているかくらいは想像できる。
俺みたいな平民なんて、指一本で消されてもおかしくない。
何より怖いのは、公爵から届いた手紙の文面だった。
「あの、男爵様。だったら、どうして公爵は私にあんなに丁寧な手紙を書いたんでしょう? 私の身分を知らないとしても、公爵ほどの方なら、普通はもう少し……その……」
「高圧的でもおかしくない、と?」
俺が言いにくそうにしていた言葉を、男爵が代わりに口にした。
「まあ、理由はいくつか考えられる。最近は貴族の間でも、初対面の相手をいきなり格下として扱うのは洗練されていない、という風潮があるしな。それに、成功した芸術家ともなれば、爵位を超える名声を得ることもある。だが、それ以上に分かりやすい理由があるだろう?」
男爵は一度言葉を切り、それから続けた。
「公爵は、本気で君に会いたいのだ。会いたい相手を招くのに礼を尽くす。そんなものはどこでも同じだろう」
やっぱりか。
少なくとも、暇潰し程度の気持ちで俺を呼び出したわけではない。
本当に俺と直接会いたい。
そういう意思表示なのは間違いなさそうだった。
俺が書いたものが、ただ文字の勉強用の練習作だとも知らずに。
「それに、アーケン公爵は昔から文化人との交流が広いことで有名だ。芸術家を屋敷へ招き、ただ話をするためだけに時間を設けた、なんて話も何度となく聞いている。だから、そこまで心配する必要はない」
ほら。
そんな人なら、もう間違いないじゃん。
「疑うより、誇りに思えばいい。私の知る公爵は、体裁のためだけに気に入らない人間を呼びつけるような方ではない。正直、私も驚いたよ。まさかアーケン公爵が、これほど早く君に興味を示すとは思わなかった」
男爵は、まるで自分が褒められたかのように満足げな顔で手紙を眺めている。
その顔を見るほどに、俺の胃が痛くなった。
『マジで詰んだ』
正直なところ。
とんでもなく肝の据わった詐欺師が、公爵を騙っているだけであってほしかった。
だがこうなれば、文化にめちゃくちゃ詳しい公爵のもとへ行くしかない。
相手の身分を考えても、行かないという選択肢はないだろう。
本について話したい?
俺、話すことなんてないんですけど。
あれ、ただの練習作なんですけど。
クソみたいな下書きなんですけど!
しかも、公爵が住んでいるのは王都ロダール。
確か以前、グレイルンがここから馬車で丸三日かかると言っていた気がする。
仮に旅費の問題をどうにかしたとしても。
王都での宿泊費。
公爵に会うための服。
それに、俺はまともな礼儀作法なんて何一つ知らない。
男爵が始めたこの騒ぎが、どんどん大きくなっているという事実に、頭が痛くなってきたそのとき。
男爵が何でもないことのように言った。
「よし。私が支援している作家が招待されたのだ。私もじっとしてはいられん。馬車では時間がかかりすぎるし、服装の問題もいろいろあるからな。ちょうど最近、魔石自動車を一台買ったところだ。あれならかなり時間を短縮できる。公爵にはこちらから、いつ訪問するか事前に手紙を出しておこう。君は一緒についてくればいい。ははは!」
俺は、まるで立派に育った息子を見る父親のような慈愛に満ちた笑みを浮かべる男爵をじっと見つめた。
少なくとも行く手段ができたことに安堵すべきなのか。
それとも、この騒動の元凶がそもそもこの人だったことを恨むべきなのか。
自分でも分からない顔をしながら。
***
王都とは何か。
本来、それは一国の心臓であり、頭脳でもある。
国は王都なしにはまともに機能しない。
だがそれは同時に、王都という場所が、その国の存続と歴史を共に積み重ねてきたという意味でもあった。
だからこそ王都は、学問、政治、軍事、文化。
その他、数えきれない分野の中心地となる。
だがその一方で。
人が集まりすぎるがゆえに、土地不足という非常に深刻な問題も抱えていた。
簡単に言えば。
地価が地獄だった。
アルカディア王国の首都ロダールは、その中でも特にひどい。
一般的な労働者が一生かけて金を貯めても、王都の土地を一坪すら買えないかもしれない。
そう言えば十分だろう。
だからこそ、その事情を知る者なら。
王宮近くの一等地に屋敷を構える者が、どれほどの権力を持っているのか容易に想像できた。
もちろん実際には。
たかが屋敷一つ程度では、その人物が持つ本当の力を語るには到底足りないのだが。
「執事長。今日の予定は何時だったかな?」
カーテンを開けば、すぐ目の前に王宮の入口が見える部屋。
そこに一人の男が座っていた。
アーケン公爵は優雅に執事長へ視線を向ける。
「作家ナカヤマ様は、本日の昼食後に到着する予定でございます」
「昼食後か。なら、もうすぐだな。食事の時間を避けて来るということは、やはりシルヴェロス男爵と一緒に来るということではないか?」
「返信の手紙に押されていた封印は男爵のものでしたので、ほぼ間違いないかと」
何十年も仕えてきた腹心であり、血筋としては八従兄弟ほどの遠縁でもある執事長。
その答えを聞き、公爵は小さく笑った。
「執事長。正確に話そうではないか。君の説が正しいなら、シルヴェロス男爵が『彼と一緒に来る』のではなく、『男爵本人が来る』と言うべきではないかな?」
楽しそうに微笑む公爵に、執事長はため息をついて答えた。
「……私は今でも、閣下がお探しになっている『ナカヤマ』という作家は、シルヴェロス男爵本人だと考えております。作られた冊数はごく少数で、それも男爵の周囲の人間にだけ配られた。ならば、どこかの作家が書いた本と考えるより、男爵自身が書いた本を知人に送り、読ませたと考えるほうが自然でしょう」
そう話しながら、執事長は自然と机の上に置かれた本へ視線を向けた。
この本が屋敷にやってきてから、まだ一か月も経っていない。
アーケン公爵が、いつものように貴族の集まりへ参加した際に持ち帰ってきたものだった。
「ふむ。そう思うか?」
公爵は、その日のことを思い出した。
その日。
集まりが開かれていた屋敷の主人が、偶然一冊の豪華な本を見せてきた。
シルヴェロス男爵から贈られたものだという。
すると、その場にいた何人かの貴族が反応した。
最近、密かに話題になっている例の本ではないか、と。
公爵は興味を持った。
市販すらされていない本。
一介の男爵が作り、知人へ配っただけの本が、貴族たちの間で話題になっている?
公爵は礼儀正しく。
しかし有無を言わせぬ態度で、その本を借り受けた。
そして、その日の集まりにはほとんど参加せず。
部屋に籠もって一気に読み切った。
さらに集まりの終盤。
ようやく部屋から出てきた公爵は、その本を買いたいと言い出した。
しかも五十ゴールドという、どう考えても過剰な金額を提示したうえ。
さりげなく公爵という身分まで利用して。
それほどまでに欲しかったのだ。
「それで執事長。君は、この本をシルヴェロス男爵が書いたと思うのか? ん?」
「もともと男爵は無類の読書家として有名ではありませんか。本を多く読む者が、やがて創作する側へ回ることは珍しくありません」
「笑わせるな。男爵がこんな本を書いた? あり得ん。いや、男爵に限らず、大半の人間にはこんな本は書けない」
公爵は今でも、初めてこの本を読んだときに走った震えを覚えている。
もともと彼は芸術全般に強い関心を持っていた。
だが、幻想文学という分野を特別好んでいたわけではない。
その大半は粗雑だった。
粗雑で。
時には、現実を劣化させただけのような作品すらあった。
だが。
これは違った。
まるで現実そのものだった。
この世界とはまったく異なる世界でありながら。
本当にどこかに存在しているのではないか。
そう錯覚するほどの現実感がある。
設定のほとんどを、まるで読者が当然知っているものとして説明せず提示する、その大胆さ。
その大胆さの上に積み上げられた、緻密な内部論理。
そして。
その論理から自然と生まれる、人間という存在への多層的な考察。
数ある場面の中でも。
アーケン公爵が最も気に入っていたのは。
『尾張のうつけ』と『美濃の蝮』が顔を合わせる場面だった。
斎藤道三は、馬鹿者を見るつもりでそこへ向かった。
だが帰るころには。
世間から笑われているあの若きうつけが、いつの日か美濃そのものを飲み込む。
そう確信していた。
浅い作家なら。
織田信長を『尾張のうつけ』と呼ぶ者たちを、目の前の天才に気づけない愚か者として描いて終わりだっただろう。
だが、この本は違った。
なぜ信長が、そもそもそのような評判を得るに至ったのか。
常識外れな振る舞い。
慣習を意に介さない態度。
そして、その時代の領主に求められていたもの。
そういった要素が、一つ一つ明確に描かれていた。
斎藤道三の評価が変わったことすら。
隠された天才を一目で見抜くような、奇跡じみた慧眼としては描かれていない。
彼自身が若者を観察し。
噂の中にいる愚か者と、実際に目の前に立っている領主との間にある大きな隔たりに気づき。
その結果、自分の判断を修正した。
それだけだった。
だからこそ。
この本を書いた人間は理解している。
評判。
外見。
権力。
そうしたものが、人間同士の評価をどのように形作るのかを。
「政治、歴史、文化、戦争……これを書いた人間は、そのすべてに通じている。だからこそ、シルヴェロス男爵がナカヤマであるはずがない。社交の場で何度か会ったことがあるが、男爵は空想することはできても、こういうものを書ける人間ではない」
「……では閣下は、この正体不明の作家をいったい誰だとお考えなのでしょう?」
「さあな。可能性は低いが、男爵があの田舎領地のどこかで、本当に天才を拾ったのかもしれない。あるいは、我々が知らない作家が、男爵と親しいだけかもしれん。何人か候補は絞ったが……問題は文体だ」
本を手に入れたあと。
公爵は、この作品を読んだ何人かの貴族とも話をしていた。
その中には、作品そのものは素晴らしいと絶賛しながら。
文章があまりにも単純で、複雑さがまるでないと評した者もいた。
公爵も、その評価自体には同意していた。
ただし。
それを欠点ではなく、長所として捉えていた。
「簡単な文章。簡潔な文章。一見すれば、文学という価値に反しているようにも見える。だが、この作品では違う。このレベルの内部論理を維持できる作者が、文章表現を操れないはずがない。ならば当然、これは意図的なものだ」
賢者は愚者を演じることができる。
だが、愚者が賢者を演じることはできない。
それは普遍の真理だった。
だからこそ。
これほどの設定と物語を作り出せる人間が、あえて簡潔な文章を選んだのなら。
そこには必ず理由がある。
アーケン公爵には、その理由が分かる気がしていた。
「本物の歴史に見せたかったのだ」
歴史的事実を。
余計な装飾を排した、直接的で平易な文章で淡々と記す。
そのおかげで、この小説には、華美な美文を並べたどんな作品よりも強い現実感が生まれていた。
まるで。
『日本』という国が、本当にどこかに存在するかのように。
「実に大胆不敵な作家だ。幻想文学を書きながら、読者に『幻想』という札を外してから読めと要求している」
「閣下は、本当にこの作家を高く評価しておられるのですね」
「否定はしない」
「ですが、その高い評価の裏側には、この本の設定のすべてが、もっともらしく組み上げられているはずだという前提があるように思えます」
「執事長。この本の作者が……いや、どんな作家であろうと、世界のすべてを完璧に作り込むことなど不可能だと、私も分かっている」
だが。
それが何だというのか。
歴史のすべて。
時間の流れのすべて。
そして、現実の人間そのものとしか思えない登場人物たち。
そのすべてを完全に構築できる存在など。
そもそも人間ではない。
神だ。
作家が作り込むべきなのは。
自分が作品の中で実際に使う部分だけでいい。
そして優れた作家なら。
その周囲にある、より広い範囲まで大まかに構築しておける。
アーケン公爵が求めているのは、それだけだった。
それだけでも。
その人物が間違いなく天才作家であることの証明になる。
「となれば、まず並外れた想像力を持つ作家でなければならない。同時に、古臭い文体に固執しない柔軟さも必要だ。さらに、政治的な経験や感覚を身につけるだけの長く熟成された経歴も必要になる。そして、シルヴェロス男爵の助けを必要とする立場の人間でもあるはずだ」
『永遠の影』のアレクセイ?
文章力に比べて想像力が弱い。
除外。
『黄金剣気の時代』のコーネリアス?
文体へのこだわりがあまりにも強すぎる。
除外。
『ファイアウォール』のイメルダ?
まだ三十代の新進気鋭。
これほど複雑な政治構造を考え出すには若すぎる。
除外。
『マナランタンに火を灯せ』のカミラ?
プライドが高すぎて、男爵を通してこんなことをするはずがない。
頭の中で作家たちを一人ずつ候補から消していったアーケン公爵は、やがてため息をついた。
やはり。
誰も思い浮かばない。
そして今、その事実は公爵に苛立ちと喜びの両方を与えていた。
なぜなら。
もうすぐ。
その正体不明の天才作家が、ついに姿を現すのだから。
執事長と話しているうちに、思っていた以上に時間が経っていたらしい。
扉から入ってきた者の報告を受け。
執事長が静かに口を開いた。
「閣下。お考えのところ申し訳ございませんが、どうやら到着されたようです」
「おお。ようやくか。すぐにここへ通せ」
期待に満ちた時間が、ひどくゆっくりと流れていく。
そして、しばらくして。
見慣れた人物が扉から入ってくると、公爵は椅子に座ったまま親しげに声をかけた。
「男爵! 久しぶりだな!」
だが。
公爵の視線は、その男の後ろに固定されていた。
「ご無沙汰しております、閣下」
丁寧に頭を下げた男爵。
そして、その後ろから入ってくるはずの作家は――
「ん?」
アーケン公爵の目に映ったのは。
作家ではなく、一人の少年だった。
少し大きめの貴族服を着た少年を見て。
公爵の頭に浮かんだのは、ただ一つ。
『何だ? 男爵、従者でも雇ったのか?』
いずれにせよ。
この場に同席させるような子供には見えない。
だから公爵は、ごく自然に、穏やかな口調で退出を命じた。
「執事長。その子には客室を一つ用意してやれ」
すると。
入室しながら挨拶をしていたシルヴェロス男爵が動きを止め、聞き返した。
「閣下。ナカヤマ先生にお会いになりたいとのことで、我々をお呼びになったのではありませんか? 私は支援者として同行しただけですが」
「そうだが。それがどうした?」
「でしたら、なぜナカヤマ先生を退室させて、私だけをここに残そうとなさるのです?」
その言葉を聞いた公爵は。
しばらく無言になったあと。
口を開いた。
「……は?」
一国を支える柱の一人が発した声にしては。
あまりにも間の抜けた声だった。




