第5話 公爵(2)
「は?」
公爵という身分には、あまりにも似つかわしくない声が漏れた。
普通なら、それだけで気まずい空気が流れてもおかしくない。だが、そこはさすが公爵。持ち前の弁舌で、すぐさま場を取り繕った。
「ああ、いや、そうか。少し考え事をしていたようだ。失礼した。さあ、入って掛けたまえ」
瞬く間に平静を取り戻した公爵は、豪華な椅子をゆったりとした仕草で示した。
「では、失礼いたします。閣下」
「し、失礼します」
貴族らしく落ち着き払った男爵とは対照的に、その後ろに控える、作家ナカヤマを名乗る少年の声は震えていた。
二人がそれ以上何も言わずに腰を下ろすと、執事長はあらかじめ用意していたものを手際よくテーブルに並べた。
カチャリ、と軽い音を立ててティーカップが置かれる。
執事長が紅茶を注ぐと、柔らかな香りが応接室にふわりと広がった。
しかし、その香りを嗅いだ公爵の心中は、柔らかさとは程遠いものだった。
あまりにも多くの感情が複雑に絡み合い、自分でも何を感じているのか、うまく言い表せない。
あえて強い順に並べるなら、真っ先に来るのは困惑だった。
『あんな小僧が、あの作品を書いたというのか?』
公爵は、既に名を成した作家のほぼ全員を候補として考えていた。
たとえ新人だったとしても、豊富な人生経験と政治的洞察力を備えた、中年か老年の人物に違いないと確信していたのだ。
ところが、目の前に座っているのは見たこともない少年だった。
そもそも成人しているのか?
「そういえば、作家ナカヤマ殿の年齢と名前を伺ってもよろしいかな?」
「あ、ネイサンといいます。今年で十五歳になりました」
「実に若い。いや、幼いと言うべきか」
なんということだ。十五歳とは。
この子供が、文学でありながら華美な文章表現を退け、幻想文学でありながら幻想そのものの枠組みを打ち破ろうとした、あの物議を醸す作品を書いたというのか。
卓越した政治的洞察力と並外れた想像力を兼ね備えた傑作を。
公爵には、到底信じられなかった。
もちろん、天才というものは時折現れる。数え切れないほどの芸術家を支援してきた公爵は、誰よりもそのことをよく知っていた。
だが、天才にもある程度の傾向というものがある。
文章を書く才能がずば抜けているとか、常人には到底及ばない想像力を持っているとか。
しかし、自分が経験したこともない無数の分野を熟知し、これほど整合性の取れた文章を書き上げるなど――。
『天才というだけでは説明がつかん』
間違いなく、この作品を書いたのは別の誰かだ。
この少年は、その栄誉を受け取るために用意された、ただの看板にすぎない。
そんな当然ともいえる論理的結論に達した途端、公爵の困惑は、男爵と少年の双方に対する疑念へと変わった。
『なぜだ? こんなことをして、彼らに何の得がある?』
そして、その疑念は再び一つの可能性へと行き着いた。
『金か?』
まず、周囲の人間に本を配る。
本そのものはどこかの天才作家が書いたものだが、その事実は隠しておく。
代わりに、若き神童が書いた作品だと世間に触れ込むのだ。
そうすれば、正式に出版された際の宣伝効果は計り知れない。
『……男爵よ。君もとうとう金に目がくらんだのか?』
公爵の知るシルヴェロス男爵は、本以外にはほとんど欲を示さない男だった。
だが、人間というものは分からない。
一攫千金の機会を目の前にすれば、誰であろうと我を忘れかねない。そのことを、アーケン公爵は嫌というほど知っていた。
芸術を愛する男らしく、公爵の頭の中では、もはや妄想に近い筋書きが勝手に出来上がっていた。
少なくとも、今の状況を見る限り、なかなか説得力のある筋書きだった。
次第に怒りが込み上げてくる。
今日、彼らがここを訪れたということは、自分もその欺瞞に利用するつもりなのだろう。
一介の地方男爵が、よりにもよって公爵である自分を騙そうとしている。
そう考えた瞬間、怒りは激しい憤りへと変わった。
『そうだ。そう考えれば筋は通る。だが……』
それでも公爵は、すぐさま怒鳴りつけて嘘を暴こうとはしなかった。
彼らの話が真実である可能性を、わずかでも認めていたからではない。
自分の権威に絶対の自信があったからこそ、これほど見え透いた嘘を、真正面から自分につく人間がいるとは、にわかに想像できなかったのだ。
それに、そもそもなぜ自分を相手に、こんな無謀な嘘をつこうとしたのかという好奇心もあった。
『さて、どうしたものか。どうせ最後まで言い張るつもりだろう。ならば、自分の口から白状させてやればいい』
方法は、さほど難しくない。
本について質問すればいいだけだ。
当然、男爵も何の準備もせずに来たわけではあるまい。作品に関する情報を、少年の頭にたっぷり詰め込んできたはずだ。
だが、そんなことは関係ない。
公爵が本来、真の作者に尋ねたかったのは、作品のもっと深い部分についてだった。
実際に書いた本人でなければ、答えるのが極めて難しい質問ばかりだ。
公爵は、それをぶつけてやるつもりだった。
「招待状にも書いたとおり、私はあの作品を大いに楽しませてもらった。読者として聞いてみたいことが山ほどあってね。そこで、いろいろと質問させてもらおうと思うのだが、答えていただけるかな?」
「もちろんです。お答えします」
「……そうか。それはよかった。では――」
公爵は本を開くことすらせず、刺々しい口調で問いかけた。
「まずは、この部分について聞きたい。桶狭間の戦い以前、信長は既に尾張中でうつけ者として知られていた。ところが、当初は同じ評価を下していた斎藤道三が、実際に信長と会ったことで考えを改めたという。その過程自体には説得力があったのだが、作中には固有名詞がかなり多く、直感的には理解しにくかった。そこで、こうした出来事が起こるに至った当時の尾張の政治情勢について、説明してもらえないかな?」
案の定だった。
質問を投げかけた途端、少年は予想もしていなかったというように、慌てた様子を見せた。
「戦国時代の尾張の政治的背景について、ということでしたら、かなり長い話になると思うのですが……それでもよろしいですか?」
「必要なら、いくらでも聞こう。時間はたっぷりあるからね」
まさか最初の質問から追い詰められるとはな。
説明が長くなると言えば、こちらが見逃してやるとでも思ったのか?
公爵が顔を歪め、そんな見え透いた言い逃れを追及しようとした、そのときだった。
少年ネイサンが口を開いた。
「では……まずは中央権力の崩壊の始まりとなった応仁の乱から説明して、足利幕府と戦国大名の台頭へと話を進めるべきでしょうね。そのあと、名目上は尾張を統治していた斯波氏と、次第に尾張の実権を握るようになった織田氏について説明する必要があります」
あまりにも流暢な説明だった。
そのせいで、公爵は思わずネイサンの話を遮ってしまった。
「ま、待ちたまえ。何だって? 応仁の乱?」
「はい。桶狭間の戦いのおよそ九十年前、1467年に始まった戦乱です。この争いによって京都は荒廃し、足利幕府の権威は著しく低下しました。中央の権力が衰えるにつれ、各地の有力な一族が自らの領土を拡大しようと争うようになりました。当時の尾張の政治情勢も、その過程で生じたものの一つで――」
「九十年? 内乱だと? なぜわざわざ、そんな設定を作ったのだ? いや、それよりも、その間にもいろいろあったというのか?」
「え? もちろんです。政治情勢というものは、常に目まぐるしく変化するものですから。織田氏がある日突然現れて、尾張を支配するようになったわけではありません。何世代にもわたる権力闘争、一族内の諸家の対立、家督をめぐる争い、隣国との紛争……。信長は、そのすべての結果を引き継いだんです」
公爵の顔に困惑が浮かんだ。
何だ?
なぜ、こんなにもすらすら答えられる?
いや、単に答えが上手いというだけではない。
話し方が流暢で、声に一切の迷いがないことはひとまず置いておこう。
それ以上に、本の設定を瞬時に引き出してくる、その自然さが気になった。
まるで、自分でその小説を書いた人間の話し方ではないか。
『ハッタリに決まっている』
そうだ。
設定を十分に練り込んでいれば、国家の政治的分裂の発端となった大規模な内乱くらい、思いつくこともあるだろう。
もしかすると、本当の作者がそのあたりまで詳しく説明していたのかもしれない。
公爵はすぐさま、その点を突くべく質問を変えた。
「私が聞きたいのは、その応仁の乱から信長の家督相続までの間にも、実際に出来事が存在するのかということだ。単に途中を飛ばしているのではなくね。『いろいろあった』などという曖昧な答えでは困る」
「はい。もっとも、そこまで説明すると、本当にかなり長くなってしまいますが。ご希望でしたら、その間の出来事もすべて説明できますよ」
「……本当にあるのか? ならば、続けたまえ」
「分かりました」
少年は、少しもためらうことなく、ありとあらゆる話を次々と語り始めた。
足利幕府、守護の権威、戦国大名の台頭、斯波氏の勢力衰退、織田氏が対立する諸家に分裂した経緯、そして信長の父である織田信秀が勢力を拡大していく過程。
さらに信秀の死と家督相続をめぐる争い、信長の弟を支持した家臣たち、一族を分裂の危機に陥れた数々の対立へと話は進んでいった。
もはや政治的背景や、それに関連する設定の説明という範疇をはるかに超えていた。
日本という架空の国について、果てしなく詳細な説明が少年の口から溢れ続ける。
その話しぶりが、なんとも奇妙だった。
単に小説の設定を説明しているのではない。
誰もが知っている事実や真実を語るかのように、自信に満ちた口調で話すのだ。
まるで作家が自分の作品の世界観を紹介しているというより、実在する日本という国を研究してきた学者による歴史講義を聞いているようだった。
それも、話したり説明したりするのが大好きな教授の講義だ。
おかげで公爵は、休む気配すら見せない少年の話を、強引に止めなければならなかった。
「ま、待ってくれ。ひとまず、そこまでにしよう」
「分かりました」
衝撃で頭がくらくらする中、アーケン公爵は改めて少年の顔を見つめた。
『……いや。そんなはずはない』
これほど幼い少年が、本当にあの本を書いたとは、まだ信じきれなかった。
むしろ、この小僧が途方もなく優れた頭脳を持っていて、真の作者が作り上げた情報をすべて暗記してきたと考えるほうが、まだ納得できる。
そこで公爵は、暗記だけでは答えられないような、次の質問を持ち出した。
「オホン。では次に、本を読んだだけでは理解しにくかった部分について聞きたい。ここに出てくる今川軍の進軍だ。その経路について、詳しく説明してもらえないかな?」
「ああ、はい。確かに、あの部分は文章だけだと、すぐには把握しにくいですよね。ええと、紙とペンをお借りしてもいいでしょうか? あ、ありがとうございます。少しお待ちください」
気の利く執事長から紙とペンを受け取ると、少年はすぐさま何かを描き始めた。
ほんのわずかな時間で描き上げたとは思えないほど、詳細な地図だった。
「これは当時の日本の中央部を簡略化した地図です。ここが、今川義元の本拠地があった駿河国。その西に遠江と三河があり、さらにその先が信長の領地である尾張です。今川軍は三河を通って西へ進み、尾張に侵入しました。小説にも書いたとおり、当面の作戦は鳴海と大高周辺の城や砦を中心に展開されていました」
ネイサンのペンが紙の上を走る。
「さて、特に重要なのが、この二つの拠点です。丸根砦と鷲津砦は、今川方が押さえていた大高城を脅かす織田方の砦でした。当時、義元の配下にいた松平元康も、これらの砦をめぐる作戦に参加しています。義元自身は桶狭間方面へ進軍し、一方の信長はまだ清洲城にいて――」
今度は地図そのものを教材にして、少年は本の中の出来事を縦横無尽に語り始めた。
再び歴史講義のような説明を聞かされ、公爵は先ほど以上の衝撃を受けた。
「と、ここまで説明しましたが、実はこの部分には議論の余地があります。信長が最後に進軍した正確な経路や、突然の豪雨が勝利にどの程度貢献したのかについては、必ずしも明らかになっていません。個人的には、義元を単に油断して討たれただけの無能な将軍として描くのは、もったいないと思ったんです。彼は一族の勢力を大きく拡大した、優れた統治者でしたから。そこで作品では、国境付近の砦をめぐる攻防、今川軍の配置、そして敵の総大将を狙って攻撃を仕掛けるという信長の決断が、それぞれどのように戦いの結果に影響したのかを描こうとしました」
少年が、その作品は本当に自分が書いたものだと言わんばかりに、創作上の意図を淡々と語った瞬間。
公爵の脳裏に、ある考えが閃いた。
『本当に……この少年が作者なのではないか?』
直感だった。
単に知識が豊富だからというだけではない。
公爵は長年、数え切れないほどの芸術家と接してきた。
彼らが自分の創り上げた世界について語るときには、独特の雰囲気がある。
少年には、まさしくそれがあった。
この幼い少年が本当に作品を書いたのだと、そう思わずにはいられないほど強烈な直感だった。
そして、質問を重ねれば重ねるほど――。
「では、この部分にある美濃の説明については?」
「ああ、それについては、斎藤道三と息子の義龍との対立、それから道三の死後の美濃の政治情勢について、別に説明する必要がありますね――」
――公爵の疑念は、ますます崩れ去っていった。
「では、ここはどうだ? 信長が登場した頃には、既に権威が著しく衰えていた足利幕府というものを、どうやって考えついたのかね?」
「それを説明するには、尾張の歴史だけでなく、もっと広い範囲の話が必要になるので、少し簡潔にまとめますと――」
やがて、疑念は確信へと変わった。
いったい、どれほどの時間が経ったのだろうか。
話し始めたのは、確か昼食時に近い頃だったはずだ。
ところが今、窓の外に目を向けると、空は既に夕焼けの色にうっすらと染まっていた。
その長い時間の間、少年は数え切れないほどの質問に対し、ただ完璧に説明するだけでなく、細部に至るまで情報が溢れんばかりの回答を続けていたのだ。
「素晴らしい。あの作品の裏には、これほど膨大な設定が用意されていたのだね」
「はい。世界一つ分の話ですから、当然といえば当然ですね」
「当然、か……」
本当だった。
本当に、本当だったのだ。
あまりにも馬鹿げていると思っていた話が、実は真実だったのだと悟り、公爵は心の中で乾いた笑いを漏らした。
あの作品は、本当に十五歳の少年が書いたものだった。
正真正銘の天才。
いや、果たして天才という言葉だけで説明できるのだろうか。
これほど広大な架空世界を構築できる存在など、単なる天才というより、もはや一種の創造主ではないか。
そして公爵は、少しばかり恥ずかしさと申し訳なさを覚えた。
男爵も少年も、ただ真実を語っていただけだった。
それなのに、自分は勝手に嘘だと決めつけていたのだ。
『私の考え方も、すっかり凝り固まってしまったのかもしれんな。何の落ち度もない正当な作者を、最初から疑ってかかるとは』
こんな天才が現れるはずがない?
なぜだ?
今まで現れなかったというだけではないか。
そして今、その天才が目の前に座っている。
もし自分がもう少し短気だったなら、この天才は詐欺師の烙印を押され、一瞬にしてその才能を潰されていたかもしれない。
その事実を思うと、公爵は深い申し訳なさを感じた。
普段の彼らしくもないほどに。
だからこそ、随分と遅くなってしまったが、公爵はようやく、ある質問を口にした。
芸術家や作家をここへ招いた際、いつもなら真っ先に尋ねる質問だった。
「さて。実に興味深い説明だった。オホン。それはそうと、これまでの質問とは少々趣が異なるのだが、どうしても聞いておきたいことがある。よろしいかな?」
「もちろんです」
「君は、なぜこの小説を書いたのかね?」
それは、ネイサンという少年を、この小説の作者として認めたからこそ尋ねられる質問だった。
公爵は期待に満ちた眼差しで、少年の答えを待った。
いったい、何と答えるのだろうか。
あれほど緻密に世界を構築したのだから、架空の世界を通して、この王国の現状を寓意的に描こうとしたのだろうか。
あるいは、今にも紙面から飛び出してきそうな生き生きとした登場人物たちを通じて、人間や政治の本質を示そうとしたのかもしれない。
それとも、魔法の存在しない世界を思い描くことで生まれた、純粋な想像力と論理の結晶なのだろうか。
この世に類を見ない、圧倒的な天才の頭の中には、いったいどのような思想が渦巻いていたのか。
公爵は、どんな答えが返ってきても深く頷き、じっくりと味わうつもりで少年を見つめた。
そして、少年が長いこと考え込んだ末に、ようやく口を開いたとき。
そこから飛び出してきたのは、まったく予想もしていなかった言葉だった。
「僕が書いた理由は、その……」
「理由は?」
「……文章を書く練習のためです」




