第3話 炎と鋼鉄の歌(3)
大量のファンレター。
おまけに、幻想文学の大文豪だと?
いったい何なんだ、その顔から火が出そうなほど大げさな肩書きは。
『俺はトールキンか? 桶狭間の戦いがどうしたら『指輪物語』になるんだよ』
いや、そもそも小説ですらない。
ただ文章を書き連ねただけの代物だ。
頭が熱くなってきた。
「ファンレターをもらった感想はどうだ?」
「え、ええと……正直、よく分かりません」
もしこれが、俺が心血を注いで書き上げた作品だったなら。
嬉しさのあまり発狂していたかもしれない。
でも、これは違う。
「はは、それも無理はないか。あまりにも突然のことだったからな。だが、ここまで話したのだ。ついでに全部まとめて教えておこう。君宛てに届いたのは、手紙だけではない」
そう言って、男爵は引き出しからさらに何かを取り出した。
何通もの封筒だった。
どれも勝手に開けられないよう、口がしっかりと封蝋されている。
それが重なり、なかなかの厚みになっていた。
「何人かは、作品を読んですぐにでも君へ支援金を送りたいと言ってきてな。私がいったん受け取り、君に渡すと伝えておいた。だから作者本人にそのまま渡せるよう、封をした状態で送ってもらったのだ」
「し、支援金?」
「ああ。もっと頑張って続きを書いてくれ、という意味で送られた金だ。もちろん私も開けてはいないから正確な額は分からないが、この重さなら相当なものだろう。少なく見積もっても、三百ゴールドはあると思うぞ」
うわぁ。
俺が適当にひり出した文章の束が、ついに金まで稼ぎ始めやがった。
しかも、三百ゴールド。
聞いた話では、この街で一般的な四人家族が一か月暮らすのに必要な金額が、およそ二十ゴールド。
無名作家への支援金として考えれば、とんでもない大金だ。
そもそも俺がこの屋敷でもらっていた給金は、住居と食事を除けば月三ゴールド。
つまり、ほぼ八年分の給料である。
「もちろん、これは君に渡す。だが個人的には、この大金をそのまま持ち歩くのは勧められんな。君にとってはかなりの財産だろうし、保管するだけでも大変だろう」
男爵の言う通りだ。
これだけの金をベッドの下に隠して生活するなんて、毎晩気が気じゃないだろう。
「口座は持っているか?」
「ありません」
近世よりも近代に近いファンタジー世界だけあって、銀行も口座も存在している。
だが、俺のような社会の最底辺で暮らしている人間には、わざわざ口座を作るほどの金なんてなかった。
より正確に言えば――作れなかった。
以前、一度だけ銀行へ行ったことがある。
だが、魔法か何かで個人識別用の印を作る必要があり、それなりの費用がかかるうえ、保証人まで必要だと聞いて、そのまま入口で回れ右した記憶がはっきり残っている。
「なら、この金はひとまず私が預かっておこう。後日、一緒に口座を作りに行けばいい。その場で預ければいいし、次からは印税もそこへ振り込まれるよう手配しよう」
「わ、私の信用では口座を作るのが難しいと思うんですが……」
「心配するな。私が保証人になろう。銀行用の印を作る費用も私が出す」
ここまで聞いて、俺の頭に一つの疑問が浮かんだ。
「男爵様。失礼を承知でお聞きしますが……どうして、そこまで私にしてくださるんですか? あれは文字の勉強のために書いた練習作だということも、ご存じですよね……」
そう。
この人があの本を面白いと思ってくれたことは分かる。
だが普通、面白いものを見つけたからといって、あんな豪華な装丁を施し、さらに五十冊も複製して知り合いに配り、そのうえ保証人まで必要な作者の銀行口座開設まで手伝ったりはしない。
ましてや、その作品を書いたのは何の取り柄もない平民のガキだ。
だから失礼だとは分かっていても、聞かずにはいられなかった。
「ふむ。理由か。それはな、実に大層でありながら、極めて明確な理由だ」
男爵は再び本を手に取ると、その表紙を撫でた。
「素晴らしい物語を、ただ埋もれさせておくことなどできないからだ」
表紙を撫でる手が、少しずつ速くなっていく。
「私はこの作品を読んで悟った。これはまさしく世紀の傑作だ! 誰の同意など必要としない、疑いようのない事実だ! 文字を学ぶための練習作? そんなものはどうでもいい! 本当に素晴らしいものは、そんな事情などすべて超越する!」
男爵の目に、妙な光が宿った。
「これを読んでしまった者として、私には義務があった! これほど素晴らしいものが存在すると、世に知らしめる義務が!」
……なんか雲行きが怪しくなってきたぞ。
「だが……私も人間だ。少しばかり不安になった。果たして私の評価は本当に正しいのだろうか、と。だからこそ本として装丁し、周囲の者たちに送ることにしたのだ」
そこから男爵の言葉には、徐々に狂気のようなものが混じり始めた。
「もちろん、その作業も決して簡単ではなかった。君が文字の勉強をしながら書いたものだからな。誤字もかなりあった。特に手書きだったからだろう。私は一晩中かけて、そのすべてを直した。ああ、誤解しないでくれ。あの作業は本当に楽しかったぞ!」
まず明らかになったのは、この本を作るために男爵自身が払った努力。
「それから、私なりに作品をより深く理解するため、注釈を付けていく作業も実に楽しかった! 読者が理解しやすいよう、説明が必要だと思われる用語がいくつかあってな。オダ・ノブナガの地位については『領主』や『総大将』と書かれていたが、本来あれほどの人物であれば、敬意を込めて『剣聖』と呼ぶのが自然だろう? だから私なりの解釈を加え、いくつか調整しておいたのだ!」
……そして。
なぜ織田信長に、いつの間にか『剣聖』なんて意味不明な肩書きがくっついていたのか。
その真相まで判明した。
俺の知らなかった事実を次々と明かしていく男爵。
その目は、何というか。
怖い。
マジで。
「完成した本を送り、その反応が返ってきたとき、私がどんな気持ちだったと思う? 君宛てのファンレターは開けていないが、私宛てに届いた手紙には、誰もが同じことを書いていた。これは……信じられないほど面白い物語だ、と! その瞬間、私は確信した! 私の目は間違っていなかったのだ!」
もはや男爵の視線は、完全に俺へ固定されていた。
「では、その次に私がすべきことは何だ? 答えは一つしかない! 続きを書かなくなった作者本人に、この作品がどれほど素晴らしいのかを伝える! そして作者自ら、続きを書きたいと思わせる! なぜなら私は、私は続きが読みたい! 読まねばならんのだ! だからこそ最初に、君へあの質問をしたのだ!」
ひえっ。
この人、完全に目がイッちゃってる。
そして俺は、この目をどこかで見たことがあるのを思い出した。
いや、どこかどころじゃない。
むしろ、かなり頻繁に見ていた。
オタクの目だ。
しかも、重症の。
『この部屋に入ったときから、妙な既視感があると思ってたんだよな……』
そもそも、この部屋にある膨大な蔵書を見た時点で気づくべきだった。
貴族だから、教養を身につけるための本ばかりなんだろうと思っていたが。
これ、全部あんたの推し活コレクションじゃねえか。
ということは、この騒動。
全部、男爵が全力で推し活した結果ってことか?
そう考えると、すべてが一気に腑に落ちた。
ある日、一つの小説を見つける。
読んでみたら、めちゃくちゃ面白い。
なのにブックマークはほんのわずか。
そのせいで連載が止まる。
心が折れる。
こんなの許されるか。
慌ててレビューを書き、グループチャットにリンクを投げ、周囲の人間に片っ端から布教する。
――頼むから一回だけ読んでくれ! マジで美味いから! みんな! この作品を見てくれ! クソほど面白いんだって!
ただし、この男は金持ちの貴族だった。
だから推し活の規模が違っただけだ。
俺がようやくすべてを理解したころ。
熱弁を振るっていた男爵も、自分が少々興奮しすぎたことに気づいたらしい。
一度言葉を止め、息を整えた。
「お、オホン。まあ、とにかく。そういう理由で私はあれこれ動いたのだ。理解してもらえたかな?」
「はい。よく分かりました」
その気持ちは、俺にも痛いほど分かる。
俺自身、昔まったく同じことをやったことがある。
それで実際に、いくつかの作品を復活させる手助けまでした。
ただ。
それが今、自分のあの練習作に対して行われているという事実だけは、どうにも奇妙だった。
もしこれが、俺が全身全霊を込めて書いた作品だったなら。
今ごろ空でも飛べそうなくらい喜んでいただろう。
でも、本当にそうじゃない。
意地を張っているわけでもない。
純粋に出来が悪いのだ。
とはいえ、ここまで情熱と狂気を見せつけてきた相手に、俺から言えることなどほとんどなかった。
自分が適当に投げたクソ投稿に「本当に面白かったです!」なんてコメントが付いたなら。
ましてや、そのコメントを書いたのが俺の生殺与奪を握る上司だったなら。
作家として、さすがに何かしら応えなければならない。
「つまり男爵様は、私に続きを書いてほしい、ということですよね?」
男爵が勢いよく頷いた。
「分かりました。続きを書いてみます。いつ完成するかは分かりませんが」
「本当か! ああ、ようやく! 構わん! とにかく書いてくれ!」
男爵の顔が、ぱあっと明るくなった。
あまりにも嬉しそうなので、逆にちょっと申し訳なくなってくる。
「よし。グレイルン。では予定通り、ネイサンの部屋を替えてやれ」
「え? 私の部屋ですか?」
「執筆は普通の仕事とは違う。火もろくに使えないあの古い小屋で、文字を学びながらここまで書き上げたこと自体は見事だが、あんな環境では筆も進まんだろう。屋敷の中にあるグレイルンの部屋の隣が空いている。すでに片づけさせてあるから、そこへ移れ」
その言葉が何を意味するのかは明白だった。
男爵は俺を、屋敷の中で働くことを許された使用人の一員へと昇格させたのだ。
貴族の生活空間を埃まみれの格好でうろつくわけにもいかない。
つまり、雑用仕事からも解放されるということだった。
「で、では、屋敷の中では何の仕事をすれば……?」
「仕事ではない。執筆だ。書け。それだけでいい」
いや。
もう使用人ですらなかった。
ほとんどお抱え作家じゃねえか。
本当にこんなのでいいのか……?
とは思ったものの、向こうからそう言ってくれているのに断るのも変だ。
正直、それ以外のことはともかく。
薪割りで破壊され続けていた腰と、洗濯で酷使され続けていた手が救われる。
それだけでも十分嬉しかった。
「では、話はこのくらいでいいだろう。まずは荷物をきちんと移してきなさい。このファンレターと本も持っていけ。金は後日、銀行へ行くときに一緒に預けよう」
「分かりました。それでは失礼します」
男爵から渡されたものを抱え、俺はグレイルンと一緒に部屋を出た。
そのまま荷物を移すことになった。
もともと大した荷物もなかったので、小屋にあるものを一度にまとめて運ぶことにする。
古い部屋を片づけている間。
グレイルンはずっと、二つの感情が入り混じったような顔で俺を見ていた。
一つは明らかに、気に食わなそうな不満顔。
だが、もう一つが何なのかは少し分かりづらい。
「おっさん、そんなに働き手が一人減るのが嫌なんですか?」
「ああ。お前のせいで、また穴埋めの人間を探さなきゃならなくなったからな、このクソガキ」
「でも、その顔。他にも何か混じってません?」
「……ああ、クソ。ほんっとムカつくくらい勘がいいな、お前は。チッ、分かったよ。正直に言えば、俺も続きが気になってたんだ。だから、まあ、これでよかったと思ってる。何だよ、文句あんのか」
面白かったなら、素直に面白かったって言えばいいのに。
「それとな、このクソガキ。文字を習い始めて一年も経ってねえガキが、あんなもんを書いたんだ。……オホン。まあ、すげえとは思ってる。いや、正直すげえなんてもんじゃねえ。頭がおかしいのかと思ったぞ。薪割りすらまともにできねえガキの頭ん中に、いったい何が詰まってりゃあんなもんが書けるんだってな。天才……とか、そういうやつなんじゃねえかって」
「……おっさん。似合わないこと言わないでくださいよ。鳥肌立つんで」
「このクソガキ! せっかく褒めてやったのに、まだケチつけやがるか!」
「うわっ、ちょっ! それ振り回して手を怪我させたら、もっと続きが遅くなりますよ!」
そんなやり取りをしながらも。
俺も悪い気はしなかった。
この世界に落ちてきてから、一番近くにいた人間に認めてもらえたような気がしたからだ。
「ったく、こんな狭いところによくこれだけ詰め込んだな。ほら、全部運んでやったぞ。あとは自分で整理しろ。俺は帰る」
そう言ったくせに。
グレイルンは部屋を出る前に、荷物を一つ一つ丁寧に片づけてくれた。
すべてが終わったころには、夕食の時間もとっくに過ぎていた。
暗くなった窓を背に、俺は静かに部屋を見回す。
こんな柔らかいベッドと、綺麗な机を見るのは、いったいどれくらいぶりだろう。
「よし。じゃあ、まずは……」
そんな感動的な瞬間。
俺が真っ先にやったことは。
ファンレターを即座に開封することだった。
「さて、お前ら何て書いたんだ?」
俺が勉強のために書いた練習作の、いったい何がそんなに気に入ったんだ?
まずは一番上の一通を開き、落ち着いて読み始めた。
「ふむ」
全体的に、書かれている内容はどれも似たり寄ったりだった。
男爵が嘘をついていなかったことを証明するかのように、ひたすら称賛の言葉が並んでいる。
[今世紀最高の作品を読んだような心地です。特に主人公であるオダ・ノブナガが大好きです。彼は実に素晴らしく――]
[幻想文学という分野ではこれまでにもさまざまな試みがなされてきましたが、結局のところ、その多くは既存のものにわずかな変化を加えたにすぎませんでした。その中で、これほど眩い作品が現れるとは。このジャンルそのものの地平を広げた作品に、心より敬意を表します]
[先生! いったいどうすれば、このようなものを想像できるのですか! 魔法の存在しない世界を、これほど緻密に構築するとは! しかも、それをここまで面白い小説として描き出すなど、私には到底想像もつきません!]
過剰な称賛を浴び続け、また頭がくらくらしてきた。
中には、どうやら貴族から送られてきたものまである。
格式ばった挨拶文があり、最後に家紋の印まで押されている手紙もいくつかあった。
まあ、男爵の知り合いなのだから、ほとんどが貴族か上流階級なのは当然か。
上流階級の連中、集団で何かキメてんのか?
こいつら、本当に俺と同じもの読んでる?
もしかして男爵、誤字を直すついでに文章まで書き直したんじゃないだろうな?
俺は慌てて、男爵から渡された装丁本を開いた。
表紙だけではない。
中の紙まで、贅沢なくらい滑らかだった。
文字も驚くほど綺麗に印刷されている。
一つ一つ読み進めてみると、確かに誤字はすべて修正されていた。
だが。
文章そのものは、一文たりとも変わっていない。
間違いなく、俺が書いた文章そのままだった。
「……分からん。マジで分からん」
ため息をつきながらも、残ったファンレターをすべて開けていった。
何はともあれ。
それが読者に対する最低限の礼儀だ。
いったい何通目まで、目眩がするほどの称賛を読み続けただろう。
やがて下のほうにあった一通を手に取った瞬間。
俺は違和感に気づいた。
妙に目立つ、豪華絢爛な封筒。
差出人がどれほどの大物なのか、これでもかと主張するようにキラキラ輝いている。
言い知れぬ不安に襲われ、俺は急いで封を開いた。
案の定。
誰が見ても貴族が書いたと分かる、やたらと長ったらしい挨拶文を抜けた先。
肝心の本文には、こう記されていた。
[――貴殿の芸術的功績に深い敬意を表し、その源となった叡智と深遠なる洞察、そして果てなき想像力について語り合う場を設けたく存じます。つきましては、『炎と鋼鉄の歌』の作者殿に、ぜひ一度我が邸宅へお越しいただきたく、正式にご招待申し上げます。所在地は――]
顔に金箔でも塗りたくるつもりかと思うほど、猛烈な称賛とともに書かれた招待状だった。
だが俺は、その内容をまともに頭へ入れることができなかった。
手紙の最後。
そこに書かれていた名前と署名が、目に入ってしまったからだ。
〈アーケン公爵 ユリウス・ド・ヴィアルモン〉
「……公爵?」
それは、この国でも最高位に近い爵位の一つだった。




