第2話 炎と鋼鉄の歌(2)
「それで――桶狭間の戦いで、剣聖オダ・ノブナガの身に一体何が起きたのだ?」
男爵が俺に投げかけた質問は、本当にとんでもないものだった。
ツッコミたいところが一つや二つじゃない。
『そもそも、剣聖オダ・ノブナガって何だよ』
桶狭間の戦いと言った以上、俺の知っている織田信長のことなのは間違いない。
なのに、どうして名前の前に『剣聖』なんて頭の痛くなる単語がくっついているんだ?
そして、それ以上に意味が分からないのが――
『なんで異世界人が織田信長を知ってるんだよ』
しかも『桶狭間の戦い』なんて名前まで知っている。
結局、そんな疑問のすべてを凝縮した言葉が、気づけば俺の口から漏れていた。
「……一体、何の話をしてるんですか?」
低くなった俺の声を聞いて、男爵は目を丸くすると、俺ではなくグレイルンのほうを見た。
「ん? グレイルン。説明していなかったのか?」
「あ、はい。男爵様から説明なさるものかと……」
何なんだよ。
なんでこいつら二人でコソコソ話してるんだ?
「ふむ。なら、まずはこちらから説明したほうがよさそうだな」
男爵は机の引き出しを開け、中から何かを取り出すと、俺の前へ差し出した。
その四角い物体には、嫌というほど見覚えがあった。
本だ。
ただし、どう見ても普通の本ではない。
革張りの表紙。
そこに施された精巧な模様と鮮やかな装飾。
一目見ただけでも、かなり金のかかっていそうな代物だった。
これほど立派な本なら、どこかの宗教の聖典か。
それとも有名な哲学者が書いた本か。
そんなことを考えながら、表紙の中央に刻まれた題名へ目を向けた。
『炎と鋼鉄の歌』
その文字が目に入った瞬間。
俺の目はこれでもかというほど見開かれた。
もし口に水でも含んでいたら、間違いなく盛大に吹き出していただろう。
「これ、俺が書いた――」
思わず口から言葉が漏れた。
これは、俺が書いていたものにつけた仮タイトルだった。
「そうだ。お前が書いた小説だ」
「……これ、一体どこで……」
まともに言葉すら出てこなかった。
自分の書いたものを他人に読まれたのが恥ずかしかったから?
いや。
そんなわけがない。
そもそも俺はウェブ小説作家だった。
自分の書いたものを、世界中の人間に「お願いだから読んでください」とばかりに公開していた人間だ。
だから、そんな感傷的な理由で驚いているわけじゃない。
『だってこれ、人に見せるつもりで書いたものじゃないぞ』
前世の記憶を取り戻したあとに書いた小説。
……いや。
正確には、小説というより文章の束に近かった。
なぜそんなものを書いていたのかと聞かれれば、理由は大きく三つある。
一つ目。
文字も読めない状態でどこかの世界を生き抜こうとするのは、人生を超高難易度モードでプレイするようなものだ。
だから、どうしても読み書きを覚える必要があった。
とはいえ、教師を雇えるほどの金なんてない。
なら何冊か本を買って、基礎を覚えたあと、自分で文章を書いてみればいい。
幸い、言葉そのものはすでに話せた。
そして読み書きを勉強するうえで、自分で文章を書くというのはかなり効率のいい方法だ。
何より、小説を書くことは元々俺の仕事だった。
だから自然とそういう結論になった。
二つ目。
元の世界へ戻ったあとのことが心配だった。
このまま何年も文章を書かずに過ごしていたら、いざ帰れた頃には文章を書く感覚を完全に失っているかもしれない。
文章を書く筋肉というものは、確かに存在するのだ。
そして最後。
正直に言えば――
暇だった。
金もない平民として一人で暮らしながら、毎日仕事だけして生きる。
そんな生活が楽しいわけがない。
松毛虫が松葉を求めるように、俺も一度ペンを握って文章を書き始めると、不思議と孤独感がかなり薄れた。
そんな三つの理由が重なった結果。
俺は辞書を一冊買い、文字の勉強をするつもりで毎日少しずつ文章を書くようになった。
当然、そんな目的だったから、内容についてもそこまで深く考えてはいない。
せっかく凄い設定を思いついて何かを書いたところで、元の世界へ帰ったあと、その内容を全部覚えていられる保証はない。
それに、この世界の言葉で一から物語を作るのも難しかった。
だから――歴史を選んだ。
歴史学を専攻していた俺なら、内容や展開に頭を悩ませる必要はない。
固有名詞なら翻訳する必要だってない。
とはいえ、教科書みたいに書くのも味気ない。
だから小説らしいタイトルをつけて、ところどころ描写を加えた。
『桶狭間くらいがちょうどいいと思って、それを選んだんだけど……』
なのに。
どうしてそれが、こんな豪華な本になってここにある?
原稿なら今も、俺の部屋にある古びたボロい引き出しの中に――
「あ」
その瞬間。
ふと、一つのことが頭をよぎった。
一人だけ。
あれを見せたことのある人間がいた。
いくら勉強用の本があるとはいえ、言葉というものは、すでに読み書きのできる人間に聞くのが一番じゃないか?
だから俺は以前、直接頼める人間の中で唯一文字を読める人物に、文章がおかしくないか軽く確認してほしいと頼んだことがあった。
あくまで勉強のために。
俺はゆっくりと首を動かし、例の毛むくじゃらのおっさんへ視線を向けた。
「……おっさん?」
無言の圧力を受け、グレイルンが咳払いした。
「ゴ、ゴホン。い、いや。わざとじゃないんだ」
やっぱりこいつか、この野郎。
「わざとじゃないって、今それが言い訳になると思ってるんですか?」
俺が頼んだのは文章の確認だ!
男爵に渡せなんて一言も言ってねえ!
勉強用だから推敲だってほとんどしてないんだぞ!
恥ずかしいだろうが!
「それに、返すときなんで何も言わなかったんですか!」
頭を抱えた俺に対して、やらかした本人が先に声を荒らげた。
「だから俺だって、こんなことになるなんて思わなかったんだよ!」
部屋の空気がわずかに熱を帯びる。
すると男爵がパンパンと手を叩き、俺たち二人を止めた。
「まあまあ。二人とも落ち着け。ネイサン、お前の気持ちは分かる。だがグレイルンにも、別に悪意があったわけではない。少し待て。私から説明しよう」
「……はい。分かりました」
雇い主にそう言われてしまえば、どうしようもない。
ひとまず頷き、気持ちを落ち着かせる。
何にせよ。
勉強のためだけにグレイルンへ見せた小説が、一体どういう経緯で人から人へ渡り、こんな立派な装丁になって男爵の手元にあるのか。
それだけは聞かなければならない。
「今、お前が一番気になっているのは、この本がどうして私の手元にあるのか、ということだろう」
「はい」
「率直に言おう。お前の小説は……とてつもなく面白い」
……ん?
「私はこれほど面白い小説を、生まれてこの方読んだことがない」
「……はい?」
「グレイルンがこの本を持っているのを見つけたのも、それが理由だ。こいつが私の目の前で、こっそり仕事をサボって読んでいるところを見つけてな」
「マジですか?」
この筋肉ダルマが?
「私も不思議に思ったのだ。グレイルンが仕事を放り出してまで読む文章とは、一体どんなものなのだろうとな。それで好奇心を抑えられず、渡すように言った」
いつも俺がちょっとでもサボれば小言を言ってくるこのおっさんが。
俺の小説を隠れて読んで、仕事をサボってるところを見つかった?
「ゴホン!」
本人も恥ずかしいのか、隣でグレイルンが顔を伏せた。
ほう。
これはいい。
今度俺が仕事のことで小言を言われたときに使える、最高の弱みを手に入れたぞ。
そんなことを考えている間にも、男爵は話を続けた。
「グレイルンの名誉のために言っておくが、こいつもできる限り抵抗はしたぞ。屋敷で雑用をしている子供が文字の勉強をしていて、ちゃんと書けているか確認してほしいと頼まれただけだ、と説明もしていた」
「だったら、どうして……」
「率直に言えば、文章についてならグレイルンより私のほうが詳しいだろう? それに私の領地で暮らす者が文字を覚えるのは、悪いことではない。だから私も確認してやろうと思って受け取ったのだ。ところが――いやはや。これが実に面白くてな」
本の内容を思い出したのか、男爵は表紙を撫でながら、部屋の中を指し示した。
「私は自分でもかなりの読書家だと思っている。部屋を見れば分かるだろう?」
俺は顔を上げ、周囲を見回した。
確かに。
部屋中が本棚で埋め尽くされている。
俺が暮らしていた現代日本の基準で考えても、間違いなくかなりの蔵書量だった。
「これまで様々な小説を読んできた。独創的なものもあった。面白いものもあった。それを超えて、深く心を動かされる作品もあった。だが――このような小説を読んだことは一度もない」
いや。
うーん。
さすがにそれはないだろ。
「まず、物語そのものが素晴らしい。群雄が割拠し、国が乱れた時代。その中心で、『うつけ者』と呼ばれた一人の領主が天下統一を目指す。あまりにも壮絶で、それでいて人間味に満ちた物語だ。夢中にならないほうがおかしい」
「ああ……」
まあ。
それについては分からなくもない。
二万の兵を率いる今川義元。
それに対し、わずか二千の兵で挑んだ織田信長。
桶狭間の戦い。
日本史の中でも屈指の劇的な瞬間を小説風に書いたのだから、男爵がそういう反応をするのも理解できる。
「次に、登場人物たちだ。多くの小説では、人物がどうしても平面的になりがちだ。特に主要人物以外はな。しかし、この小説にはそんな人物が一人としていない。敵でさえだ! 一人の人間の頭から、どうすればこれほど多種多様な人物を生み出せるのか、私にはまるで理解できん」
そりゃそうだ。
全員、実在した人間なんだから。
物語の都合で俺が作り出した平面的な登場人物ではない。
実際にその時代を生き、悩み、苦しみ、戦った人々だ。
そう感じるのも当然だった。
「そして何より――この独特な世界観が素晴らしい。私も幻想文学はいくつか読んだことがあるが、これほど斬新な世界は初めてだ」
「あ」
「魔法が一切存在しない世界を、ここまで緻密に作り上げるとは驚嘆に値する。架空の国家『ニホン』をはじめ、その文化、戦略、そして何より、魔法のない世界のあらゆるものを描き出そうとする、その執念……」
……こっちでは、完全に逆なのか?
この世界について、まだそこまで深く調べたわけではない。
だが少なくとも、俺が現代地球で知っていた技術のかなりの部分が、この世界では魔法によって代替されていた。
もしかすると、この世界にも火薬を作るための材料そのものは存在するのかもしれない。
だが、それが何に使えるか気づくより先に、人類は火属性魔法を覚えてしまった。
なら、わざわざ硝石だの何だのを集めて、苦労して火薬を作る必要なんてない。
呪文を唱えてファイアボールを撃ったほうが、ずっと効率がいい。
言い換えれば――
俺にとって魔法がファンタジーであるように。
この世界の人間にとっては、火薬のほうがファンタジーなのかもしれない。
『……あれ? そう考えると、意外と辻褄が合ってないか?』
今まで一度も考えたことのなかった視点を聞かされ、俺は思わず納得しかけていた。
理屈だけなら確かに通っている。
だが。
頭で理解することと、心で納得することは別問題だ。
俺にとって、あれは今でも小説というより、文字の勉強のために書いた練習文という感覚のほうが強い。
文体と呼べるほどのものすら、まともになかったはずだ。
一体、何がそんなにいいんだ?
少し汚い例えになるが――
自分がひり出したクソを誰かに見せて、
『これは真の芸術作品だ!』
なんて絶賛されたところで、
『ですよね!』
と胸を張って頷けるか?
無理だろ。
「ただ、これほど素晴らしい小説なのに、非常に読みにくかった。誤字もかなり多かったしな」
「はい。村で適当に紙を買って、勉強用にざっと書いただけなので」
「だから、このように本に仕立てさせた」
「……これ一冊を保存するためだけに、こんなにお金をかけたんですか?」
ほら。
今だってそうだ。
何度見ても明らかに高そうな本を見ながら尋ねると、男爵は不思議そうに首を傾げた。
「保存? これは最初からこの形で作らせたものだが?」
「……はい?」
最初からこの形で?
その言い方だと――
まるで、これ一冊だけじゃないみたいな。
「これを含め、ちょうど五十冊作らせた」
「ご、ごじゅっ……出版したんですか!?」
出版?
しゅっぱぁぁぁぁん!?
原作者本人がたった今この本の存在を知ったのに、勝手に出版しただと!?
俺の著作権はどこ行った、この野郎!
一瞬。
俺の中に眠る、本来の姿――ウェブ小説作家としての魂が覚醒しかけた。
「いや。出版したわけではない。私の知人たちに送って、読んでみてくれと勧めただけだ」
……何?
俺が文字の勉強のために書いた練習文を、知り合いに送りつけた?
本人に無断で正式出版までされたわけではなかったことには、とりあえず安心した。
だが、それでも十分すぎるほど衝撃的だ。
そして男爵の言葉を証明するかのように、本の表紙に刻まれたある文字が、ふと俺の目に入った。
――ナカヤマ。
この身体の名前であるネイサンではない。
俺の元の名前。
ナカヤマ。
それが、そのまま書かれている。
まるで、この本を書いた人間が俺だと世界中へ宣言するかのように。
「お前が書いた原稿に記されていた作者名だ。筆名だと思って、そのまま印刷させた」
あ。
ああ。
ああああああ……。
これじゃもう、
『俺が書いたものじゃありません』
という逃げ道すら使えないじゃないか!
しかも本名!
本名使ってるし!
あまりの状況に頭を抱えたくなったが、話はさらにとんでもない方向へ転がっていった。
「実は、今日お前を呼んだ理由の一つもそれなのだ。この本を読んだ者たちから、お前宛てに届いたものがある」
男爵は先ほど本を取り出したのと同じ引き出しを開けた。
そして、中から何かをまとめて掴み、机の上へ置く。
「これは……」
「この本を読んだ者たちから届いた手紙だ。いわゆる――ファンレターというやつだな」
その言葉を聞き、俺は少し身を乗り出した。
机の上に積まれた便箋には、それぞれ異なる地名が差出地として記されている。
全部分かるわけではない。
だが地図を勉強するうちに見慣れた地名もいくつかあった。
文字通り、国中のあちこちから飛んできた手紙。
男爵が一体どこまでこの本をばら撒いたのかは知らないが。
その一番上に置かれた手紙には、こう書かれていた。
『幻想文学に新たな地平を切り拓いた大文豪、ナカヤマ先生へ』
大文豪。
俺が。
幻想文学の大文豪。
「は……はは……」
乾いた笑いが漏れた。
気づかないうちに。
俺は異世界でも、作家になっていた。
しかも――
ファンレターまで届く、ファンタジー作家に。




