第1話 炎と鋼鉄の歌(1)
「中山。どうして人はファンタジーが好きなんだと思う?」
まだライトノベル作家としてデビューする前。
作家志望だった頃、酒の席で先輩作家にそんなことを聞かれたことがある。
そこそこ有名なファンタジー小説を書いたことのある人からの問いだっただけに、その言葉には妙な重みがあった。
俺だって他の作家志望と同じように、面白いファンタジー小説を書くことを夢見ていた。
だからこそ、突然投げかけられたその問いについて、かなり長いこと考え、思いつく限りの答えを口にした。
「そりゃ、魔法じゃないですか?」
「おいおい。他には? それじゃあまりにも一次元的すぎるだろ」
「じゃあ……現実ではなかなか作れないような試練とか? 現実よりずっと複雑な状況を作れますし、それを主人公が解決していくところに爽快感があるというか――」
「それも違う。もうちょっとライトノベル作家らしく考えてみろ」
「だったら……英雄? ファンタジー世界なら、主人公の強さをもっと派手に描けますから」
「ハズレ」
それ以外にもいくつか答えを挙げてみたが、先輩作家はそのたびに首を横に振った。
「よく聞け。人がファンタジーを好きな理由なんて単純だ。あれが『現実』だからだよ」
「……はい? どういう意味です?」
あまりにも矛盾しているように聞こえる答えに、俺は思わず首を傾げた。
「考えてもみろ。ファンタジーってのは、完全な『存在しない幻想』じゃない。ファイアボールだの、オーラだの、ドラゴンだの、よく分からん要素をいくつか適当に脇へ置いてみろ。その下にあるのは、結局のところ人間が生きている世界なんだよ」
「ああ……」
「もちろん、お前が言ったものだって影響はあるさ。魔法なんて最高に格好いいだろ? モンスターだっていい。剣聖の剣気を嫌いな人間がどこにいる? でもな、それだけじゃ足りないんだ」
先輩作家はニヤニヤと笑っていた。
まるで酔っ払った預言者が、天の秘密でも教えてくれているかのように。
「分かったか? よく覚えておけ。どんな世界だろうと、人が最後に求めるのは、よくできた『人間の物語』なんだよ」
とんでもなく重要なことを教えてやった、とでも言いたげに先輩作家は得意げな顔をしていた。
けれど正直なところ、そのときの俺には、その言葉の意味をきちんと理解できていなかった。
なんとなく、そんなものなのか。
その程度の印象しか残らなかった。
その言葉の意味を、嫌というほど思い知ることになったのは、ずっと後のことだ。
初めてウェブ小説を収益化したときでもない。
面白いファンタジー小説を書いて成功したときでもない。
まさか自分でも想像していなかった形で、その意味を知ることになった。
***
そうだ。
正直に認めよう。
俺はかなりの業を積んできた。
作家としてデビューしてから書いてきた、数え切れないほどの作品。
そのたびに俺は、主人公たちへありとあらゆる試練を叩きつけてきた。
物語の中で生きる登場人物たちからすれば、俺なんて旧約聖書の神みたいな存在だったに違いない。
確かに存在している。
けれど絶対に姿を見ることはできず、そのくせ毎回毎回、人の人生を滅茶苦茶にしてくる存在。
俺が与えた試練に苦しめられてきた奴らの悲鳴が、今にも聞こえてきそうだった。
それでも。
それでも、これは違うだろ。
「目には目を、歯には歯を……ってことか?」
つまり、自分がやった分だけ、今度は俺も酷い目に遭えと?
ガンッ!
高く振り上げた斧を叩き下ろすと、目の前に置かれていた丸太が真っ二つに割れた。
パキンッ、と飛び散った木片を払い落とし、斧に寄りかかりながら腰を伸ばす。
「いてて……腰が……」
ズキズキする腰をさすりながら顔を上げると、低い丘の向こうに静かな町並みが広がっていた。
まるでヨーロッパにでも来たかのような光景だ。
ほら、あれだ。
同じようなレンガで造られた、可愛らしい家々がずらりと並んでいるような場所。
今すぐあそこへ降りていけば、日本から来たパッケージツアーの団体客にでも出くわしそうなくらい、典型的なヨーロッパの町並みだった。
きっとその中の何人かは、現地名物を使ったアイスクリームでも食べていることだろう。
問題は――
ここがヨーロッパではないということだ。
ヨーロッパどころか。
そもそも地球ですらない。
ここは――異世界だった。
魔法が堂々と存在している異世界。
どうしてここへ来たのかなんて、俺にも分からない。
確かに俺は、連載していたウェブ小説の最終話を投稿してから眠りについた。
なのに、その次に目を開けたときには、見知らぬ世界にいた。
お約束の――知らない天井。
……どころか。
黄ばんだアパートの天井ではなく、梁が丸見えになった納屋の屋根を見たときの、あの感覚ときたら……。
「はぁ……あの瞬間を思い出すだけで、今でもゾッとする」
変わっていたのが天井だけなら、誘拐でもされたのかと疑ったかもしれない。
だがすぐに、自分の身体と顔に妙な違和感があることに気づいた。
そしてその直後。
まるでずっとその瞬間を待っていたかのように、大量の記憶が頭の中へ流れ込んできた。
俺の名前はネイサン。
姓はない。
頼れる相手など一人もいない孤児。
いくつもの修道院を転々とし、つい最近十四歳になって社会へ放り出されたばかり。
幸い奴隷ではなかったものの、生活水準は奴隷と大して変わらない平民だった。
武術の心得?
護衛の仕事をしていたときに、ボロボロの槍を握ったことがある。
それが人生最大の戦闘経験だ。
魔法やマナ?
人生でその言葉を耳にした回数すら、片手で数えられる程度だった。
そのうえ文字まで読めない。
だから丈夫な身体にものを言わせる単純労働くらいしか、できる仕事がなかった。
そんな中、少しばかり運が良かったおかげで、とある貴族の屋敷に雇われ、雑用係として働くことになった。
そして少しばかり運が悪かったせいで――
木材を運んでいる最中、落ちてきた丸太を避け損ねた。
頭を直撃されて気絶。
そのまま適当に納屋へ放り込まれ――
そこで前世の記憶が一気に蘇った。
一連の事実を思い出した俺の脳裏に、ある言葉が浮かんだ。
『これ……転生だ』
ライトノベルに伝わる大秘奥義の一つ。
最初はただただ驚いた。
転生。
なんで?
いや、マジでなんで?
俺、トラックに轢かれてすらいないんだけど。
どれだけ考えても答えは出なかった。
しまいには、自分が書いた小説の登場人物の誰かが俺に復讐したんじゃないか、と本気で疑ったほどだ。
そして次に襲ってきたのは、圧倒的な恐怖だった。
もし、この世界から永遠に帰れなかったら?
両親。
友人。
今まで積み上げてきた作品と評判。
ブックマークだけして、まだ読めていなかった何百冊もの小説。
一年前にようやく買った憧れの車。
セブンイレブンのおにぎり。
母さんが作ってくれたカレーライス。
それを全部、諦めろっていうのか?
そんな恐ろしいことばかり考えて、何日ぼんやり過ごしただろう。
けれど、その大きすぎる衝撃も、一ヶ月ほど経つ頃には少しずつ薄れていった。
別に俺の精神力が人並み外れて強かったわけじゃない。
ただ――どうしようもなかっただけだ。
この世界でも飯は食わなきゃならないし、生きていかなきゃならない。
異世界でも腹は減る。
なら、どうする?
生き延びるために、与えられた仕事を真面目にこなすしかない。
そうやって必死に働きながら、俺は少しずつこの世界に適応していった。
そしてその過程で、この世界についていくらか情報を集めることもできた。
魔法と魔獣が存在する。
帝国があり、身分制度がある。
いかにも教科書通りのファンタジー世界。
ただし、時代感は中世というより近代に近かった。
魔石で動く自動車なんてものまで走っている。
そのおかげか、本や新聞もそれほど入手困難ではなかった。
詳しいところまでは確認できていないが、雰囲気としては……だいたいアーケインパンクといったところだろうか。
そうして一ヶ月ほど、この世界について調べた末。
俺は一つの結論に辿り着いた。
詰んだ。
社会の最底辺に生まれた、文字すら読めないこの身体では――
俺にできることなんて、本当に何一つなかった。
だったらどうする?
とりあえず、生き延びよう。
まともな仕事を見つける。
その後で、なんとか元の世界へ帰る方法を探す。
ここへ来る方法があったのなら、この世界の理屈で考えれば、帰る方法だって存在するはずだ。
そう考えた俺は、まず生活基盤を確保し、それから帰還方法を探すことに決めた。
極めて合理的な選択だった。
――その結論に、一つだけ問題があるとすれば。
「……どうやってまともな仕事を見つけろってんだよ」
ガンッ!
再び斧を振り上げ、薪を叩き割る。
くそ。
俺は典型的な文系人間だ。
大学では歴史学を専攻し、そのまま作家としてデビューした。
しかもファンタジーを書いて何度か爆死した挙げ句、歴史小説でようやく大当たりした人間である。
俺にできることなんて、文章を書くことくらいしかない。
当然、この世界では何の役にも立たない。
そもそもファンタジー世界で、地球の歴史なんか何の役に立つっていうんだ?
せめて理系だったなら、何かできたかもしれないのに。
「はぁ……担任があれだけ工学部に行けってうるさく言ってたとき、素直に聞いときゃよかったかな……」
嘆息しながら、もう一度斧を振り下ろす。
そして俺は、この一年間ずっと悩み続けてきた問題を、また頭の中で繰り返していた。
――とりあえず、どうやって生きていく?
少しずつ貯めてきた、ほんのわずかな金をどう使うか。
凄腕だという魔法使いをどうにか探し出して、異世界へ戻る方法について聞けないか。
そんなことを延々と考えながら――
ガンッ!
ガンッ!
ガンッ!
何回振り下ろしただろう。
我に返った頃には、目の前に大量の薪が積み上がっていた。
「今日の分は……これくらいでいいか」
機械的に割っていた最後の薪が、ぱかりと割れて左右に転がった。
それを綺麗に積まれた薪の山へ載せ、額の汗を拭う。
「うぅ……マジで腰が壊れそうだ」
こんなとき。
友達と刺身でもつまみながら日本酒を一杯やって、それからベッドに寝転がって小説を読み、そのまま眠れたら――
一発で回復できるのに。
ここには、そんなものはない。
くそ。
本当に帰りたい。
ウェブ小説すら存在しないファンタジー世界の平民、ネイサンなんかじゃなく。
家族も友人もいる現代日本で、中山七里として生きたかった。
まったく。
よりにもよって今日は、いつにも増して鬱々とした気分が――
「おい」
背後から声をかけられ、俺は振り返った。
「ネイサン。何してる?」
そこには、この一年ですっかり見慣れた顔があった。
「こんな時間にどうしたんです?」
グレイルン・ストーンウォーカー。
もじゃもじゃの髭。
酒樽を丸々一つ飲み干しても平然としていそうなほどの巨体。
シルヴェロス家の屋敷で、あらゆる雑用を取り仕切っている現場責任者だ。
現場責任者なんて言えば聞こえは立派だが、実際のところは工事現場の親方みたいなものだった。
そして俺は、言うなればその下で働く作業員。
だから当然、この一年間で一番顔を合わせたのが、この髭面のおっさんだった。
「薪割りは終わったのか?」
「はい。今ちょうど終わったところです」
グレイルンはのしのしと歩み寄り、何本かの薪を確認すると、不機嫌そうな顔で言った。
「なんでこんな細かく割った?」
「これくらいでいいんじゃないですか?」
「小さく割りすぎると、くべたときに燃える時間の調整が面倒になるって言っただろ」
何度聞いても、この独特な小言交じりの口調には慣れない。
『悪い人じゃないんだけどな』
そもそも、外で食うにも困っていた俺に、この屋敷での仕事を紹介してくれたのがこの人だ。
どれだけみすぼらしい仕事だろうと、自分専用の部屋がある。
一日三食食べられる。
しかも少ないながら日当まで出る。
そんな仕事を紹介してくれた人を、嫌いになれるはずがない。
まあ、見た目は筋肉ゴリゴリの豪傑なのに、中身は小言の多い姑みたいな性格をしているせいで、どうにも近寄りがたいのは事実だけど。
「そういえば、今日は仕事が多いって言ってませんでした?」
「ん……ああ。そうだな。確かに多い」
……ん?
なぜかグレイルンが言葉を濁した。
普段なら即答するような人間なのに、こんなふうに歯切れが悪いのは珍しい。
「その……なんだ。薪割りが終わったなら、ちょっと俺についてこい」
「え? どこへ? まだ洗濯が残ってますけど。それが終わったら、時間があれば倉庫も整理しろって言ったの、グレイルンさんですよね?」
自分で言いつけた仕事を終わらせなかったら、あとで文句を言うくせに。
一体どうしたんだ?
「ゴホン。そんなもんより、もっと重要な用事だ」
グレイルンはわざとらしく咳払いすると、続けた。
「男爵様がお前をお呼びだ」
「……男爵様が?」
突然のことだった。
この屋敷の主人からの呼び出し。
***
「お前がネイサンか」
俺が暮らしている場所とは比べものにならないほど、綺麗で豪華な部屋。
その中で、一人の中年男性が片手をテーブルについて身体を支えながら、穏やかな目で俺を見ていた。
『この人が、カイル・シルヴェロス男爵……』
俺が生まれたシルヴェロス領の領主。
二男一女の子供を持つ貴族。
正直、俺が知っているのはその程度だった。
ただの労働者である俺には、屋敷の中へ入る理由なんてほとんどない。
それに貴族というものは普通、身近に置く人間をかなり選ぶ。
俺みたいな平民の雑用係が近づく機会なんて、今まで一度もなかった。
だから男爵の顔を見るのも、声を聞くのも、これが初めてだった。
『思ってたより怖そうじゃないな』
漠然と想像していた「貴族」というイメージより、ずっと柔らかい印象を受けて、少し意外に思っていた、そのとき。
隣にいたグレイルンが、肘で俺の脇腹を小突いた。
早く返事をしろ、という合図だ。
「あっ、はい。俺がネイサンです」
「ふむ。そうか」
男爵はほとんど姿勢を変えないまま、しばらく口を閉ざした。
その微妙な沈黙。
ほんのわずかな時間だったが、俺の頭の中では様々な考えが駆け巡った。
『俺、何かやらかしたか?』
特に心当たりはない。
少なくともグレイルンに言われた仕事は、毎日真面目にやってきた。
特別上手くもない。
かといって、特別下手でもない。
ただ普通に。
空いた時間にやったことといえば、この世界について調べたり勉強したりするために、本やノート、新聞を何冊か買ったくらいだ。
『それが問題になるとも思えないけど……』
そもそも、普通の問題ならグレイルンが自分で処理するはずだ。
建設会社の社長が、セメント袋の置き場所を間違えた日雇い作業員を、わざわざ自分の部屋まで呼び出すか?
もし本当に社長直々の面談が組まれたのなら、現場監督レベルでは処理できない何かがあるということだ。
『何なんだ?』
何であれ、面倒事なのは間違いない。
そんな直感とともに、背中を冷たい汗が伝った。
「そう緊張するな。今日お前を呼んだのは、少し聞きたいことがあったからだ」
「聞きたいこと……ですか? あ、はい。何でも聞いてください」
聞きたいこと?
俺の頭はますます混乱していった。
一体、男爵が俺に何を聞くというんだ?
質問というものは、知らない人間が、知っている人間にするものだ。
そして当然、この世界についてなら、男爵のほうが俺なんかより遥かに多くのことを知っている。
近代の貴族ともなれば、その気になればいくらでも情報を集められるだろう。
あまりにも何も思いつかなくて、ついにはこんな考えまで頭をよぎった。
『まさか男爵様、急に雑用仕事に興味でも持ったのか?』
何かの気まぐれで、薪割りでもやってみたくなった?
それとも洗濯のコツでも知りたいのか?
……いや。
仮にそうだったとしても、その手のことなら俺よりグレイルンに聞くべきだ。
経験だって俺よりずっと豊富だし、男爵との付き合いだって長い。
『分からん』
推理して答えを出せるような問題じゃない。
そう結論づけた瞬間、俺の視線は自然と男爵の口元へ向かった。
やがて男爵が口を開いた。
そして――
そこから飛び出した言葉は、俺のあらゆる予想を遥かに超えていた。
「それで――桶狭間の戦いで、剣聖オダ・ノブナガの身に一体何が起きたのだ?」
「…………はい?」
何だ、そのわけの分からん話は。




