103.大好きよ。
牢獄の中。
石の冷たさが、じわりと身体に染みてくる。
ここに来るのは――二度目。
けれど、あの時とはまるで違う。
「……」
あの時は、守るためだった。
でも今は――
「……はは……」
乾いた笑いが、ぽつりと零れる。
虚しく響いて、すぐに消えた。
もう、涙すら出ない。
感情が、どこかに置き去りにされたみたいに。
私に下された判決は――即日処刑。
それが、すべて。
それで、終わり。
「……」
ぼんやりと、床を見つめる。
その時――
石段を駆け下りる音が、響いた。
急いでいる足音。
乱れた呼吸。
そのまま、私の檻の前で止まる。
「はぁ、はぁ……おねえ、さま……」
聞き慣れた声。
ゆっくりと視線を上げる。
そこに立っていたのは――ルミナだった。
息を切らしながら、必死にここまで来たのだろう。
「……」
ほんの一瞬だけ、その姿を見る。
けれど――
すぐに、目を逸らした。
「……もう、放っておいてよ」
小さく、呟く。
これ以上、何も考えたくない。
「いやよ!」
即座に返ってきた声は、強かった。
「どうして、否定しなかったの……!」
震えていた。
怒りと、悲しみと。
全部が混ざった声。
「……お願い……」
声が、少しずつ弱くなっていく。
「お姉様がいなくなるのは……嫌……」
「……」
胸の奥が、わずかに軋む。
「私には……お姉様が……必要なの……」
鼻をすする音。
堪えきれなかった涙が、こぼれているのが分かる。
「……」
彼女を傷つけてばっかりね。
何度も、何度も泣かせて。
「……姉として、失格ね……」
言うつもりなんて、なかった。
気づけば、零れていた言葉。
「……」
涙をすする音が、ぴたりと止む。
「……なんで……なんで!」
次の瞬間、弾けるような声が響いた。
「わかってくれないの……!」
――ガンッ。
鈍い音が、狭い牢に響く。
視線を向けると。
ルミナが、檻を拳で強く叩いていた。
何度も。
何度も。
その手は、すでに赤く滲んでいる。
「……ルミナ……」
思わず名前を呼ぶ。
けれど、彼女は止まらない。
「私は……お姉様の妹でいることが……幸せだって……!」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、それでも真っ直ぐにこちらを見る。
「そう言ったじゃない……!」
その瞳は、揺れていない。
「……何があっても……私は……お姉様の味方なの……!」
また、叩く。
痛みなんて、構わないように。
その手から、じわりと血が滲んでいく。
「……っ」
私は、思わず檻に近寄る。
震えるその手を、そっと包み込んだ。
冷たくなりかけた指先に、彼女の体温が触れる。
「……お姉様が、いなくなるなら……」
かすれた声。
「……私も、一緒がいい……」
「……っ」
胸が、鋭く痛む。
その言葉は――
聞きたくなかった。
聞いてはいけなかった。
「……貴女には、ユリウス殿下がいるわ」
絞り出すように、言葉を紡ぐ。
「サビーナ様も……ヴァルディオ侯爵も……クロエ様も……」
一人じゃないと、伝えたくて。
必死に並べる。
けれど。
「……違う」
ルミナは、首を振った。
涙を零しながら。
「そうじゃ、ないの……」
私を見つめている。
「……」
私は、目を伏せる。
私の傍にいた人は――
皆、いなくなっていった。
リサも。
お母様も。
そして――セシルも。
《悪魔の子》
幼い頃に、向けられた言葉。
忘れたつもりだったのに。
今なら――
そうなのかもしれないと、思えてしまう。
「……」
指先に力が入る。
彼女の手を、離さないように。
「……ねぇ、ルミナ」
泣きじゃくる彼女に、そっと声をかける。
できるだけ優しく。
壊れてしまわないように。
「貴女の傍から、いなくなるわけじゃないの」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
遠い記憶がよぎる。
――お母様の手紙。
あの時、確かに書いてあった言葉。
「……空の上から、ずっと見守ってるわ」
ぽつりと、続ける。
頬を、温かいものが伝う。
気づかないふりをしたまま。
ルミナは、首を横に振る。
何度も、何度も。
「……違う……そんなの……」
かすれた声。
それでも、私は言葉を止めない。
止めてしまえば――揺らいでしまうから。
「私ね……」
小さく息を吐く。
「もう、疲れてしまったの」
その一言で。
ルミナの動きが、止まる。
ぴたりと。
「……だから」
視線を合わせる。
逃げずに、まっすぐに。
「最後のお願い」
指先に、わずかに力がこもる。
「……私を、楽にしてほしい」
その瞬間。
ルミナの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「……っ、いや……」
震える声。
崩れていく表情。
私は、そっと手を伸ばして……その涙を、拭った。
「……来世というものがあるなら」
かすかに、微笑む。
「また、貴女のお姉様になれるかしら」
ルミナは、何も言えずに。
ただ、私の手を強く包み込んだ。
離さないように。
消えてしまわないように。
「……なれる、わ……」
途切れ途切れの声。
それでも、必死に紡ぐ。
「だって……私……」
言葉が、うまく続かない。
呼吸も、涙も、全部が乱れている。
それでも。
「……もし、なれなくても……」
顔を上げる。
涙で滲んだまま。
それでも、まっすぐに。
「私は……絶対に……お姉様を探して……みせるわ」
その言葉は、震えているのに。
どこまでも、強かった。
「……」
未来のことなんて、誰にも分からない。
来世なんて、本当にあるのかも分からない。
けれど、彼女なら。
本当に、見つけてくれるかもしれない。
そんなふうに、思えてしまった。
「……ルミナ」
そっと、彼女の頬に手を添える。
震えているその肌に、指先が触れる。
逃がさないように。
確かめるように。
「……大好きよ」
静かに、告げる。
今まで――言えなかった言葉。
守るために、嘘を重ねて。
遠ざけることしかできなかった私が。
ようやく、口にできた本音。
「……っ」
ルミナの瞳が、大きく揺れる。
「私も……お姉様のこと……」
涙で声を詰まらせながら。
それでも、必死に紡ぐ。
「……大好きだよ」
その言葉に。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……ふふ……」
思わず、笑みが零れる。
「こんなにも……幸せなこと、ないわ」
小さく呟く。
本当に、そう思った。
こんな形でも。
最後に、この言葉を交わせたことが。
ただ――
それだけで。
「……」
もう、涙なんて枯れたと思っていたのに。
頬を、温かいものが伝う。
止めようとしても、止まらない。
それでも。
不思議と――
その涙は、苦しくはなかった。
―――――――――
ルミナは、泣き疲れたのだろう。
いつの間にか、静かに眠っていた。
涙の跡を頬に残したまま。
その寝顔は、どこか幼くて。
守りたかったはずのものが、そこにあった。
「……」
檻越しに繋いだ手は、まだ離れていない。
細くて、温かい。
その温もりを、確かめるように握り返す。
「――本当に、いいんだね?」
少し離れた場所から、声が落ちた。
聞き慣れた、穏やかな声音。
「……ユリウス殿下」
顔を上げると。
彼は、どこか居心地が悪そうにこちらを見ていた。
「……ええ」
小さく、頷く。
「私がいると……この子に、また迷惑をかけてしまうかもしれないわ」
視線を、眠るルミナへと落とす。
その寝息が、かすかに聞こえる。
「……ごめん」
ユリウスは、ゆっくりと頭を下げた。
「もっと、僕に力があれば……」
その声は、悔しさを滲ませている。
「いいえ」
静かに、遮る。
「ユリウス殿下には……十分すぎるほど、力を貸していただきましたわ」
顔を上げ、まっすぐに彼を見る。
その言葉に、嘘はない。
「……ルミナを、頼みました」
穏やかに、告げる。
すると。
彼の拳が、ぎゅっと握られるのが見えた。
「……もちろんだ」
低く、けれど確かな声。
その一言で、十分だった。
「……」
小さく、息を吐く。
肩の力が、少しだけ抜ける。
「翌日には……君は、斬首だ」
淡々とした言葉。
それでも、どこか迷いが混じっている。
「何か……言い残したいことはある?」
「……」
ほんの少しだけ、考える。
言葉にしたいことは、たくさんあるはずなのに。
不思議と――
一つしか、浮かばなかった。
「では……一つだけ」
静かに、口を開く。
「お願いがあります」
その言葉は、静かな牢の中に、そっと落ちた。




