102.悪女。
「……はは……ざまぁ、ないわね……」
かすれた声が、少し離れた場所から届く。
「……っ」
視線だけを向ける。
――まだ、生きている。
「……あんたも、もう……終わりよ……」
息も絶え絶えに、それでも歪んだ笑みを浮かべている。
「もうじき……ここに……兵が……来るわ……」
「……そう」
静かに、応じる。
この場所に、呼んだのね。
そう理解できるほどに、頭が冷えていた。
セシルのもとから、ゆっくりと離れる。
ほんの一瞬だけ、躊躇いがよぎる。
けれど――
足は止まらなかった。
地面に転がっていた短刀を拾い上げる。
冷たい感触。
血で、少しだけ滑る。
「……憎い、のよ……」
セレフィーナの声が、震える。
「……あんたも……セシル様も……」
その言葉を、ただ聞くだけ。
放っておけば、彼女はこのまま出血で死ぬだろう。
それでも。
「……」
指先に、力が入る。
短刀を、強く握りしめる。
――憎い。
胸の奥から、込み上げてくる。
――許さない。
こんな感情を抱くのは、初めてだった。
冷たいのに。
焼けつくように、熱い。
短刀を、振りかざす。
腕に、力を込める。
そのまま振り下ろせば――終わる。
「……っ」
息が、詰まる。
『ネメシア』
ほんの一瞬、頭の中に声が響いた気がした。
視界の奥に浮かぶのは――
屈託なく笑う、あの人の顔。
優しくて、どこか不器用で。
それでも――
確かに、私を見ていた人。
「……っ」
手が、止まる。
次の瞬間。
どすっ、と鈍い音が響いた。
「……は……」
荒い呼吸。
震える手。
突き刺した短刀は――
セレフィーナの顔の、すぐ横。
地面に深く食い込んでいた。
「……できるわけ、ないじゃない……」
かすれた声が、零れる。
視界が滲む。
彼女を殺したところで。
――あの人は、戻らない。
「……もう……」
言葉が、続かない。
胸の奥が、空っぽになったようで。
それなのに、痛みだけが残る。
「……いない、のだから……」
ぽつりと、落ちた言葉は。
自分でも信じたくないほど、重かった。
その時――
遠くから、地を蹴る音が響く。
馬の蹄が複数。
それに重なるように、怒号が飛び交う。
「――いたぞ!」
「この辺りだ!」
「急げ!」
現実が、容赦なく押し寄せてくる。
けれど。
「……」
私は動かなかった。
ただ、もう一度だけ――
振り返る。
血に濡れたまま、横たわる彼の姿を。
「……セシル」
静かに、名を呼ぶ。
そして――
「私も、愛してるわ」
その言葉は、届かなくてもいいと分かっていながら――
それでも、どうしても伝えたかった。
―――――――――
そこから先の記憶が、ない。
途切れたままだった。
気づけば、手首に重い感触があった。
冷たい鉄の拘束。
逃げ場を奪う、確かな重み。
「――お前が、セシルを殺したのか」
低く響く声。
その一言で、意識が無理やり引き戻される。
「……」
ゆっくりと、顔を上げる。
視界に映るのは――
無機質に並ぶ兵たち。
そして、その奥。
高く据えられた玉座。
そこに座る、皇帝と皇后。
「……」
ここは、王宮のようね。
そう理解するのに、少し時間がかかった。
思考が、うまく回らない。
頭の奥が、ぼんやりと霞んでいる。
「セシル殿下を刺したのは、彼女の持っていた短刀で間違いありません!」
兵の声が、やけに大きく響く。
遠くで鳴っているみたいに。
――違う。
そう言わなければいけない。
分かっているのに。
「セレフィーナ令嬢も、死の間際に彼女に刺されたと証言しております!」
さらに重ねられる言葉。
――あの女は、最後まで……。
「……っ」
息が、うまく吸えない。
胸が、締め付けられる。
喉が、ひどく重い。
声を出そうとするたびに――
何かに押し潰される。
――私じゃない。
頭の中では、何度も繰り返しているのに。
「以前は、毒殺未遂に脱獄。そして今回は――殺害か」
皇帝の声が、静かに落ちる。
重く、逃げ場のない響きで。
「弁明すら出ないとはな……」
深いため息。
それが、すべてを物語っていた。
「……」
何かを言わなければ……。
言わなければ、いけない。
そう思ったのに――
目に映ったのは、
軽蔑と。
疑念。
そして、冷え切った視線。
「……」
その瞬間。
理解してしまった。
――何を言っても、無駄だ。
何度も見てきた。
何度も味わってきた。
この目。
この空気。
この、決めつけ。
「……」
胸の奥が、静かに冷えていく。
――私が、何をしたというの?
ただ。
セシルと、一緒にいたかっただけ。
ルミナを、守りたかっただけ。
それだけなのに。
どうして――
そんな目で、私を見るの?
「……」
言葉は、もう出てこない。
怒りも。
悲しみも。
すべてが、どこか遠くへ沈んでいく。
――私は。
幸せになれない。
なっては、いけないのね。
そう、どこかで納得してしまう。
「……」
けれど、その奥で。
ほんのわずかに、何かが残っていた。
――いえ……違う。
私にも、選べる道がある。
「……よ……」
かすれた声が、零れる。
「……?」
皇帝が、わずかに首を傾げた。
その視線を、まっすぐに受け止める。
そして――
「……そうよ」
はっきりと、口を開く。
「私が、全部やったわ」
場の空気が、凍りつく。
「毒も、脱獄も――今回のことも」
一歩も引かずに、言い切る。
「全部、私が一人でやったことよ」
その言葉は。
自分を切り裂くように、静かに落ちていった。
周囲が、ざわめく。
「なんと……」
「やはり、彼女は早めに処分するべきだったんだ」
「セシル殿下に好かれていたからって……」
冷たい声が、あちこちから降ってくる。
まるで最初から、そうであったかのように。
「……やったのは、君じゃないだろ!」
その空気を切り裂くように、声が響いた。
――ユリウス殿下。
「毒の件は、セレフィーナ令嬢だ。脱獄だって、本当は――」
「私よ」
ぴたり、と。
その言葉を遮る。
「ネメシア――」
制止の声。
けれど、私は首を振る。
……止めないで。
「私は……セシル殿下が、憎かったのよ」
――違う。
胸の奥で、声が叫ぶ。
それでも。
口は、止まらない。
「いつも、私を見下してくるもの」
――そんなこと、ない。
「少し好意を見せれば、簡単に絆されて……」
喉が、ひどく痛む。
それでも、笑みを浮かべる。
「……笑いそうになったわ」
くすりと、乾いた笑い。
無理に口角を上げた。
――貴方の笑顔、好きよ。
「……でも、もういらない」
言葉が、刃のように自分を切り裂く。
――私は、貴方にいてほしい。
「だから……殺したの」
静かに、言い切る。
――セシル。
内側で、名前を呼ぶ。
けれど、それは誰にも届かない。
「……」
沈黙が落ちる。
ユリウス殿下が、何かを言おうとする気配。
この人は、止めてくれる。
本当の事を、暴いてくれる。
「……」
けれど私は、彼を睨んだ。
強く、はっきりと。
言葉を飲み込ませるように。
――お願い。
これ以上、私を庇わないで。
これ以上、犠牲者を増やさないで。
これ以上――
「……ごめんなさい」
小さく、かすれるように。
誰にも聞こえないほどの声で。
謝ることしか、できなかった。
この話書いてて胸が痛みました。
明日も二話投稿予定です。




