101.セシル……。
「……これからは、それで呼べ」
穏やかに、けれど有無を言わせない声音。
「……っ」
思わず、視線を逸らす。
まだ慣れない。
たった名前を呼ぶだけなのに、こんなにも意識してしまうなんて。
「……分かり、ました」
つい、口をついて出た言葉に――
「敬語」
すぐに指摘される。
少しだけ、頬が熱くなる。
「……わかった」
小さく言い直すとセシルは満足そうに、ふっと笑った。
「よし」
その一言が、妙にくすぐったい。
「これから、もっと楽しみが増えたな」
どこか軽い様子で言うくせに、その視線はまっすぐこちらを見ている。
「……そうね」
小さく、頷く。
その言葉に、嘘はない。
胸の奥が、こんなにも温かい。
「……」
ふと、視線を落とす。
指先に光る、空色の石。
静かに、きらめいている。
――私は。
こんなにも、幸せでいいのかしら。
胸の奥に、ほんのわずかな不安がよぎる。
けれど――
「ネメシア」
名前を呼ばれる。
顔を上げると、すぐ近くに彼がいる。
その存在が、現実だと教えてくる。
「ぼーっとしてんな」
軽く額を小突かれる。
「……痛い」
「大したことねぇだろ」
彼は小さく笑う。
そのやり取りが、どうしようもなく心地いい。
「……セシル」
まだ少しぎこちないまま、名前を呼ぶ。
それだけで、彼は少しだけ目を細めた。
――ああ。
たぶん。
この時間を、守りたいと思ってしまった時点で。
もう、答えは出ているのかもしれない。
―――――――――
湖のほとり。
水面は穏やかで、風もやわらかい。
隣を歩くセシルの足取りは軽く、どこか楽しげだった。
「こうしてると、ほんとに何もねぇな」
「ええ。だからこそ、落ち着くの」
並んで歩く。
それだけの時間が、こんなにも心地いいなんて。
少し前の私には、想像もできなかった。
「……ネメシア」
ふいに名前を呼ばれる。
「なに?」
彼は満足そうに目を細めた。
その瞬間――
空気が、変わった。
「――っ」
背筋に、ぞくりとした感覚が走る。
振り返るよりも早く。
「下がれ!」
強く腕を引かれる。
すると。
鈍い音が、響いた。
「……っ、は……」
目の前で、セシルの身体がわずかに揺れる。
その背後に、見慣れた顔。
「……セレフィーナ」
歪んだ笑みを浮かべながら、短刀を握っていた。
その刃は、確かに――セシルの脇腹を捉えていた。
「やっと……見つけましたわ」
息を荒げながら、狂気を滲ませる声。
「邪魔ですのよ……あなたが」
その言葉に、胸が強く締め付けられる。
「……っ」
けれど。
「……舐めんなよ」
低く、押し殺した声。
セシルは腰に差していた剣を抜き、迷いなく振り抜いた。
「――きゃあっ!」
鋭い一閃。
セレフィーナの身体が弾かれるように揺れ、そのまま崩れ落ちる。
短刀が手から離れ、地面に転がった。
「……っ、は……」
その直後。
セシルの身体が、わずかに揺れる。
力が抜けたように、傾いた。
「セシル!」
咄嗟に、その身体を支える。
「しっかりして……!」
腕にかかる重みが、はっきりと増す。
触れた手に、温かいものが広がった。
――血。
はっきりと分かる量だった。
「すぐに手当を……!」
思わず声が上ずる。
けれど……私には、その知識がない。
「……っ」
頭の中が白くなる。
――ルミナ。
咄嗟に、彼女の顔が浮かぶ。
あの子の力があれば、きっと――
「……っ、でも……」
今日は、来ない。
ここにはいない。
頼れない。
その事実が、容赦なく突きつけられる。
その間にもセシルの体からは、確実に血が流れ続けていた。
「……大したことねぇ」
息を整えながら、強がるように笑う。
「……そんなわけ、ないでしょ……!」
声が震える。
支えているはずなのに。
腕に伝わる重みは、どんどん増していく。
力が――抜けている。
「……っ」
支えきれず、そのまま地面へと崩れ落ちる。
「セシル!」
慌てて横たえ、すぐに脇腹へ手を伸ばす。
躊躇う暇なんて、ない。
スカートの裾を掴み、引き裂く。
布を傷口に押し当て、強く抑える。
「……っ、止まって……!」
祈るように、力を込める。
けれど。
じわり、じわりと。
布が、赤く染まっていく。
止まらない。
「……っ」
彼の呼吸が浅くなる。
その時。
ぽたり、と。
手の甲に、何かが落ちた。
「……雨……?」
見上げると、空は曇り始めていた。
一粒。
また一粒と、落ちてくる。
「……やめて」
小さく呟く。
雨が強くなれば――
血が、流れてしまう。
せっかく抑えているのに。
意味が、なくなる。
嫌な予感が、胸の奥を締め付ける。
「……嫌」
ぽつりと、零れる。
「嫌よ……」
強く、布を押さえつける。
震える手で。
離さないように。
失わないように。
「……お願い、だから……」
その声は、祈りにも、懇願にも似ていた。
「……なあ、ネメシア」
かすれた声。
弱くなっていくその響きに、胸が締め付けられる。
血を抑えている私の手の上に――
そっと、重ねるようにセシルの手が置かれた。
「……俺とネメシアの子供って、どんな子なんだろうな」
「セシル、あんまり喋らない方が……」
必死に言葉を返す。
けれどセシルは、わずかに笑った。
「きっと……俺たちに似て、頭が良くて……どこか頑固で」
途切れ途切れに、言葉を紡ぐ。
「……それで」
少しだけ息を吸って、
「ネメシアに似て、美人……かな」
「……っ」
思わず、言葉に詰まる。
「……いえ」
震える声で、なんとか返す。
「セシルに似て……かっこいいかもしれないわ」
「はは……俺って、かっこいいのか」
嬉しそうな声。
けれど、明らかに弱い。
「……ネメシア」
その手が、ゆっくりと持ち上がり。
私の頬に触れた。
温かくて――
少しだけ、震えている。
「俺は……これからも、ずっと……」
息が、浅い。
「ネメシアの傍に、いてもいいか……?」
その言葉に――
涙が溢れた。
「当たり前、じゃない……!」
声が震える。
それでも、はっきりと告げる。
「……私の隣は、セシルだけよ」
その言葉を聞いて。
セシルは、安心したように目を細めた。
「ネメシア……
……あいしてる」
かすかな声。
それが、最後の力だったかのように――
ふっと、頬から手が離れる。
「……っ」
咄嗟に、その手を掴む。
「――セシル!」
強く、強く握る。
けれど、
返ってくる力は――もうなかった。
「セシル……!」
呼ぶ。
何度も。
何度も。
けれど――
目は、開かない。
呼吸も、どんどん弱くなっていく。
「……っ、いや……」
視界が滲む。
赤く染まっていく彼の姿が、はっきりと見えない。
「……おねがい……」
声が、震える。
「置いていかないで……」
必死に、縋るように。
その手を、さらに強く握りしめる。
「……セシル……」
名前を呼ぶたびに、
何かが、壊れていく気がした。
夕方頃にもう一話投稿予定です。




