100.あの時の約束。
「お姉様……! その指!」
弾けるような声が部屋に響いた。
後日――
ルミナはユリウス殿下と共に、別邸を訪れていた。
今はテーブルを挟み、ソファに腰掛けて談笑していたのだけれど。
ふと、ルミナの視線が私の左手に止まる。
「……し、式は!? 式はいつ!!」
身を乗り出す勢い。
あまりの食いつきに、思わず瞬きをする。
「お姉様のウェディングドレス姿……!」
完全に想像が先走っているらしい。
頬を染め、きらきらと目を輝かせている。
その隣で、ユリウス殿下が困ったように苦笑した。
「ルミナ、少し落ち着きなさい」
「だって……!」
なおも食い下がろうとする彼女を見て、私は小さく息をつく。
そして――
「……ルミナ」
穏やかに、名前を呼んだ。
その一言で、ぴたりと動きが止まる。
「喜んでくれるのは嬉しいけれど」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「式は、挙げないわ」
「――え」
一瞬、時間が止まったかのように。
ルミナの表情が固まる。
「そ、そんな……」
力が抜けたように、肩が落ちた。
分かりやすいほどに、しゅんとする。
「お姉様の晴れ姿を……この目で……」
ぶつぶつと、名残惜しそうに呟いている。
その様子に、少しだけ胸がくすぐったくなった。
「仕方ねぇだろ。こんな状況だ」
ぽつりと、付け足すように隣に座るセシル様が、肩をすくめて言った。
「こんな状況って……」
ルミナが、じとりとした目を向ける。
「自分で作った状況じゃない」
ぼそっと、容赦のない一言。
「おい」
セシル様の眉が、ぴくりと動く。
わずかに不機嫌そうな気配。
「まぁまぁ」
間に入るように、穏やかな声が落ちた。
ユリウス殿下が、苦笑を浮かべながら二人を見る。
「せっかくの再会なんだ。火花を散らすのは、もう少し後にしようか」
軽く手を上げて、宥める仕草。
その言い方が絶妙で、空気が少しだけ緩んだ。
「……まさか、セシルがここまで考えていたとは思わなかったよ」
ふと、ユリウス殿下がそう言う。
どこか感心したような、少しだけ含みのある声。
「お前、ちょっとバカにしてるだろ」
すぐさま、セシル様が睨む。
「はは。まさか」
笑って否定するものの。
ほんのわずかに、視線が泳いだ。
「……」
――ああ。
私は内心で、静かに納得する。
やっぱり、少しは思っていましたのね。
口には出さないけれど。
その事実だけは、しっかりと受け取っておいた。
隣で、セシル様が小さく舌打ちする。
「顔に出てるぞ」
「おや、そうかい?」
全く悪びれる様子のないユリウス殿下。
そのやり取りに、ルミナがくすりと笑った。
張り詰めていた空気が、ようやくほどけていく。
私はその様子を見ながら、そっと紅茶に口をつけた。
――賑やかで。
けれど、どこか心地よい時間だった。
「では、すぐに式を挙げないのであれば――フォトウェディング、というのはどうかしら?」
何かを思いついたように、ルミナがぱっと顔を上げた。
「フォト……ウェディング?」
聞き慣れない言葉に、思わず聞き返す。
「ええ。写真……はないけれど、代わりに肖像画を描いてもらうの」
胸の前で手を合わせ、うっとりとした様子で続ける。
「お二人の今を、形に残すの。とっても素敵だと思わない?」
一人で納得したように、こくこくと頷いている。
「……なるほどな」
セシル様が顎に手を当て、少し考えるように呟いた。
その横顔を見ながら、私は小さく息をつく。
「私は……そこまでしていただかなくても」
控えめに口にする。
本来なら、私は――ここにいなかったかもしれない。
それなのに、今こうして隣にいて。
結ばれて。
それだけで、十分すぎるほどだと思っているのに。
「いーや」
即座に、言葉を遮られた。
「俺が見たい」
まっすぐな声。
逃げ場のない、率直さ。
「私も見たいわ!」
ルミナも、身を乗り出すようにして続ける。
「絶対に素敵なものになるもの!」
「……」
思わず言葉を失う。
二人とも、全く引く気がない。
「……口の堅い画家を手配しておくよ」
穏やかに、ユリウス殿下が言った。
その声音は、すでに決定事項であるかのようで。
「ユリウス殿下まで……」
小さく呟くと、
「安心してくれ。外には一切出さない」
軽く微笑まれる。
逃げ道は、もうどこにもなかった。
「……本当に、強引ですわね」
観念したように、息を吐く。
けれどどこか、嫌ではない自分がいる。
「いいだろ?」
隣から、楽しげな声。
ちらりと視線を向けると、セシル様がこちらを見ていた。
少しだけ期待を含んだ、子供のような表情。
「……わかりましたわ」
根負けするように、そう告げる。
その瞬間。
「やった!」
ルミナが、ぱっと顔を輝かせた。
「決まりだな」
セシル様も、満足げに笑う。
その様子を見て、私は小さく息をついた。
――まったく。
本当に、困った方たち。
そう思いながら、そっと自分の指先に視線を落とす。
空色の石が、柔らかく光を返した。
それを見ていると――
ほんの少しだけ。
楽しみだと、思ってしまった。
―――――――――
ルミナとユリウス殿下が王宮へ戻っていく。
扉が閉まったあと――
部屋の中に、ふっと静けさが落ちた。
つい先ほどまでの賑やかさが嘘のように、穏やかな空気だけが残る。
「……」
セシル様は、何かを考えるように視線を落としていた。
その横顔を見つめながら、私はそっと身を乗り出す。
「どうかしましたか?」
顔を覗き込むように問いかけると、
「……いや」
少し間を置いて、彼は小さく笑った。
「ちょっとだけ、羨ましいなと思ってな」
「羨ましい……?」
思わず聞き返す。
彼がそんな言葉を口にするなんて、珍しい。
「あいつらの関係性」
視線が、先ほどまで二人が座っていた向かいのソファへと向く。
「……関係性ですか」
私も、同じ場所へ目を向ける。
確かに――
最初に見た頃よりも、ずっと自然で。
言葉の端々に、遠慮がない。
どこか、肩の力が抜けた関係。
「微笑ましいとは、思いますわね」
小さくそう返すと、
「だろ?」
セシル様は、小さく笑った。
そして、ふいにこちらへ視線を戻す。
「そういえば」
何かを思い出したように、声の調子が変わる。
「まだ有効だよな?」
「……何のことでしょう」
首を傾げる。
思い当たるものが、すぐには浮かばない。
「卒業式の時」
一拍。
「ネメシアの願いを聞いたら、俺の言うことを一つ聞くって話」
「……あ」
思わず、声が漏れる。
――完全に、忘れていた。
そのまま黙り込む。
「……おい」
呆れたような声が落ちてきた。
「今、完全に忘れてただろ」
「……いえ、そんなことは」
視線を逸らす。
完全に図星だった。
そのまま黙っていると、セシル様は小さくため息をついた。
けれど――
その目は、どこか楽しげだった。
「まぁいい」
軽く肩をすくめる。
「せっかく残してた切り札だ」
ゆっくりと立ち上がりながら、こちらへ一歩近づいた。
「ここで使わせてもらう」
「……っ」
自然と、息が詰まる。
距離が、近い。
「俺の願いは――名前で呼べ」
静かに、けれどはっきりと告げられる。
「それと」
わずかに間を置いて。
「敬語もいらねえ」
「……っ!?」
さすがに、目を見開いた。
「む、無理ですわ」
反射的に否定する。
すると――
「……約束、破るのか?」
低く落ちた声。
ほんの少しだけ、寂しさを含んでいる。
「……」
言葉に詰まる。
「……ネメシア」
名前を呼ばれる。
優しく、けれど確実に追い詰める声音。
「あの時も、呼んでくれただろ」
「……っ」
思い出す。
あの瞬間、セシル様が倒れて思わず、叫んでしまった。
『セシル!』
「か、勘違いですわ!」
慌てて否定する。
けれど。
「敬語」
ぴしゃりと、遮られる。
「……」
完全に、逃げ道を塞がれた。
喉が、ひどく乾く。
ただ名前を呼ぶだけ。
それだけのはずなのに――
どうして、こんなにも難しいのか。
視線を上げると、彼がこちらを見ている。
どこか楽しげで。
それでいて――真剣な目。
「……セ、シ……」
声が、かすかに震える。
一度、ぎゅっと目を閉じる。
そして――
「……セシル」
小さく、零れるように。
けれど、確かに。
その名を、呼んだ。
その瞬間、空気が変わる。
静けさが、少しだけ色を帯びる。
おそるおそる視線を上げると――
セシルは、こちらを見ていた。
満足そうに。
それでいて、どこか――大切なものを確かめるように。
「……いいな」
ぽつりと、零れる声。
その響きは、今までよりもずっと柔らかくて。
胸の奥が、静かに熱を帯びた。
あと六話ぐらいで完結します。




