99.幸せの始まり。
あれから、いくつかの日が経った。
セシル様の告発により、貴族派には正式な処分が下された。
重鎮たちは処刑。
それ以外の者も、多くが終身の牢へと送られている。
一方で――
私の件も、少しずつ動き始めている。
無罪の方向へと、確実に。
セレフィーナが毒を購入した痕跡が見つかったらしい。
それが公になれば、すべてが覆る。
けれど、当の本人は――すでに姿を消していた。
この事実が表に出る前に、逃げたのだと聞く。
辺境のどこかに身を潜めているのか。
それとも、すでに隣国へ――。
もし後者であれば、追うのは容易ではない。
私は窓の外に視線を向ける。
どこか、胸の奥に引っかかるものがあった。
『別に、あいつ一人じゃ何もできねぇだろ』
そう言ったのは、セシル様だった。
あまり気にした様子もなく、軽く言い放つ。
『まぁ――』
その声音が、わずかに低くなる。
『ネメシアをここまで追い込んだことは、許す気はねぇけどな』
淡々とした口調のまま。
けれど、その奥にある感情は、はっきりと分かった。
――怒っている。
私は、そっと目を伏せる。
その怒りが、自分のために向けられているのだと気づいてしまったから。
それと、私はまだこの辺境の地で暮らしていた。
戻る理由はいくらでもあったはずなのに、不思議とここを離れる気にはなれなかった。
静かで、穏やかで。
余計なものが、何もない。
気づけば、この暮らしが心地よくなっていたのだ。
『お姉様が気に入ったのなら、私はとても嬉しいわ』
そう言って、ルミナは柔らかく微笑んだ。
『もともと、お姉様のために建ててもらった家だもの。好きに使ってね』
またしても、私は彼女に助けられている。
ここ最近の出来事を思い返して、自然と口元が緩んだ。
セシル様は今日は王宮に戻っている。
用があると言っていた。
ルミナもまた、同じく王宮へ。
すべての処理が終わり次第、正式な式が行われるらしく、その準備で忙しいようだった。
だから今、この家には――私一人。
「なんだか、久しぶりの休息ね……」
ぽつりと呟く。
張り詰めていたものが、ようやくほどけていく。
肩の力が抜けるのが分かる。
私は、ゆっくりと窓の外へ視線を向けた。
――本当に、これで終わったのだろうか。
「――いえ」
小さく首を振る。
あまり、考えすぎるのも良くないわね。
気分を切り替えるように息をつき、紅茶でも淹れようと立ち上がった――その瞬間。
扉が、軽く開いた。
「……セシル様」
現れたのは、見慣れたはずの姿。
けれど、どこか――いつもよりも少しだけ、空気が軽い。
肩の力が抜けたような、そんな雰囲気を纏っていた。
「よう」
短い挨拶とともに、こちらを見る。
その視線は柔らかいのに、どこか探るようでもあった。
「少し、散歩しないか?」
何気ない一言。
けれど――ただの誘いではないことくらい、分かる。
何か、話があるのだろう。
「……ええ、いいですわ」
小さく頷くと、彼は満足げに口元を緩めた。
「決まりだな」
そう言って、自然な仕草で踵を返す。
私はその背を追うように、一歩踏み出した。
扉の外へ出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
並んで歩きながら、しばらくは互いに口を開かなかった。
足音だけが、静かに土を踏む。
やがて――
「……叱られた」
ふいに、セシル様が口を開く。
「……それは」
「反省しろってよ」
肩をすくめるように、軽く言った。
今回の騒動――貴族派の一件。
当然といえば、当然の言葉だ。
「それと、俺は王位継承権を降りるって言ってきた」
「なっ――」
思わず息を呑む。
何を言っているのですか、と。
その言葉が喉までせり上がる。
けれど――
隣に立つ彼の横顔を見て、飲み込んだ。
あまりにも穏やかで。
まるで、それが当然であるかのように微笑んでいたから。
「そもそも俺は、皇帝になる気はねぇ。だからこそ、今回の騒ぎを起こした」
淡々とした声。
揺らぎは、ない。
「ま、貴族派が推してた王子なんて、民から好かれるわけもねぇしな」
自嘲するように、小さく笑う。
軽く聞こえるその言葉の奥に、どれだけのものを抱えているのか――
考えないわけにはいかなかった。
「……本当に、よろしかったのですか?」
静かに問う。
その選択が、どれほどの意味を持つのか。
彼自身が、一番よく分かっているはずなのに。
先ほどと同じように、穏やかなまま。
けれど――ほんのわずかに、目を細める。
風が、やわらかく吹き抜ける。
沈黙が落ちる。
けれど、不思議と息苦しさはなかった。
やがて、見覚えのある場所に辿り着く。
――以前も訪れた、あの湖。
水面は静かに揺れ、風が柔らかく通り抜けていく。
セシル様は足を止めた。
そして、ゆっくりとこちらへ身体を向ける。
「俺の好きな女はさ」
不意に、そんな言葉を落とした。
「身分を、やたら気にするんだよな」
……それは。
言われるまでもなく、誰のことか分かる。
「皇帝になっちまったら、余計に距離を置かれる」
どこか困ったように、けれど少しだけ楽しげに笑う。
次の瞬間――
彼の手が、そっと私の頬に触れた。
驚く間もなく、体温が伝わる。
胸の奥が、きゅっと締めつけられるように鳴った。
「自分のことは後回しで、妹のことばっかりで」
指先が、わずかに触れてるだけなのに。
どうしてこんなにも、意識してしまうのか。
「それに、頑固で」
「……少し、失礼では?」
わずかに眉を寄せると、
「はは」
彼は小さく笑った。
「でも、そういうとこが――放っておけねぇんだよ」
不意に、声が落ちる。
先ほどまでの軽さが、少しだけ消える。
その一言に、心臓が大きく脈打った。
「ネメシア」
名前を呼ばれる。
それだけで、逃げ場がなくなる。
頬に触れていた手が離れ――
代わりに、指先が私の手を取った。
包み込むような、あたたかさ。
そして――
彼は、流れるように片膝をつく。
「……っ」
息が止まる。
視線が、自然と合う。
逃げられない距離で。
まっすぐに。
「俺に――」
一拍。
「君を守る権利をくれ」
静かに、けれど確かに告げられる。
その瞬間。
指先に、冷たい感触が触れた。
気づけば――
薬指に、小さな光が嵌められている。
湖面の揺らめきを受けて、淡く輝いた。
ふと、視線を落とす。
透き通るような――空の色。
どこまでも澄んだ、青。
「……」
思わず、息を止める。
その色は、見慣れているはずなのに。
今は、まるで違って見えた。
彼の――色だ。
空のように、自由で。
どこか掴みどころがなくて。
けれど、確かにそこにあるもの。
――守る権利。
その言葉が、胸の奥で何度も反響する。
守られることを、選んでもいいのか。
誰かに、寄りかかってもいいのか。
ずっと――
一人で背負うことが、当たり前だった。
ルミナを守るために。
すべてを切り捨てる覚悟で、ここまで来た。
だからこそ。
一歩を踏み出すのが、こんなにも怖い。
「……ネメシア」
不安を見透かすように、彼が名前を呼ぶ。
急かさない声。
ただ、待っている。
その在り方が――
どうしようもなく、ずるい。
「……本当に」
ゆっくりと、息を吐く。
顔を上げると、まっすぐに視線がぶつかった。
「後悔、なさいませんの?」
試すような言葉。
けれど、逃げ道を探しているのは――きっと私の方だ。
「しねぇよ」
即答だった。
迷いの欠片もない。
「むしろ、今しなかったら一生後悔する」
その言葉に、思わず息を呑む。
――ああ。ずるい。
こんなふうに言われて、拒めるはずがない。
「……本当に、困った方ですね」
小さく、笑みが零れた。
諦めにも似ているのに――どこか温かい。
私は、そっと指先に触れる。
空色の石が、光を受けて揺れた。
まるで――
彼が、ここにいるかのように。
「……その権利」
わずかに視線を逸らしてから、
もう一度、彼を見る。
「差し上げますわ」
静かに、けれどはっきりと告げる。
風が、二人の間を通り抜けた。
その瞬間――
彼の表情が、わずかに崩れる。
驚きと、安堵と。
そして、少しだけの喜び。
「……言質、取ったからな」
どこか照れ隠しのように、そう言って笑う。
「今さら撤回は許しませんわよ」
「するもんか」
短いやり取り。
けれど――
それだけで、十分だった。
繋がれた手は、そのまま離れない。
湖の水面は、変わらず穏やかで。
世界は何も変わっていないはずなのに――
ほんの少しだけ。
違って見えた。




