97.再会
湖の水面が、静かに揺れていた。
辺境地の朝は冷たい。
吐いた息が、静かな空気に溶けていく。
私は湖のほとりに立ち、ぼんやりと水面を見つめていた。
頭の中は、ずっと同じことを考えている。
……セシル様は、まだ目を覚まさない。
胸の奥が、重く沈んだ。
あのグラスを渡したのは――間違いなく私だ。
どんな理由があろうと、その事実は変わらない。
だからこそ、考える。
どうすれば覆せるのか。
どうすれば、あの毒が私の意思ではないと証明できるのか。
何度も考えた。
けれど、答えはまだ見つからない。
私は小さく息を吐いた。
水面に、わずかな波紋が広がる。
……もし、このままセシル様が目を覚まさなかったら。
その考えを、慌てて振り払う。
そんなこと、考えるべきではない。
あの人が負けるはずがない。
それでも、胸の奥の不安は消えてくれなかった。
……別邸に戻ろう。
ルミナもいることだし。
私は来た道を戻ろうとした、その瞬間。
「――ネメシア!」
背後から低い声。
ずっと、ずっと聞きたかった声。
振り返った瞬間、視界が揺れた。
「……良かった。無事で」
次の瞬間、強く、強く抱きしめられる。
「……セシル、さま……」
声が震える。
その名前を呼んだ瞬間、堪えていたものが溢れた。
……涙だった。
気づかないうちに、私の目から零れていた。
セシル様は少しだけ身体を離すと、私の顔を見つめた。
そして、そっと指で涙を拭う。
「……遅くなって、すまねぇ」
低い声。
その言葉を聞いた瞬間、また涙が溢れそうになる。
するとセシル様は、少し困ったように眉を寄せた。
「……泣くな」
そう言いながら、親指で涙を拭う。
その指が、頬に残った。
「……セシル様……」
名前を呼ぶと、セシル様は少しだけ目を細めた。
次の瞬間、視界が近づいた。
――唇に、温かいものが触れた。
そして、唇が離れる。
私は息を整えながら、言葉を絞り出した。
「……私が、毒を……」
そこまで言った瞬間。
セシル様の手が、頬を包む。
「言うな」
低い声。
セシル様は、真っ直ぐに私を見つめていた。
責める色は、どこにもない。
ただ優しく、少しだけ困ったような瞳。
「……ネメシアが、悪いわけないだろう」
小さく息を吐く。
次の瞬間、もう一度唇が重なった。
今度は、さっきよりもゆっくりと。
まるで確かめるように。
やがて、唇が離れる。
近い距離のまま、私はぼんやりとセシル様を見つめた。
……あれ?
私は瞬きをする。
そして、もう一度セシル様を見る。
「……セシル様」
「なんだ」
「髪の色が」
「髪?」
私は彼の髪に触れる。
「……金色になってますわ」
一瞬の沈黙。
セシル様は自分の前髪を掴んで、ちらりと視線を落とした。
「……なんだこれ?」
間の抜けた声。
「やっぱりまだ調子が?」
セシル様は前髪を指でつまみながら、怪訝そうに眉を寄せた。
「いや……そんな感じはしねぇけど」
私は彼の髪に触れたまま、小さく首を傾げる。
「……セシル様」
指先に絡む髪は、間違いなく金色。
王家特有の、綺麗な色。
胸の奥がざわりとする。
「もしかして……毒の影響では」
言葉にした瞬間、鼓動が速くなる。
「七日も眠っていたと聞きましたわ。もし身体に何か残って――」
そこまで言いかけて、私は口を閉じた。
もし……あの毒が原因で。
セシル様の身体に何か起きているのだとしたら。
私の手が、わずかに震える。
その様子を見ていたセシル様は、ふっと小さく笑った。
「そんな顔すんな」
そう言って、私の頭にぽんと手を置いた。
彼は、少しだけ肩をすくめる。
「別に、体調は悪くねぇよ」
むしろ、と続ける。
「なんなら、いつもより身体が軽いくらいだ」
そう言って、軽く腕を回してみせる。
「ほら。どこもおかしくねぇ」
そのまま、少し余裕そうにこちらを見下ろしてくる。
「だからそんな顔すんなって」
確かに、顔色はいつもと変わらない。
……いや。
よく見れば、普段よりも血色がいいようにも見える。
七日も眠っていたとは思えないほど、しっかりと立っている。
それにしても、髪色が変わるなど聞いたことがない。
不思議に思いながら、私はもう一度セシル様を見上げた。
その時だった。
ふいに、身体が宙に浮く。
「……へ?」
間の抜けた声が漏れる。
気づけば、視界の高さが変わっていた。
セシル様の腕の中。
「……セシル様?」
戸惑いながら名前を呼ぶと、当の本人は平然とした顔で前を向いたままだった。
「そんなことより」
ぽつりと呟く。
「腹が減った」
そのまま歩き出す。
私はまだ抱えられたまま、慌てて声を上げた。
「ま、待ってくださいませ。なぜ私まで――」
するとセシル様はちらりとこちらを見て、少しだけ口元を緩めた。
「どうせ、ろくに食べてないんだろ」
……言い返す言葉が出てこない。
その時だった。
ぐう、と小さな音が鳴る。
一瞬、思考が止まった。
「……」
慌ててお腹を押さえる。
どうやら安心した途端、身体が正直に反応してしまったらしい。
顔が少し熱くなる。
恐る恐る視線を上げると、セシル様が静かに笑っていた。
「……やっぱりな」
呆れたような、それでいてどこか楽しそうな声。
「食いながら、今後のことも考えようぜ」
そう言うと、セシル様はそのまま私を抱えたまま歩き出した。
私は結局――
セシル様に抱き抱えられたまま、別邸へと向かうことになった。
別邸はそこまで大きくない。
なんなら、小さな小屋のような見た目だ。
セシル様が扉を開けようとした、その時――
「――お姉様! セシル殿下が……」
中からルミナが飛び出してきた。
そして私たちの姿を見た瞬間、ぴたりと動きを止める。
「……まあ!」
口元を手で覆う。
その瞳が、ぱっと輝いた。
心なしか、ルミナの周りに花が舞っているように見える。
「……無事に会えたようでよかったですわ」
すぐに、いつもの調子に戻る。
「セシル殿下ってば、いきなり扉を開けて“ネメシア!”って現れたのよ。
近くの湖にいます、って伝えたら颯爽と出て行って……まるで嵐みたいだったわ」
ルミナは楽しそうにそう言いながら、私たちを中へと促す。
セシル様に抱き抱えられたまま中へ入り、テーブルの近くでそっと降ろされた。
「……うるせぇ」
セシル様がぼそりと呟く。
その声は、どこか少し照れているようにも聞こえた。
「ところで」
ルミナがふと首を傾げる。
「どうしてセシル殿下の髪色が変わっているの?」
私たちはテーブルを囲むように腰を下ろした。
……やっぱり、気になるわよね。
「それが、私たちにもわからないの」
私は小さく息をついた。
「急に変わってしまったから……」
そう答えると、ルミナは少し考えるように顎へ指を添える。
「……知らない設定ね」
ぽつりと、小さく呟く。
「……設定?」
セシル様が眉をひそめてルミナを見る。
低い声で問いかけられたルミナは、はっとしたように顔を上げた。
「い、いえ!」
ぶんぶんと首を振る。
「何でもないです!」
少し慌てた様子でそう言うと、ルミナはぱっと話題を変えるように立ち上がった。
「それより、お食事をご用意しますわ!」
そう告げると、ルミナはぱたぱたと奥の方へ去っていった。
部屋の中が、少しだけ静かになる。
「……まぁ、この髪色のことはどうでもいい」
セシル様は自分の髪を指で軽く弄りながら、そう言った。
そして、ゆっくりとこちらを見る。
先ほどまでの軽い空気とは違う。
真剣な瞳だった。
「それより」
低い声。
「今の状況、どうなってる」
私は小さく息を吸う。
「簡単にお話しします」
私は静かに言った。
「貴族派の方々は、セシル様がまだ目を覚まさないことをいいことに……好き勝手に動いています」
不正。圧力。裏取引。
王都では、また不穏な動きが増えている。
「ですが、セレフィーナ様は……特に何も」
そこは、まだ動きが見えない。
そして――
私は一瞬だけ言葉を止めた。
けれど、すぐに続ける。
「それから、私は……」
視線を落とす。
「王族への毒殺未遂。そして脱獄」
静かな声で告げた。
「その二つの罪で、現在捜索されています」
ここまで恋愛要素取り入れるつもり無かったです。
書き起こしが全然できてないので、次回更新は18日の予定です!




