第40話 魔獣
王都へ戻るまで、誰もあまり喋らなかった。
正確に言えば、必要な言葉は交わした。周囲の確認。被害者の遺体の扱い。水場に残っていた黒い染みの封じ方。森の外に出るまでの隊列。そういう言葉はあった。
だが、いつものような軽口はほとんどなかった。
シャドウは何度か何かを言いかけ、そのたびに口を閉じた。シンゴは不機嫌そうな顔で歩いていたが、それが怒りなのか、苛立ちなのか、恐怖をごまかしているのかは分からない。ヒナはサチコの少し近くを歩き、時々その顔色を確かめていた。サチコはずっと青い顔のまま、両手で杖を握っている。
ガルドはいつも通りだった。
リリアは黙って考え込んでいる。爺は言葉を発しない。ミアは表面上、変わらない。ただ、俺が一度だけ視線を向けると、すぐに目を逸らされた。
ラッキィだけは、森を抜けたところで小さく息を吐いた。
「レイさん、生きて帰れました」
「そうだな」
「よかったです」
「お前はもう少し、逃げる時に足元を見る癖をつけろ」
「はい。次から気をつけます」
次があってたまるか、と思った。
だが、その言葉は口にしなかった。
たぶん、ある。
あのケルベロスが何だったのかは分からない。けれど、あれ一度で終わるとは思えなかった。根拠はない。ただ、あれはそういうものだった。一匹の異常な魔物を倒したというより、どこかに空いた穴から、最初の何かが顔を出したような感覚が残っていた。
王都に戻ると、俺たちはそのまま城へ向かった。
報告は早い方がいい。森で何が起きたのか、王がどう判断するのか。それによって、南の大森林へ出す通達も変わる。薬草の採取も止めなければならないだろうし、近くの村や街道にも注意を出す必要がある。
そういうことを考えている自分が、少し嫌だった。
人が死んでいる。俺たちは、人間だったものを森から運び出したばかりだ。だが、勇者として報告をする以上、死者のことだけを考えているわけにはいかない。
次に誰を入れないか。
次にどこを封鎖するか。
次に何をどう呼ぶか。
そういう話をしなければならない。
城で通されたのは、前と同じ部屋だった。
大げさな謁見の間ではなく、地図と報告書が広げられた実務用の部屋。王と側近が数人。机の上には南の大森林の地図が置かれている。俺たちが戻る前に、追加の資料も集められていたらしい。
王は俺たちを見ると、軽く片手を上げた。
「戻ったね」
いつもの口調だった。
だが、その顔は笑っていなかった。
「まず、生きて帰ってきてくれて助かった。状況を聞こう」
俺は森で見たものを報告した。
水場。人間だったもの。三つの首を持つ巨大な犬。黒い霧のようなもの。喉の奥に揺れていた黒い火。火とも魔法ともつかない攻撃。リリアの魔法の通りが悪かったこと。シャドウの黒い穴がその炎を吸い込んだこと。最後に、ヒナの光が足元から魔法陣を描き、光の柱となってケルベロスを消したこと。
話していて、自分でも妙な気分になった。
報告書に書くには、あまりに現実味がない。三つ首の犬。黒い炎。足元から立ち上がる光の柱。どれも、勇者学校で習った魔物の知識とはかけ離れていた。
それでも、それは起きた。
王は途中で口を挟まなかった。
時々、側近が何かを書き留める音だけが部屋に残る。俺の報告が終わると、王はしばらく黙っていた。
「死骸は残らなかったんだね」
「はい。光に呑まれて、消えました。血や肉が焼けたというより、形そのものが薄れていったように見えました」
「形そのもの、か」
王はその言葉を繰り返す。
「普通の魔物ではない。そう見ていいんだね」
「少なくとも、俺の知っている魔物とは違います」
俺は答えた。
「魔物は火を吐きません。魔法も使いません。毒や爪や牙なら分かります。大型化や群れもある。ですが、あれは違いました」
「リリア君」
王が視線を向ける。
リリアは少しだけ姿勢を正した。
「魔法使いとしてはどう見た?」
「変でした」
リリアは短く言った。
「あたしの魔法が効かないわけじゃないんです。でも、噛み合いが悪い。普通なら通るはずのところで滑る感じがありました。この世界の魔物を相手にしてる感じじゃなかったです」
「この世界の魔物ではない?」
「言い切るのは怖いですけど。外から別の形を押し込まれて、それが獣の姿をしてるみたいでした」
王は、少しだけ目を細めた。
その表情を見て、俺は嫌な予感がした。
王は驚いていないわけではない。だが、ただ驚くだけの人間ではない。理解できないものを前にしても、まずそれをどこへ置くかを考える。国の中で、制度の中で、報告書の中で、どんな名前をつけて扱うかを考える。
それはたぶん、王として正しい。
そして、正しいからこそ怖い。
「三つ首の犬」
王は机の上の報告書へ視線を落とした。
「黒い火。魔法めいた攻撃。死骸は残らない。既存の魔物とは違う。さらに、その名前に聞き覚えがある」
そこまで言って、王は転移者たちを見た。
「君たちの世界では、ケルベロスという怪物がいるんだったね」
シャドウの肩がわずかに揺れた。
「いるっていうか……物語とか、そういうのに出てくる有名なやつっす」
「現実にいたわけではない?」
「少なくとも、俺たちの世界ではいないっす。三つ首の犬なんて」
「なるほど」
王は頷いた。
「では、君たちの世界では、そういう存在を何と呼ぶ?」
シャドウは少し迷った。
「モンスター……っすかね」
「もんすたあ」
王がその音を、口の中で一度転がすように言った。
「悪くはないが、覚えにくいな」
「怪物、とかでもいいんじゃねえの」
シンゴが言う。
「ただ、それだと普通に化け物って意味になるし……この世界の魔物と区別するなら」
ヒナが少し考えた。
「魔獣、でしょうか」
「魔獣」
王が繰り返す。
「魔物ではなく、魔法めいた力を持つ獣。なるほど。呼び分けにはちょうどいい」
「私たちの世界でも、似たような言葉はあります。ただ、厳密な分類というより、物語の中の言葉です」
「物語の中の言葉が、現実の報告書に載るわけか」
王は薄く笑った。
その笑みは、少しも楽しそうではなかった。
「いい。ひとまず、今回のような存在は魔獣と呼ぶ。既存の魔物とは別扱いにする」
側近の一人がすぐに書き留める。
魔獣。
その言葉が紙に載った瞬間、俺は妙な気持ちになった。
ただの呼び名だ。新しい分類が必要になっただけだ。役所や勇者ギルドが何かを扱う時、名前がなければ話が進まない。そんなことは分かっている。
だが、名前がついたことで、あれがこの世界の中に場所を得てしまったようにも思えた。
魔獣。
魔物ではないもの。
この世界に、本来なかったはずのもの。
「南の大森林は一時封鎖する。薬草採取の依頼はすべて停止。すでに入っている者がいないか確認させる。近隣の村と街道にも警戒を出す」
王の指示に、側近たちが頷く。
「勇者ギルドにも通達だ。魔獣らしき存在を確認した場合、通常の魔物として扱わないこと。単独での追跡は禁止。報告を優先させる」
「討伐はどうしますか」
側近の一人が尋ねた。
「今のところ、討伐可能と確認できたのはレイ君たちだけだ」
王は俺を見る。
「ただし、君たちに全部押しつけるつもりはない。そうしたくなるくらい便利ではあるけどね」
「便利扱いしないでください」
「失礼。では、非常に扱いに困る有効戦力」
「悪化してます」
「事実だよ」
王は軽く肩をすくめた。
いつもの調子に少しだけ戻ったように見えたが、目は笑っていない。
「問題は、これが一度きりかどうかだ」
その言葉で、部屋の空気がまた重くなった。
俺も同じことを考えていた。
ケルベロスが偶然一匹だけ現れた。それで終わり。そう考えられたら、どれほど楽だろう。だが、あの水場で感じたものは、そういう終わり方をする気配ではなかった。
「君たちが願いに類する力を持っていることは、こちらも聞いている」
王は転移者たちへ視線を向けた。
シャドウが小さく息を呑む。
「だが、だからといって、今回の件をそのまま君たちの責任にするつもりはない。少なくとも今のところはね」
「……いいんすか」
シャドウの声は少し掠れていた。
「よくはないよ」
王はあっさり言った。
「ただ、責める話とは別だ。君たちは酒の席で怪物の名前を口にした。だが、まさかそこで『いでよ、ケルベロス』と儀式でもしたわけじゃないんだろう?」
「してないっす。そんなの、ただのネタじゃないっすか」
「だろうね」
王は頷いた。
「なら、今ここで君たちを罪人のように扱うのは違う。そもそも、異世界から転移してきた時点で、君たち自身もよく分からないことに巻き込まれている側だ。君たちが自分の力の仕組みをすべて理解しているとは、こちらも思っていない」
サチコが、少しだけ顔を上げた。
だが、すぐにまた視線を落とす。ヒナがその隣で、静かに唇を噛んでいた。
「ただし、危険ではある」
王の声が低くなる。
「願ったつもりのないものまで拾われる可能性がある。口にしただけの空想が、形を持つかもしれない。もしそれが本当なら、これはこれまでのような、森に魔物が出たというだけの話では済まない」
誰も反論しなかった。
できなかったのだと思う。
シンゴだけが、かろうじて声を出した。
「でも、そんなの本当にあるんすか。話しただけで出てくるとか、いくら何でも……」
「馬鹿げている」
王は言った。
「俺もそう思う」
シンゴが少しだけほっとしたような顔をする。
だが、王の言葉はそこで終わらなかった。
「だが、馬鹿げているから無視するには、今回は少し形が合いすぎている。三つ首の犬。ケルベロス。黒い火。君たちの世界の物語にある怪物。これだけ並ぶと、偶然の一言で片づけるには都合がよすぎる」
王は報告書の上に指を置いた。
「もちろん、断定はしない。今はまだ、君たちの会話と魔獣の出現に関係があるかもしれない、という段階だ。だが、王としては、その可能性を無視できない」
シャドウは黙っていた。
さっきまでの「偶然っすよ」という言葉は、もう出てこない。シンゴも同じだ。ヒナは考え込むように目を伏せ、サチコは両手を握り締めている。
「……じゃあ、俺たちは何も喋らない方がいいんすか」
シャドウが言った。
冗談めかそうとして、失敗した声だった。
「それで済むなら簡単だね」
王は静かに返す。
「だが、人間は何も考えずに生きることはできない。喋るな、想像するな、願うな。そう命じたところで、心の中まで縛れるわけじゃない」
「じゃあ、どうすれば」
「まずは記録する」
王は即答した。
「正しいかどうかを今すぐ決めるためじゃない。後で照合できる形にしておくためだ。しばらくの間、君たちが口にした異世界由来の怪物や道具、概念は記録する。冗談でもだ。どんな場で、誰が、何を言ったか。可能な範囲で残しておく」
「冗談もですか」
ヒナが確認する。
「君たちの場合、冗談で済む保証がない」
その一言に、ヒナは何も言えなくなった。
王は責めていない。
少なくとも、責める口調ではなかった。だが、その言葉は転移者たちの胸に重く落ちたように見えた。
「それと、願いの力そのものについても、今後は使い方を考える必要がある」
王は続ける。
「危険だから封じる、という考え方はある。だが、今回の魔獣に対して有効だったのも、君たち側の力だ。シャドウ君の黒い穴が黒い炎を抑え、ヒナ君の光が決定打になった」
ヒナが小さく肩を揺らす。
「俺たちだけの通常戦力では、あれに対処できるか分からない。リリア君の魔法でさえ、通りが悪かった。ガルド君の攻撃も効いてはいたが、決定打には遠かった」
「まあ、斬り心地は最悪だったな」
ガルドが言った。
斬り心地という言い方が適切なのかは分からない。だが、ガルドがそう言うなら、そうなのだろう。
「今後、同じような魔獣が出るなら、対策がいる」
王は指を机に置いたまま言った。
「光の魔法。魔獣に通る武器。黒い炎のようなものを封じる方法。そういったものを考えなければならない」
リリアが顔を上げる。
「ヒナちゃんの光を調べる、ってことですか」
「できるならね」
「簡単じゃないですよ。あれは、あたしの知ってる魔法とかなり違います」
「だから君に聞いている」
王はさらりと言った。
「魔法について、この場で君以上に分かる者はいない」
リリアは一瞬、目を瞬かせた。
それから少しだけ口元を緩める。
「そういう言い方されると、断りにくいですね」
「断ってもいいよ。非常に困るけど」
「それ、断っていいやつじゃないですよね」
「分かってくれて助かる」
王は軽く笑った。
その視線が、一瞬だけミアへ向いた。
「もちろん、治療体制も見直す必要がある。魔獣の攻撃が通常の傷と同じように扱えるか分からないからね」
ミアは無表情のまま、わずかに目を細めた。
「治療できるかどうかは、傷を見なければ分かりません」
「だろうね」
「それに、治療には対価が必要です」
「知っている」
王はあっさり頷いた。
「だからこそ、君一人に頼る形は避けたい。通常の治療で済む傷なのか、それとも別の処置が必要なのか。そこも含めて、見極める仕組みを作る」
ミアは何も言わなかった。
だが、少しだけ意外そうに見えたのは、俺の気のせいだろうか。
王は、ミアを便利な回復役として扱わなかった。少なくとも、今の言い方はそうではなかった。俺がさっき森で考えていたことと、どこか近いところを見ている気がした。
そのことが、少しだけ引っかかった。
だが、今はそこを考える場面ではない。
「詳しい話は改めて詰める。今日はまず、魔獣という仮の分類を作る。南の大森林を封鎖する。君たちの発言と魔獣の出現に関連があるかもしれないものとして記録を始める」
王はそこで一度、部屋にいる全員を見た。
「それだけでも十分に大きい」
誰も軽口を挟まなかった。
魔獣。
新しい言葉が生まれた。
それだけで、世界が少し変わった気がした。
「……私たちが話したことと、関係あるんでしょうか」
サチコが、小さく言った。
部屋にいた全員が、その声を聞いた。
「サチコ」
ヒナが、静かに呼んだ。
サチコは、ヒナの声にも顔を上げなかった。
「私たちが、あんな話をしたから」
誰もすぐには答えられなかった。
答えられるはずがない。
違うと言うのは簡単だ。だが、ケルベロスはいた。三つ首の犬は、現実に森の奥で人を食っていた。
「まだ、そう決まったわけではない」
王が言った。
その声は静かだった。
「だが、そうかもしれないと思ってしまうのも無理はない。だから、今後は調べる。記録する。対策を立てる。君たちを責めるためではなく、次に誰かを死なせないために」
サチコの肩が、小さく震えた。
ヒナがそっと手を伸ばす。触れるかどうか迷ったように見えたが、結局、サチコの袖を軽く握った。
王はそれ以上、サチコを問い詰めなかった。
代わりに、俺を見た。
「レイ君」
「はい」
「君には、しばらく彼らとの間に立ってもらうことになる」
「……俺ですか」
「君以外に誰がいる?」
さらっと言わないでほしい。
俺は勇者ではあるが、別にこういう異世界由来の問題に詳しいわけではない。むしろ、何も分かっていない側だ。祝福のことだって分からない。パーティーのことだって分からない。ミアのことも、リリアのことも、爺のことも、ラッキィのことも、分からないことだらけだ。
それなのに、また間に立てと言われる。
「俺は、そういうのに向いていないと思います」
「知っている」
「知っていて言いますか」
「向いている人間が必要なんじゃない。逃げずにそこにいる人間が必要なんだよ」
王は、軽い調子ではなかった。
「君は、自分が思っているほど器用ではない。強くもない。だが、面倒なものを面倒なまま見捨てない。それは今回、かなり重要だ」
やめてほしい。
そういう言い方をされると、断りづらい。
「……分かりました」
「助かるよ」
「助かると思っているなら、胃薬も支給してください」
「検討しよう」
「本当にしてください」
「では、優先度を上げておく」
王は少しだけ笑った。
その笑みがようやくいつものものに近づいた気がした。だが、部屋全体の空気は軽くならない。
報告が終わると、俺たちは城を出た。
外の空気は、城の中より少しだけ冷たかった。王都の空はいつも通りで、人々はいつも通りに歩いている。市場では声が上がり、馬車が通り、どこかで子どもが笑っていた。
その全部が、少し遠く見えた。
「……俺たち、余計なこと言ったんすかね」
シャドウがぽつりと言った。
誰もすぐには答えなかった。
シンゴは「偶然だろ」と言いかけたようだった。だが、言わなかった。ヒナはサチコの隣に立ったまま、唇を結んでいる。サチコは何も言わない。
俺も、答えを持っていなかった。
ケルベロスは消えた。
だが、消えたから終わりではない。
その名前は、もう報告書に載る。
魔獣。
魔物ではないもの。
この世界に入り込んできたものを呼ぶための、新しい言葉だった。




