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歪んだ因果の勇者譚 ~世界を救えと言われたが、勝手に選ばれた仲間が問題児だらけで、しかも一人でも追放すると俺が爆散する~  作者: たま8


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第39話 ケルベロス討伐

 シャドウが、その名を口にした瞬間、森の奥の空気が一段冷えた気がした。


 ケルベロス。


 聞き覚えのある名前だった。


 北の友好国で、大牙の討伐を終えた後の宴席。酒が入り、場が緩み、転移者たちが自分たちの世界にあった物語めいた怪物の名を並べていた。俺にはほとんど意味の分からない言葉ばかりだったが、その中でも、ケルベロスという名については覚えている。


 三つ首の犬。


 シャドウは、たしかそう言っていた。


 犬に首が三つあってどうする。そう言った。そんなものがいてたまるか、とも思った。あの時は、それで終わった。転移者たちの世界にある作り話として聞き流した。


 だが今、目の前にいる。


 三つの首を持つ巨大な獣が、血に濡れた口を上げ、こちらを見ていた。足元には、もう人の形をほとんど残していないものが転がっている。水場の土は黒く湿り、草の先に赤いものが飛び散っていた。


 喉の奥に、黒い火のようなものが揺れている。


 魔物は火を吐かない。


 少なくとも、この世界で俺が知っている魔物はそうだ。牙で噛む。爪で裂く。毒を持つ。群れる。大きくなる。そういう厄介さならいくらでもある。だが、人間の魔法使いのように魔力を練り、形にして放つ魔物など聞いたことがない。


 考えなければならないことは多かった。


 なぜ転移者たちの話していた怪物がここにいるのか。なぜこの世界の魔物が使わないはずの力を持っているのか。そもそも、これは魔物なのか。


 だが、三つの首が同時に低く唸った瞬間、その全部が後回しになった。


「散れ!」


 俺が叫ぶより早く、ガルドが前に出た。


 ケルベロスの右の首が跳ねる。黒い口が開き、炎のようなものが吐き出された。赤くない。橙でもない。炭の奥でまだ消えずに残っている熱のような、闇そのものが燃えているような火だった。


 ガルドが横へ跳ぶ。炎は水場の端を舐め、草の上を走った。だが、普通の火のようには燃え広がらない。触れた場所だけが黒く沈み、音もなく腐るように崩れていく。


「火じゃねえな」


 ガルドが低く言った。


「分かってるなら触るな!」


「触る前に言え」


「見れば分かるだろ!」


 叫びながら、俺は後ろへ下がるラッキィの襟をつかんだ。ラッキィはすでに腰が引けている。こういう時、役に立たないことに関しては信頼できる男だった。


「レイさん、あれは無理です」


「俺もそう思う。だから勝手に転ぶな」


「転ぶ前提ですか」


「前科が多すぎる」


 言っている間にも、ケルベロスの中央の首が咆哮した。腹の底を直接叩かれるような音だった。サチコが小さく肩を震わせる。ミアは少し後ろで、顔色一つ変えずに周囲を見ていた。動かない。今は動く場面ではないと分かっているのだろう。


 ミアの回復は、確かに頼れる。


 だが、頼れるからといって、何でもかんでも任せていいものではない。あいつが治療をすれば、必ず対価が発生する。


 それに、こないだの一件がある。


 恩師を前にして、あそこまで冷たい言葉を吐いたミアを見た。その夜、押し殺すような嗚咽も聞いた。あの言葉と、あの泣き声がどう繋がっているのかは分からない。だが、何もないとは思えなかった。


 俺はミアの事情を知らない。


 知らないまま、ただ便利な回復役として当てにしていいほど、あの夜の声は軽くなかった。


「大原さん、ミアさんの近くに。怪我人が出たら、まずあなたが見る」


 ヒナが短く言った。


「あ、はい」


 サチコは青ざめながらも頷いた。


 その声に、俺は少しだけ驚いた。


 ヒナは怯えていないわけではない。むしろ、顔は固い。だが、何をすべきかを見失ってはいなかった。北の国で大牙と戦い、その後も基礎訓練を重ねたせいか、転移者たちの動きには以前よりわずかに芯が通っている。


「赤木っち、前出すぎない方がいいっす」


「分かってるよ」


「分かってる顔じゃないっす」


「うるせえ。今回はちゃんと見る」


 シンゴが拳を握ったまま、ガルドの少し後ろへ入る。前に出たいのを抑えているのが分かった。以前なら勢いだけで突っ込んでいたかもしれない。だが今は違う。ガルドの位置を見て、首の動きと足の向きを見て、自分がどこへ入れば邪魔にならないかを測っている。


 基礎訓練は、無駄ではなかったらしい。


 ケルベロスが踏み込んだ。


 三つの首が別々に動く。右の首はガルドを狙い、左の首はシンゴへ向かい、中央の首は後衛を見ていた。獣の動きではある。だが獣にしては、いやにいやらしい。人間の戦い方を真似しているわけではないのに、こちらの嫌なところを突いてくる。


「リリア!」


「分かってる!」


 リリアが手を振る。


 詠唱はない。指先が軽く宙を撫でただけで、足元の土が盛り上がり、中央の首の進路を塞いだ。続けて、風が刃のように走る。三つ首のうち、左の首の目元へ向かった。


 ケルベロスが頭を振る。


 風の刃は当たった。たしかに当たったはずだ。だが、切れ込みは浅い。普通の魔物なら目を潰していてもおかしくない一撃が、黒い毛の表面で滑ったように見えた。


「……やっぱり変」


 リリアの声が低くなる。


「効いてないのか?」


「効いてはいる。でも、通りが悪い」


「通り?」


「あたしの魔法が弱いんじゃない。相手が変なの」


 リリアは笑わなかった。いつもの軽い調子もない。


「この世界の魔物に魔法を当ててる感じじゃないの。外から別の形を押し込まれて、それが無理やり獣の姿をしてるみたい。だから、この世界の理に沿った魔法だと、噛み合いが悪い」


「分かるように言え」


「今の説明で分からないなら、後にして!」


「だろうな!」


 俺が叫ぶのと同時に、爺が前へ出た。


 動きは遅い。だが、なぜか必要な場所にいた。鳥の顔のような面の奥で何を見ているのかは分からない。爺は杖の先を地面に落とすように置き、低く言った。


「黒焔遮断、獣脚縫地、三息遅滞」


 ケルベロスの足元に、細い光の糸のようなものが走った。獣の前脚が一瞬止まる。ほんの一瞬だ。だが、その一瞬でガルドが懐へ入った。


 拳ではない。大剣を横に振る。


 右の首の下へ刃が入った。肉を裂く音がした。普通なら首の半分くらいは持っていきそうな一撃だったが、ケルベロスは倒れない。黒い血のようなものが飛び、地面に落ちる前に煙のように薄れた。


「硬えな」


 ガルドが歯を見せる。


 笑っている。


 あの男は、本当にこういう時だけは頼りになる。怖いとか、気性が荒いとか、常識が通じないとか、そういうことを全部脇に置けば、これほど前に置きやすい人間もいない。


「ガルドさん、右、来ます!」


 ヒナが叫ぶ。


 黒い炎がまた吐かれた。ガルドが避ける。だが、今度は避けた先へ左の首が回り込んでいた。


「させるかよ!」


 シンゴが飛び込む。


 正面からではない。少し斜めに入り、ケルベロスの左前脚へ肩をぶつけた。体格差を考えれば無茶な動きだ。だが、ただ力任せにぶつかったのではない。足の置き方、重心の崩し方。ガルドに転がされ続けた時に叩き込まれたものが、ぎりぎり形になっている。


 ケルベロスの体がわずかに傾いた。


 ガルドはその隙を逃さない。右の首へ二撃目を入れる。今度は深い。首の根元から黒い煙が噴き出した。


「おい、シンゴ!」


「何だよ!」


「悪くねえ」


「それ褒めてんのか!?」


「褒めてる」


「分かりづれえ!」


 そのやり取りに、シャドウが一瞬だけ笑いそうになった。だが、すぐに顔を引き締める。中央の首がこちらを向いていたからだ。


 喉の奥に黒い火が集まっていく。


 今度は後衛を狙っている。


 俺はラッキィを引っ張り、横へ走ろうとした。だが、足場が悪い。水場の泥に靴を取られかける。ラッキィが情けない声を出した。


「レイさん、足が」


「分かってる!」


「抜けません」


「何で今なんだよ!」


 黒い炎が膨らむ。


 間に合わない。


 リリアが魔法を重ねようとしたが、間に合う距離ではなかった。爺の杖が動く。だが、先ほどの拘束で一瞬遅れている。


 ミアがこちらを見た。俺とラッキィの位置、炎の向き、距離。それらを見て、ほんのわずかに足を踏み出しかける。


 何をするつもりだったのかは分からない。だが、その顔は、いつものように冷たく対価を口にする時のものではなかった。


 その時、シャドウが前に出た。


「俺がやるっす!」


「影山くん!」


 ヒナの声を背に、シャドウは俺とラッキィの前へ割り込んだ。黒いマントが広がり、その両手の先に、双剣を出す時と同じ穴が開く。


 だが今回は、剣が出てこない。穴だけが広がる。奥が見えない。光を拒むような、深い黒だった。


 ケルベロスの口から黒い炎が吐き出され、一直線に迫ってくる。


 シャドウは逃げなかった。俺とラッキィの前に立ったまま、両手に開いた黒い穴を、炎の正面へ押し出した。


 炎が穴に触れた瞬間、吸い込まれていく。燃え広がることも、弾けることもない。黒い炎が黒い穴の中へ落ちていく。火なのに、煙なのに、形のないものなのに、吸われるように消えていく。


 シャドウの腕が震えた。


「ぐ、重っ……何これ、重いっす……!」


「持つのか!?」


「分かんないっす! でも、同じ黒なら何とかなるかなって!」


「発想が安易!」


「今は当たってるからよくないっすか!」


 よくはない。だが、当たってはいた。


 ケルベロスの中央の首が、初めて大きく怯んだ。喉の奥に溜めていた黒い炎が、シャドウの穴へ吸われて乱れている。右と左の首まで苦しそうに唸った。


「今!」


 リリアが叫んだ。


「あれ! 中が開いてる!」


「中!?」


「黒い火の流れが乱れてる! 今なら通る!」


 リリアの視線がヒナへ向いた。


 ヒナは一瞬、息を止めたように見えた。


「ヒナちゃん!」


 リリアが、短く呼んだ。


「あたしの魔法じゃ噛み合いが悪い! たぶん、あなたの光の方が届く!」


「私の……?」


 ヒナの顔に迷いが浮かんだ。


「考えるのは後! 今、撃って!」


 リリアが、迷いを断つように叫んだ。


 ヒナの杖を握る手に力が入る。いや、杖というより、彼女自身の内側から光が集まっていくように見えた。王都近くの訓練場で力を確認した時に見せた、あの異質な光。けれど、今のそれは、あの時よりもずっと鋭かった。


「ガルドさん、赤木くん、押さえて!」


「言われなくても!」


「おう!」


 ガルドがケルベロスの正面へ踏み込む。シンゴが横から脚を止める。普通なら無茶だ。だが、黒い炎をシャドウが吸っている今だけ、獣の動きは鈍っていた。


 爺が杖を掲げる。


「三首封瞬、獣牙沈黙、光路開門」


 ケルベロスの三つの首が、見えない何かに縛られたように止まった。ほんの一息。だが、それで十分だった。


 シャドウが歯を食いしばりながら、苦しげに笑った。


「こいつの力、どう見ても闇属性っす。だったら――」


 ヒナが、杖を構える。


「光、ってことね」


 わずかに笑って、ヒナが答えた。


 光は、真っ直ぐケルベロスへ向かわず、一度地面へ落ちた。


 水場の土に、白い線が走る。円を描き、内側で幾何学的に交差し、見たことのない文字のような模様を刻みながら、ケルベロスの足元に魔法陣が浮かび上がった。


 眩しい。


 だが、ただ明るいだけではない。そこにある黒いもの、濁ったもの、この世界の土に馴染まないものを見つけ出し、下から照らし上げるような光だった。


 三つの首が同時に吠える。


 だが遅い。


 魔法陣の中心から、光が上へ噴き上がった。


 炎ではない。雷でもない。音すら一瞬遅れて届くほどの、白い柱だった。ケルベロスの腹を、胸を、喉を、三つの頭を、下から順に呑み込んでいく。


 黒い毛が焼ける匂いはしなかった。肉が裂ける音もしなかった。血も飛ばない。ただ、そこにあったはずの獣の形が、光の中で薄れていった。


 ケルベロスが最後に大きく口を開ける。


 吠えたのかもしれない。


 だが、声は出なかった。


 黒い炎も、牙も、三つの首も、光の柱の中でほどけるように消えていく。最後に残ったのは、黒い煙のようなものだけだった。それも、光が細くなっていくにつれ、森の湿った空気へ溶けるように消えた。


 光の柱が消えた後、水場には静けさだけが残った。


 ケルベロスはいなくなった。


 血に濡れた土と、荒れた草と、俺たちの荒い息だけがある。


 しばらく誰も喋らなかった。


 ガルドが大剣を下ろす。シンゴは膝に手をつき、息を吐いた。シャドウは両手を見つめている。さっきまで黒い穴が開いていた手の先には、もう何もない。


「……何だったんすかね、今の」


 シャドウが言った。


 いつもの軽さを取り戻そうとしているのは分かった。だが、声が少し上ずっていた。


「それは俺が聞きたい。お前がケルベロスだと言ったんだ」


 俺がそう返すと、シャドウは小さく笑った。


「いや、まあ……ケルベロスって、俺たちの世界じゃ有名なんすよ。三つ首の犬っていうか、そういう怪物っていうか。だから似てるなって思っただけで」


「似ている、か」


 俺は、消えた水場を見る。


 似ている。


 そんな程度の話ではなかった。


 少なくとも、あれはシャドウが北の国で話していたものと同じだった。三つ首の犬。物語に出てくる怪物。現実にはいないはずのもの。


「偶然っすよ」


 シャドウは言った。


「たぶん」


 最後に付いた言葉が、余計だった。


「そんなわけねえだろ」


 シンゴが吐き捨てるように言った。


「話しただけで出てくるなら、世界めちゃくちゃになるだろ」


 その言葉に、ヒナが反応した。


 何かを言いかけて、口を閉じる。視線が地面へ落ちる。彼女も思い出しているのだろう。北の友好国の宴席。シャドウがケルベロスの名を出し、シンゴやヒナも他の名を口にした。


 あの時は、酒に緩んだ若者たちが、自分たちの世界にあった物語を思い出して笑っていただけだった。


「でも」


 ヒナが小さく言った。


「私たち、話したよね」


 その一言で、空気が変わった。


 シャドウが黙る。シンゴも何か言い返そうとして、言葉を失った。サチコは、ずっと青い顔をしている。何かに怯えるように、両手を胸元で握っていた。


「あ、あの……私たちが、何か……」


「サチコ」


 ヒナがすぐに呼び止める。


「まだ分からない。何も決まってない」


「でも……」


「分からないことを、今ここで決めつけない方がいい」


 ヒナの声はしっかりしていた。だが、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。


 レイさん、とシャドウが俺を見る。


 助けを求めるような顔だった。あるいは、否定してほしい顔だったのかもしれない。


 だが、俺には否定できなかった。


 ケルベロスはいた。


 そして俺たちはそれを倒した。倒せた。だが、勝ったという感覚は薄かった。魔物を一匹討伐した時のような手応えがない。危険な害獣を処理したという実感もない。


 もっと別のものを見てしまった気がした。


 俺は、自分に与えられた“祝福”のことを思った。


 行動は間違っていても、結果だけがよくなる。そういう因果の調整。自分では制御できず、いつ発動するかも分からず、しかも回数が減っているかもしれない厄介な力。


 だが、これは違う。


 俺たちの失敗を帳尻合わせで成功に変えたのではない。誰かの悪事が結果的に国を救ったのでもない。


 これは、なかったはずのものが現れた。この世界に、入り込んできた。


「戻るぞ」


 俺は言った。


 声が少し掠れていた。


「王に報告する。死体も確認しなきゃならない。周囲に他の被害者がいないかも見る」


「……了解っす」


 シャドウが小さく頷く。


 ガルドは何も言わず、周囲を見た。リリアはヒナの方を一度だけ見て、それから消えた光の跡へ目を戻す。爺は水場の端へ歩き、地面に残った黒い染みのようなものへ杖を向けた。


「異痕残滓、封土静眠、後日検分」


 何をしたのかは分からない。だが、黒い染みはそれ以上広がらず、土の中へ押し込められるように沈んだ。


 ラッキィが、俺の後ろからそっと顔を出した。


「レイさん」


「何だ」


「もういませんか?」


「見れば分かるだろ」


「いないのを見て安心したいです」


「勝手にしろ」


 ラッキィは水場を覗き込み、ほっと息を吐いた。


 俺も、本当なら同じように息を吐きたかった。


 ケルベロスは消えた。


 けれど、消えたから終わりではない。


 俺は転移者たちの顔を見た。シャドウも、シンゴも、ヒナも、サチコも、誰一人として勝った顔をしていなかった。


 その時になってようやく、俺は分かった。


 俺たちは今、魔物を一匹倒したのではない。


 何かがこの世界に入り込んできた、その最初の形を見てしまったのだ。

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