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歪んだ因果の勇者譚 ~世界を救えと言われたが、勝手に選ばれた仲間が問題児だらけで、しかも一人でも追放すると俺が爆散する~  作者: たま8


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第37話 払えない対価

 その知らせは、朝食の席に届いた。


 王都へ戻ってから、俺たちの生活は少しだけ騒がしくなっていた。隣の仮宿舎には転移者たちが入り、朝からシャドウとシンゴの声が聞こえることも珍しくない。ヒナは早い時間から身支度を整え、サチコはまだどこか遠慮がちに周囲をうかがっている。


 それでも数日も経てば、人間というものは慣れてくる。俺も、隣に別の世界から来た四人が住んでいるという異常を、少しずつ日常として処理し始めていた。


 そんな朝だった。


 使いの男が、ミア宛ての手紙を持ってきた。


 ミアはいつものように表情を変えず、それを受け取った。封を切り、中に目を通す。その動きは普段と変わらない。だが、読み終えた後、紙を畳む指先だけが、ほんの少し止まった。


「何かあったのか」


 俺が聞くと、ミアは少し間を置いてから答えた。


「昔お世話になった方が、病で伏せているそうです」


「……恩師か?」


「そうですね」


 ミアは短く答えた。


 その言い方は淡々としていたが、紙を畳む指先だけは、普段よりわずかに遅かった。


 それ以上を聞く前に、ミアは立ち上がった。


「行ってきます」


「一人でか」


「そのつもりです」


「場所は?」


 ミアが答えたのは、王都の外れにある小さな療養院だった。貧しい者や身寄りのない者も受け入れる、古い祈りの家を改築した施設らしい。


 俺は少し考えた。


 ミアが昔世話になった相手。病。療養院。どれも、あまり軽く流せる言葉ではない。まして、ミアが珍しく自分から出かけると言っている。


「俺も行く」


「必要ありません」


「必要かどうかは俺が決める」


 ミアは面倒そうに目を細めた。


「心配ですか」


「お前一人で行かせると、何をするか分からん」


「失礼ですね」


「事実だろ」


 ミアは否定しなかった。


 結局、俺とミア、爺、転移者四人で行くことになった。


 全員で押しかけるには、さすがに多すぎる。ガルドとリリアとラッキィには留守番を頼んだ。リリアは少し不満そうだったが、病人の見舞いにぞろぞろと全員で行くわけにもいかない。


 爺の力は必要になるかもしれない。そう思って声をかけると、爺はいつもの調子で低く呟いた。


「枯灯見取、病路同行」


「来るってことでいいんだな」


 爺は静かに頷いた。


 療養院は、王都の外れにあった。


 古い石造りの建物で、華やかさはない。庭には薬草が植えられており、窓辺には乾かした草束が吊るされている。中へ入ると、薬の匂いと、古い木の匂いが混ざっていた。


 案内された部屋は、奥まった一室だった。


 白い布をかけた寝台に、痩せた老女が横たわっていた。顔色は悪い。頬はこけ、手首は枯れ枝のように細い。それでも、目だけは柔らかかった。


 老女はミアを見ると、ゆっくりと笑った。


「来てくれたのね、ミア」


 その声は弱かったが、穏やかだった。


 ミアは寝台の少し手前で足を止めた。


「手紙をいただきましたので」


「そう」


 老女は、懐かしそうに目を細める。


「それでも、来てくれたのね」


 ミアは答えなかった。


 その沈黙を責めるでもなく、老女は俺たちへ視線を向けた。


「あなたたちは、ミアの仲間?」


「レイです。勇者をしています」


「影山……じゃなくて、シャドウっす」


 シャドウが簡単に挨拶をすると、それに続いて他の転移者たちも名乗った。


 最後に爺が、寝台の少し後ろで静かに頭を下げる。


「黒衣老骨、病窓礼拝」


「……えっと、こちらはミルルです」


 俺が補足すると、老女は不思議そうにしながらも、柔らかく笑った。


「そう。ミアに、こんなに仲間ができたのね」


「仲間というほどのものではありません」


 ミアがすぐに言った。


「そういうことを言うものではないわ」


 老女は柔らかくたしなめる。その口調に、俺は少し驚いた。ミアに対して、ここまで自然にものを言える人間をあまり見たことがなかった。


 ミアも、言い返さない。


「昔のミアはね、もっとおどおどしていたのよ」


 老女が俺たちに言う。


「声も小さくて、人の目を見るのもあまり得意じゃなかったわ。あれから回復魔法は上達したかしら」


「昔の話です」


 ミアの声は硬かった。


「ええ。昔の話ね」


 老女はそれでも笑っている。


「でも、優しい子だった。怪我をした子がいれば、自分がうまく治せないと分かっていても、最後までそばを離れなかった。うまくいかないと、今にも泣きそうな顔をしてね。それでも次の日には、また練習に来るの」


 サチコが、少しだけミアを見た。


 何かを言うわけではない。ただ、自分の知っているミアと、今聞かされた昔のミアが、うまく重ならないという顔だった。


「そういう子だったから、私はずっと気になっていたの。ちゃんとやれているのかしら。自分を責めてばかりいるんじゃないかしらって」


「余計なお世話です」


「そうかもしれないわね」


 老女は、少しも怒らなかった。


 俺は黙ってそれを見ていた。ミアの昔を知る人間は、これまでにも見たことがある。以前の依頼で会った女僧侶もそうだった。あの時も、ミアは昔、回復が得意ではなかったと言われた。


 それは、今のミアを知っている俺にはうまく繋がらない話だった。


 欠損した腕を戻し、潰れた頭を元に戻す。あれを見てしまうと、回復が得意ではない、という言葉はどうにも座りが悪い。だが、ミアが今の力をいつから持っていたのか、俺は知らない。


 最初に診たのは爺だった。


 枕元に立ち、細い指を老女の手首へ添える。しばらく沈黙が落ちた。いつものように何を見ているのかは分からない。だが、ふざけている様子ではなかった。


「枯根深沈、巡血鈍滞、癒術届薄」


「……どういう意味だ」


「たぶん、回復魔法では届きにくい、ということだと思います」


 サチコが小さな声で言った。


 その顔は暗かった。


「サチコ、お前ならどう見る」


「……無理だと思います」


 サチコは、言いにくそうに答えた。


「傷なら塞げます。血も止められます。毒も、広がりきる前なら抑えられると思います。軽い熱や咳なら、少し楽にできるかもしれません。でも……これは、そういうものじゃないです」


 サチコは老女の胸元を見た。


「体の中が、長い時間をかけて悪くなっています。どこか一か所を治せば元に戻る、というものではないと思います」


 爺も、静かに頷いた。


「病樹老枯、枝葉替無、根返不可」


「枝を直しても、根が戻らない……みたいな意味でしょうか」


 サチコの声は震えていた。


 病に対する回復魔法の限界は低い。


 傷を塞ぐことと、病を消すことは違う。軽い症状を和らげたり、体力の戻りを助けたりすることはできても、体の奥で長く進んだ病を消し去ることはできない。もしそんなことが当たり前にできるなら、人の寿命というものは、今とはまるで違っているはずだ。


 だから、爺とサチコが無理だと判断したこと自体は不思議ではない。


 ミアはずっと黙っていた。


 爺の言葉にも、サチコの所見にも、老女の静かな頷きにも、何も言わなかった。ただ、寝台の上の恩師を見ている。


 その沈黙が、妙に長く感じた。


「私なら治せます」


 ミアが言うと、部屋の空気が変わった。


 サチコが顔を上げる。ヒナも、シャドウも、シンゴも、言葉を失ったようにミアを見た。


 俺も同じだった。


 爺とサチコが無理だと言ったものを、ミアは治せると言った。


 俺は、どこかで納得してもいた。ミアなら、普通の回復では届かないものにも届くのかもしれない。そう思わせるものを、俺はすでに見ている。


 老女は、少しだけ目を開いた。


「そう」


 その声は、驚きというより、ミアの言葉を大切に受け取るような響きだった。


「そう言ってくれるのね」


「ただし、対価はいただきます」


 老女は静かに瞬きをする。


「対価?」


「はい」


 ミアは淡々と頷く。


「この額を用意できるなら、治療します」


 そう言って、ミアは金額を告げた。


 部屋の空気が止まった。


 冗談にしても悪趣味だった。普通の家がいくつも買える。小さな村なら、何年も蓄えを崩さなければ届かないかもしれない。そんな額だった。


「お前、本気で言っているのか」


 俺は思わず低い声で聞いた。


「本気です」


 ミアは短く答えた。


 サチコは青ざめた顔でミアを見ている。シャドウも言葉を失っていた。シンゴは顔をしかめ、ヒナは息を呑んだまま固まっている。


 俺も同じだった。


 恩師だと聞いた。昔世話になった相手だと聞いた。その相手に向かって、この額を払えなければ治療しないと言うのか。


 だが、老女は怒らなかった。


 少し驚いたように目を開き、それから困ったように笑った。


「そんなお金、ないわよ」


 その声は、責めるものではなかった。


 ミアの指先が、ほんの少しだけ動いた。


「でしょうね」


「ええ。ごめんね」


「謝る必要はありません。払えないなら、治療はできません」


「そう」


 老女は、穏やかに頷いた。


「それでも、治せるって言ってくれたのね」


「……」


「昔のあなたなら、そんなことも言えなかったもの」


「違います」


 ミアの声が、少しだけ硬くなった。


「何が違うの?」


「私は、あなたに希望を持たせるために言ったわけではありません。本当にその額が必要なだけです」


「そう」


「分かっていませんね」


「そうかもしれないわ」


 老女はまた笑った。


 その笑顔が、ミアの言葉をすべて柔らかく受け止めてしまうように見えた。


「ミア」


 俺は思わず呼んだ。


 だが、ミアはこちらを見なかった。


「私は、あなたのそういうところが昔から嫌いでした」


 ミアの声は冷たかった。だが、どこか硬かった。まるで、決めてきた言葉を間違えないように読み上げているみたいだった。


「人に優しくして、助けられない相手にも笑って、最後には何もできない。そういう無力な善意が、一番たちが悪いんです」


 俺は息を呑んだ。


「ミア、それ以上は――」


「本当のことです」


 ミアは止まらなかった。


「あなたは昔からそうでした。きれいな言葉ばかり並べて、祈れば救われるような顔をして、結局は何も持っていない。何も救えない。そういうところが、私はずっと嫌いでした」


 部屋の空気が冷えていく。


 シャドウが、いつもの軽さを消してミアを見ていた。


「……それは、ないっすよ」


 低い声だった。


 シンゴも顔をしかめている。


「ミアさん、それ本気で言ってんのかよ」


 ヒナは何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。病人の前で声を荒げることだけは堪えているようだった。


 サチコは両手を胸の前で握りしめ、信じられないものを見るようにミアを見ていた。


 爺だけは、何も言わなかった。


 ただ、ミアと老女を交互に見て、深い皺の奥で何かを沈めるように黙っていた。


 老女は、怒らなかった。


 ただ、少しだけ悲しそうにミアを見た。


「そんな言い方をする子じゃなかったのにね」


 ミアの顔が、ほんのわずかに歪んだ。


「昔の話です」


「そうね。昔の話ね」


「今の私は、こういう人間です」


「そう言わなきゃいけないくらい、何かあったのね」


「違います」


「違わないわ」


「勝手に分かったようなことを言わないでください」


「ごめんね」


「謝らないでください」


 ミアの声が、わずかに荒くなった。


 表情はいつもと同じだ。声も冷たい。言葉だけを聞けば、いつものミアよりさらにひどいだけだ。


 けれど、違う。


 指先がわずかに強張っている。呼吸が浅い。次の言葉を急いで探しているように見える。


 何を焦っている。


 何をそんなに必死になっている。


 ミアが一体何を考えているのか、俺には全く分からなかった。


「お金を払えないのであれば、さっさと死んでください」


 ミアは言った。言ってしまった。


「こちらにも時間があります」


 今度こそ、部屋の空気が完全に凍った。


 俺は一歩前へ出た。


「ミア」


 自分でも驚くほど低い声が出た。


「それ以上言うな」


「言わなければ、伝わりません」


「何をだ」


「私が、この人をどう思っているかです」


 ミアはこちらを見ない。


 俺は言葉を失った。


 どう思っているか。そんなものを、今この場で伝える必要があるのか。死を前にした恩師に。


 サチコは泣きそうな顔でミアを見ていた。


「ミアさん……」


 その声は震えていた。


 だが、老女は怒らなかった。


 悲しげではあった。寂しげでもあった。けれど、その目にはミアを責める色がなかった。


「無理をしているのね」


「していません」


「しているわ」


「違います」


「だって、あなたはそんなことを言って平気でいられる子じゃないもの」


「昔の私を知ったような顔で語らないでください」


「知っているわ」


「知りません」


「知っているのよ、ミア」


 老女は弱った手を、少しだけ動かした。ミアへ伸ばそうとしたのだろう。だが、ミアは一歩下がった。


「触らないでください」


「大きくなったね、ミア」


「黙ってください!」


「昔は、すぐ泣きそうな顔をしていたのに」


「お願いです、黙ってください!」


「今は、いろんな人に囲まれているのね」


 老女の視線が、俺たちへ向いた。


「よかった」


「よくありません」


「よかったのよ」


 老女は穏やかに言った。


「あなたが一人じゃないなら、それでいいの」


 ミアは何も言わなかった。


 いや、言えなかったのかもしれない。


 それからしばらく、部屋には老女の弱い呼吸だけがあった。


 サチコは老女の手を握り、細く回復の光を流し続けていた。傷を治すための光ではない。病を消すものでもない。ただ、痛みを少しでも遠ざけ、呼吸を楽にするための処置だった。


 爺もまた、寝台の横に立っていた。


「痛路薄帷、眠舟静流」


 その声の後、老女の眉間に寄っていた皺が少しだけほどけた。息の音も、わずかに穏やかになる。


「……ありがとう」


 老女が、小さく言った。


 サチコは首を振った。


「私は、何も……」


「ううん。楽になったわ」


 老女はそう言って、サチコに柔らかく微笑んだ。それから、爺の方へも目を向ける。


「あなたも、ありがとう」


「灯終無恐、花帰静土」


 老女はその意味が分かったのだろうか、静かに目を細めた。


 そして、最後にミアを見た。


「ミア」


 ミアは動かなかった。


「私は、あなたを嫌いにはなれないわ」


「……」


「昔のあなたも、今のあなたも」


「やめてください」


 ミアの声は、ほとんど消えかけていた。


「来てくれて、ありがとう」


「……」


「これからは、遠いところで見守っているわ」


 老女は、ほんの少しだけ笑った。


「あなたが、ちゃんと生きていけるように」


 ミアは答えなかった。


 答えないまま、ただ立っていた。


 老女はそれ以上、何も言わなかった。静かに息を吐き、目を閉じる。苦しげな音はなかった。眠りに落ちるような、あまりにも穏やかな最期だった。


 死というものは、時々、驚くほど静かに来る。


 部屋の中で、誰もすぐには動けなかった。サチコは泣いていた。ヒナも目元を押さえている。シャドウは俯き、シンゴは奥歯を噛みしめるように黙っていた。


 ミアは寝台の横に立ったまま、いつもの顔をしているが、どこか無理をしているようだった。


 その後のことは、あまりよく覚えていない。


 療養院の人間に後を任せ、俺たちはそこを出た。ミアは一言も喋らなかった。サチコも同じだった。シャドウもシンゴも、いつもの軽口を出さない。ヒナは何度かミアを見たが、結局何も言わなかった。爺だけは、何も変わらないように歩いている。


 気まずい、という言葉では足りなかった。


 昼間のミアの言葉は、あまりにもひどかった。恩師に対して、払えないならさっさと死ねとまで言った。あれを聞いて嫌悪しない方がおかしい。転移者たちも、きっとそうだった。


 だが、あの焦りは何だったのか。あの言葉の硬さは何だったのか。


 死を前にした恩師へ向かって、嫌いだった、ずっと嫌いだったと重ねた時の、あの声は何だったのか。


 アジトへ戻る頃には、もう日が傾いていた。


 留守番をしていたガルドとリリアとラッキィは、俺たちの顔を見るなり、すぐに何かを察したらしい。


「……何かあったのか」


 ガルドが低く聞いた。


 リリアも不安そうに俺たちを見ている。ラッキィでさえ、いつものように余計なことを言わなかった。


 何かあった。それは間違いない。


 だが、何があったのかと聞かれると、俺はすぐに答えられなかった。


 ミアの恩師が死んだ。


 ミアは、その恩師に法外な金を要求した。


 払えないならさっさと死ねとまで言った。


 爺とサチコは、その人が少しでも苦しまずに済むよう処置をした。


 恩師は最後までミアを責めず、礼を言って、安らかに眠った。


 言葉にすれば、それだけだ。


 だが、それだけでは何も説明できていない気がした。


 あの時のミアの焦り。


 恩師の穏やかな声。


 サチコの泣きそうな顔。


 シャドウやシンゴやヒナが、ミアから少し距離を取った空気。


 そして、俺自身がミアに抱いた嫌悪感と、それでもどこかで引っかかり続けている違和感。


 どれから話せばいいのか分からない。


 そもそも、俺自身がまだ整理できていなかった。


「……いろいろあった」


 結局、出てきたのはそんな言葉だった。


「いろいろって何だよ」


 ガルドが眉をひそめる。


「悪い。今はうまく説明できない」


 ガルドはしばらく俺を見ていたが、それ以上は聞かなかった。


 リリアも何か言いたそうにしていた。だが、ミアの顔を見て、そっと口を閉じる。


 ラッキィは小さく首を傾げたまま、珍しく黙っていた。


 ミアは誰にも何も言わず、自分の部屋へ向かった。


 誰も止めなかった。


 止められなかった、という方が近いのかもしれない。


 そのまま、ミアは夕食にも姿を見せなかった。


 食卓には、変な沈黙だけが残った。


 ガルドは黙って食べていた。リリアは何度も俺の方を見て、そのたびに何か言いたそうな顔をしたが、結局何も聞かなかった。ラッキィは箸を持ったまま、珍しく余計なことを言わない。転移者たちも、昼間のことを口にしなかった。


 誰もが何かを抱えていた。


 だが、誰もそれをどう扱えばいいのか分からなかった。


 その夜、俺は眠れなかった。


 寝台に横になっても、昼間の光景が頭から離れない。老女の穏やかな声。ミアの冷たい言葉。サチコの泣き声。俺自身の怒り。


 水でも飲もうと部屋を出た時、廊下の奥に人影があるのを見て、俺は少し身構えた。


 シャドウだった。


 ミアの部屋の前に立っている。


「お前、こんなところで何を――」


 声をかけようとした瞬間、シャドウがこちらを振り向いた。


 その顔は、いつもと違って軽さがない。


 シャドウは慌てるように人差し指を口元へ立てた。


「しっ」


 ほぼ同時に、廊下の向こうから小さな足音が近づいてきた。シンゴとヒナ、それにサチコだった。おそらくシャドウが部屋を出たことに気づいて、後を追ってきたのだろう。


「影山くん、どうし――」


 ヒナが言いかけて、止まった。


 その時、聞こえた。


 泣き声だった。


 最初は、誰の声か分からなかった。布に押し込め、喉の奥で潰し、それでも抑えきれずに漏れてくるような、細い嗚咽だった。


 だが、すぐに分かった。


 ミアだ。


 ミアが泣いていた。


 尋常な泣き方ではなかった。声を上げて泣いているわけではない。むしろ、必死に声を殺そうとしている。けれど、それでも漏れてしまう。胸の奥から引きずり出されるような、聞いているこちらの息まで詰まる泣き方だった。


「……ミアさん、泣いてるっす」


 シャドウが、ほとんど息だけで言った。


 誰も、すぐには動けなかった。


 シンゴも黙った。昼間、あれだけ顔をしかめていた男が、今は何も言えない顔をしている。ヒナは口元を押さえ、サチコは両手を胸の前で握りしめて扉を見つめていた。


 昼間のミアの言葉を思い出す。


 お金を払えないのであれば、さっさと死んでください。


 あれだけのことを言った人間が、なぜ今、こんなふうに泣いているのか。


 分からない。


 分からないから、誰も扉を叩けなかった。


 その時、廊下の奥から爺が姿を見せた。


 白い髪が、暗がりの中でかすかに揺れる。爺は俺たちを見て、それからミアの部屋の扉を見た。


「雨抱黒花、触無崩夢」


 低い声だった。


 意味は分からない。


 ただ、いつものように煙に巻く言葉ではなかった気がした。


 爺はそれだけ言うと、何事もなかったように自分の部屋へ戻っていった。まるで最初から分かっていて、俺たちがここに立ち尽くすことも、ミアが泣いていることも、すべて仕方がないことだとでも言うように。


 扉の向こうで、また嗚咽が漏れた。


 ヒナが小さく息を呑む。


「……昼間の、あれ」


 その先を、ヒナは言わなかった。


 言えなかったのだろう。


 シャドウは、いつものように茶化さない。シンゴも黙ったままだった。サチコは泣きそうな顔をしていたが、それでも扉に手を伸ばすことはできなかった。


 俺も同じだった。


 声をかけるべきなのかもしれない。


 だが、何と言えばいいのか分からない。


 俺たちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 ミアの嗚咽は、夜が深くなっても止まらなかった。


 翌朝、ミアは何事もなかったような顔で食卓にいた。


 目元は赤い。まぶたも少し腫れている。声は鼻にかかり、喉の奥も掠れていた。夜通し泣いた人間の声だった。


「何か?」


 こちらの視線に気づいたミアが、いつもの調子で言った。


 いや、いつもの調子に戻そうとしていた。


 シャドウは気まずそうに視線を逸らした。シンゴは黙って飯を口に運んでいる。ヒナは何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。サチコだけは、何度かミアを見て、何度か口を開きかけて、そのたびに俯いた。


 昨日、俺たちは全員、ミアから少し距離を取った。


 それは当然だったと思う。


 だが、夜のあの声を聞いた後では、その距離の意味すら分からなくなっていた。


 俺は、このパーティーのことをそれなりに分かってきたつもりでいた。ガルドの乱暴さも、リリアの距離感も、爺の意味不明さも、ラッキィの厄介さも、ミアの金への執着も。全部とは言わないまでも、ある程度は受け止められるようになったつもりでいた。


 だが、たぶん違う。


 俺はまだ、このパーティーの事情を何も分かっていない。仲間たちが何を抱えていて、何を隠していて、どんな本心を押し殺しているのか。そういうものの、ほんの表面を見ているだけなのだろう。


 ミアは静かに茶を飲んでいる。


 泣き腫らした顔で、平然と。


 俺にはそれが、いつもの法外な請求よりもずっと分からなかった。

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