第25話 こことは別の世界、なんていう妄想話
国主としての仕事、といって良いのか疑問が残るところではあるが、それも一段落したところで、その夜俺は一人で酒場へ向かった。
何だかんだで、酒場はいい。
国が違っても、こういう場所の空気は大して変わらない。酔って声が大きくなる者がいる。景気のいいことを言う者がいる。今日の鬱憤を、安酒とどうでもいい笑い話で無理やり流そうとしている者もいる。そういう雑多な熱が、狭い店の中にほどよくこもっている。
そういう場所に身を置くと、人の駄目さというのは案外どこも似たようなものだと思えて、少しだけ気が楽になる。
酒場の中はほどよく混んでいた。仕事帰りらしい男たちが卓を囲み、女将らしい女が忙しく皿を運び、隅の方では一人で静かに飲んでいる人間もいる。
空いた席へ腰を下ろし、適当な酒を頼む。
運ばれてきた杯をひと口飲む。安心する味だ。変に洒落ていないぶん、こういう夜にはよく馴染む。喉を落ちていく感触が、昼間の気疲れを少しだけ剥がしていく気がした。
ぼんやりと酒を傾けていると、隣の卓の声が耳に入ってきた。
「だからよ、俺は思うんだ。こんなせこせこ働く生活はうんざりだってな。ある日突然、別の世界に飛ばされて、ついでにすげえ力が備わってよ、そんで好き勝手に生きられたらなってよ」
その言葉に、周りで笑いが起きた。
「お前またその話か」
「またじゃねえよ。今日は昨日より具体的だ」
「どこがだ。昨日も似たようなこと言ってただろ」
「昨日は“金持ちになりたい”だった。今日は違う。“別の世界で好き勝手に生きたい”だ」
「大して変わってねえよ」
「違う違う。そこには浪漫がある」
別の男が、面白がるように割って入る。
「じゃあ俺は、剣ひと振りで山を吹っ飛ばせるくらいの力が欲しいな」
「お前は物騒すぎるんだよ」
「力があるなら女も寄ってくるだろ」
「結局そこか」
「大事だろそこは」
また笑いが起きる。
別の卓でも、似たような話が始まっていた。
別世界。神の力。都合のいい才能。いい女。自由気ままな暮らし。面倒な責任も、金勘定も、しがらみも何もない人生。
酒が入ると、人間は案外あっさりそういう話を始める。
いや、酒のせいばかりでもないのかもしれない。酔っている時だけ口に出るだけで、普段から頭のどこかにはあるのだろう。今の自分とは違うどこか。今より少し都合のいい人生。自分だけはうまくやれるかもしれない別の場所。
分からなくはない。
俺だって、分からないと言い切れるほど真っ当にできているわけではない。
責任も立場も何もかも放り捨てて、知らない土地で好き勝手に生きられたら、そりゃあ少しは気が楽だろう。王に呼ばれて腹の読めない会話をしなくていい。執政と妙なぎこちなさを抱えたまま向かい合わなくていい。国主だの筆頭勇者だの、そういう慣れない肩書きを思い出すたびに胃が重くなることもない。
実に素晴らしい。
逃げ出せるなら逃げ出したい。これはかなり本音だった。
ただ、俺の場合、そこに一つだけ面倒な問題がある。
逃げると俺の体が爆散する。
そこがあまりよくない。いや、よくないどころの話ではないのだが、現実としてそうなのだから仕方がない。しかも、ただ死ぬだけではない。肉体が弾けたあとも意識は残すぞと、“あれ”は笑いながら言っていた。逃亡の代償としては、どう考えても重すぎる。
理不尽にもほどがある。
別に立派な覚悟があるわけではない。逃げ道がないからそこに立ち続けているだけだ。英雄らしいことを言えと言われても困る。俺はただ、爆散したくないから今日も働いているにすぎない。
杯の底を見ながら、俺は小さく鼻で笑った。なんとも冴えない理由だった。隣では、まだ与太話が続いている。
「俺なら、まずいい女を侍らせるね」
「やめろお前、話が毎回そこで止まる」
「いや、大事だろ。せっかく別世界行くなら夢見たいじゃねえか」
「お前の夢、だいぶ俗っぽいな」
「俗で結構。高尚な夢見ても腹は膨れねえ」
「それはそうだ」
その言葉に、また笑いが起きる。
なんだかんだで、人の望みというのはそう変わらないのかもしれない。力が欲しい。楽をしたい。認められたい。面倒な現実はできれば捨てたい。少し都合のいい世界で、少し都合のいい人生をやり直したい。
否定する気にはなれなかった。
だが結局、人は今いる場所で生きていくしかない。“こことは違う別世界”なんてあるわけがないし、仮にあったところで、そんなに都合よくできているとも思えない。少なくとも俺の知っている“神”っぽいぽのは、願いを叶えるより先に、人の頭や胃を痛めつける方が得意らしかった。
だから、こういう話は酒場の与太話くらいがちょうどいいのだろう。
本気にする人間などいない。だが、笑って流すにはちょうどいい。そうやって少しだけ気を緩めて、明日になればまた現実へ戻る。たぶん大半の人間は、そうやって生きている。それはそれで、悪くないのかもしれない。
俺は杯を傾け、残っていた酒を飲み干した。少しぬるくなっていたが、別に構わなかった。
この時はまだ、まさか本当に“別の世界”から来た連中と顔を合わせることになるとは、夢にも思っていなかった。




