第21話 大魔法使いリリア
国をもらってからしばらくは、拍子抜けするほど大きな変化はなかった。
いや、変化がなかったというのは正確ではない。立場は確かに変わった。王国の筆頭勇者だの、どこぞの小国の主だの、口にするだけでどうにも落ち着かない肩書きがいくつもついた。だが、それによって俺の日常が劇的に変わったかといえば、そういうわけでもなかった。
相変わらず仕事はあるし、相変わらず仲間は好き勝手やる。胃に悪い出来事が減ったかといえばそんなこともない。むしろ肩書きが増えた分だけ、厄介ごとの種類が少し豪華になった気がしないでもなかったが、それを口にしたところで何か改善するわけでもなかった。
一つ変わったことといえば、王城絡みの依頼が増えたことくらいだろうか。
考えてみれば当然ではある。王国としても、いまさら俺たちに民間の細々した依頼を一つずつ受けさせるのは、立場のうえでも収まりが悪いのだろう。以前なら町のギルドに顔を出して、依頼を受け、終わればまた報告に戻るという流れだったが、今はそういう仕事自体がかなり減った。
その代わり、王城が直接噛む案件が増えたということだ。ただ、それはそれで面倒ばかりかと言えば、そうでもない。
以前であれば王城筋の依頼の場合は、最終的な報告や諸々の手続きのためにいちいち城まで足を運ばねばならなかった。町のギルドに顔を出すのも煩わしかったが、王城に赴いて形式ばったやり取りをさせられるのは、それとは別の種類の面倒くささがあった。
だが今は、立場が変わったおかげで、そのあたりが少し簡略化された。
依頼は王城からの使者がアジトまで持ってくる。報告も、わざわざこちらが出向かずとも、アジトで使者に伝えれば済むことが多い。つまり、ただの勇者パーティーだった頃にはあれほど煩わしく思っていた「報告のためだけに王城へ行く」という手間がだいぶ減ったのだ。
そこだけを切り取れば、仕事としてはむしろ楽になったと言っていい。
もっとも、まったく登城しなくてよくなったわけではない。時折、王への拝謁だの、形式的な確認だの、顔を出さねばならない場はあった。
そして、そのたびに俺は、あの王の前で微妙に気疲れする羽目になる。
相変わらず、あの王は飄々としていた。ふざけているようで、こちらの一挙一動を見逃していない気配がある。冗談めかした口調のまま核心に触れてくるくせに、自分の腹の内だけは最後まで見せない。
俺のことをどう見ているのかといえば、少なくとも悪くは見ていないのだろう。むしろ、かなり好意的に扱われている部類なのだと思う。実際、待遇だけ見れば明らかに悪くない。だが、だからといって気が楽になるわけでもない。
向こうがこちらに好意的だから安心していい、などと単純に割り切れる相手ではなかった。
何を考えているのか完全には読めない以上、こちらはどうしても余計な気を揉むことになる。だが、それもたぶん慣れるしかないのだろうと、最近では半ば諦めていた。
そんなふうに、立場の変化に慣れたような慣れていないような日々を送っていたある時、王城から使者が来た。依頼そのものは珍しくない。だが今回は、内容を伝える前に「陛下がお呼びです」とわざわざ言い添えられた。
ろくでもない予感しかしなかった。俺は半ば諦めた気分で、登城の支度を始めた。
玉座の間へ通されるまでの道すがら、俺は小さく息を吐いた。相変わらず城の中は広く、静かで、余計な音がしない。磨き上げられた床も、やたらと高い天井も、兵たちの揃いすぎた足運びも、こちらに「お前は場違いだ」と無言で言ってくるようで落ち着かなかった。
もっとも、今さらそこに文句をつけても仕方がない。ここへ呼ばれる側の人間になってしまった以上、そういう居心地の悪さとも付き合うしかないのだろう。
玉座の間に入ると、王はいつも通り、肩の力の抜けた顔でこちらを見た。
「来たね。待っていたよ」
その一言だけなら普通だった。
普通だったのだが、王の視線がそのまま俺の後ろへ流れた時点で、嫌な予感が一段濃くなる。
案の定、次に出てきた言葉は碌でもなかった。
「君のところの、そこの、ちょっとえっちな格好をした魔法使いの子。その子ならどうかなと思ってね」
王は玉座に深く腰をかけたまま、実にいつもの調子でリリアの方へ目を向けていた。
「ものすごいらしいじゃないか。いろいろと」
「王様、そういう下品な言い方はやめてください」
俺が即座に言うと、王はけろりとして笑った。
「下品かな? 俺はちゃんと実力の話をしてるつもりなんだけど」
「いま絶対そうじゃなかったでしょう」
「さて、どうだろうね」
横でリリアが、いかにも楽しそうに肩をすくめる。
「やだなあ、陛下。そんなにあたしのこと見てたんですか?」
「見なければ損だろう?」
「やめろお前も乗るな」
リリアはくすくす笑い、ガルドは腕を組んだまま口の端を上げて言った。
「まあまあ、国主様」
「お前がその呼び方するな」
「いいじゃねえか。だいぶ板についてきたぞ」
「どこがだ」
すると爺まで面の奥から低い声を漏らす。
「君主寛容。威厳保持。騒音放逐」
「何言ってるか全部は分からんが、お前も面白がってるのは分かる」
「洞察明瞭」
「褒めてない」
ラッキィが後ろでへらへらしながら言う。
「国主さまって大変ですねえ」
「お前は人ごとみたいに言うな。だいたい原因の一部はお前らだ」
「それは光栄です」
「褒めてない」
ミアは腕を組んだまま、興味なさそうに言った。
「で、用件は何ですか。くだらない軽口だけなら帰りますよ」
「おや、手厳しい」
「時間は金ですので」
王はミアのそういう物言いにも特に腹を立てた様子はなく、むしろ少し面白そうに目を細めた。
「うん。では本題に入ろうか。西の山地で火が出た」
場の空気が、そこで少し締まった。王は軽い口調のまま続ける。
「乾燥と風が重なってね。すでに山一つがほとんど火床だ。兵は出している。水魔法の使い手もかき集めている。だが規模が悪い。火を追う方が追いつかない」
「麓まで来そうなんですか」
俺が問うと、王は肩をすくめた。
「放っておけば集落と街道に届く。物流も止まるだろうね。今のうちにどうにかしたい」
「それでリリアか」
「うん」
王はあっさり頷いた。
「君たちのところの魔法使い、ずいぶんすごいと聞いているからね。普通の“すごい”で済むのか、俺も一度ちゃんと見てみたいとも思っていた」
「見世物じゃないんですが」
「もちろん、見世物ではないよ。結果として大いに参考にはするけどね」
その言い方がいかにも王らしくて、俺は一瞬だけ眉を寄せた。こっちが人命だの被害だのを考えている横で、平然とそういうことを言う。だが、それが単なる好奇心だけではないことも分かる。この王は、見ている。人も、力も、国の動きも、その先に何を置けるかも、全部まとめて見ている。
「リリア、どうだ」
俺が振り返ると、リリアは少しだけ首を傾げた。
「山火事、ねえ」
軽い調子ではあったが、いつものふざけた色は薄かった。
「見てみないと何とも言えないけど、手はあると思うよ」
「頼もしいねえ」
王が言う。
「頼もしいのは結構ですが、失敗したら俺までまとめて評価下がりそうなんですけど」
「国主様、そこはどんと構えていればいいんじゃないかな」
「そういうところだけ国主って言うのやめてくれませんか」
王は笑い、爺はぼそりと続けた。
「君主静観。動揺不要。責務増殖」
「何言ってるか半分だが、ろくでもないこと言ってるのは分かる」
結局、俺たちはそのまま西の山地へ向かうことになった。
馬車の中で、ラッキィがのんきに窓の外を眺めながら言う。
「しかし国主さまが山火事の対処まで駆り出されるんですねえ」
「俺が火を消すわけじゃない」
「でも立場的には現地確認とか、そういう感じじゃないですか?」
「それが一番厄介なんだ」
「象徴配置」
と爺。
「ものすごく嫌な響きだな」
「寛容推奨。君主平常」
「やめろその流れ」
リリアが向かいで脚を組み替えながら笑う。
「だいじょうぶだって、レイ。後ろでそれっぽい顔して立ってれば、たぶん何とかなるよ」
「それっぽく、で済むなら苦労しない」
「案外、向いてるかもね? そういうの」
「嫌なこと言うな」
「でもほら、最近ちょっと板についてきたじゃない」
「お前まで同じこと言うのか」
ガルドが鼻で笑う。
「まあまあ、国主様」
「お前、今ちょっと面白がってるだろ」
「ちょっとな」
ちょっとどころではない顔だったが、そこを追及しても意味はない。追及したところで、返ってくるのはさらなる茶化しだけだ。
それでもこうして馬車の中でいつものやり取りをしていると、王城であれこれ神経を使った直後の緊張が少しだけ抜ける。相変わらず連中は好き勝手だし、こっちは振り回される側だ。だが、その形が変わっていないことに、わずかな安心を覚えてしまうあたり、自分でもだいぶ毒されているとは思う。
西の山地に近づくにつれて、空気の匂いが変わり始めた。
煙だった。
まだ目的の山は見えていないはずなのに、鼻の奥へ焦げた木と乾いた土の匂いが入り込んでくる。進むにつれてそれは濃くなり、やがて視界の先に、空へ太く立ち上る灰色の柱が見えた。
近づくと、それが一本ではないことが分かる。
山の斜面に沿って、火が走っていた。
燃えているというより、山そのものが内側から赤く息をしているようだった。木々が爆ぜる音が離れていても聞こえる。風が吹くたび火の筋が横へ伸び、黒い煙が上に巻き上がる。地上では兵たちや魔法使いたちが動いていたが、どう見ても追いついていなかった。
水をぶつけたところで、その場が一時的に湿るだけだ。少し離れればまた別の火が上がる。そういう規模だった。
馬車が止まっても、爺だけがすぐには降りてこなかった。
「どうした」
「火災忌避。直視不可」
「何言ってるか半分も分からんが、火を見るのが嫌なんだな」
珍しいこともあるものだと思ったが、その時はそれ以上気にしなかった。
現地の指揮官らしい男が駆け寄ってきて、王の紋章を見て深く頭を下げる。
「お待ちしておりました! ですが現状、延焼を遅らせるのが精いっぱいで……」
「見れば分かるよ」
王の代わりに俺が言うと、男はわずかに顔を上げた。
「……勇者レイ殿」
「いま詳しい説明はいい。状況だけ簡潔に」
「はい。西からの風が止まりません。上の方はすでに焼け落ちた木が多く、熱で地表も緩んでおります。このまま火が下れば集落へ、強く消火すれば今度は斜面崩れの恐れがあります」
そこでリリアが前へ出た。
「なるほどね」
その声は静かだった。さっきまでの軽口とは少し違う。山を見上げる目つきが、いつの間にかいつものそれではなくなっていた。
「適当に水をぶつけても駄目ってことか」
俺が言うと、リリアは頷いた。
「火だけじゃないのよ。熱と風がもう回ってる。下手に濡らしすぎたら、今度は足元から来るわ」
「できるのか」
聞くと、リリアは山から目を離さないまま答えた。
「できるかできないかで言えば、できるよ」
ずいぶん頼もしい返事だった。問題は、こいつの場合、その手の台詞が平然と口から出てくるところである。
だが次の瞬間、そんなことを考えていた自分が甘かったと知ることになる。
リリアが、ゆっくり右手を持ち上げた。
詠唱はない。いつもの見栄を切るような大仰な仕草すら、ほとんどない。ただ空へ指を向けただけだった。
それなのに、空気が変わった。
山から吹き下ろしていた熱風が、ふっと噛み合わなくなる。風向きが乱れたのとも違う。流れそのものが、どこか別の手にまとめて掴まれたような、不自然な止まり方だった。
空の高いところで、薄く散っていた雲が寄り始める。煙とは別の白さが、山の上へ静かに集まっていく。
周囲の魔法使いたちがざわめいた。俺には理屈までは分からない。ただ、目の前で起きていることが、誰か一人の制御の中にあるらしいことだけは分かった。
火の勢いが強い箇所から順に、色が鈍っていく。赤が暗く沈み、代わりに白い靄のようなものが斜面に沿って広がった。
煙ではない。水気だった。だが、ただの霧でもない。
熱を奪われた空気が、山肌に重たく張りついていく。燃える音がひとつずつ遠くなる。木々の爆ぜる音の代わりに、じゅう、と湿った音が混じり始めた。
やがて、空からそれが落ちてきた。
雨、と呼ぶには少し重い。雹と呼ぶには柔らかい。冷たく湿った粒が、一帯を面で叩くように降り注ぐ。それが火勢を潰し、乾いた地表を打ち、燃え残りへ容赦なく染み込んでいく。
斜面のあちこちに残っていた火の筋が、目に見えて短くなった。
山全体が白く煙っているように見えたのは、燃焼ではなく、水と冷気が斜面を覆っていたからだとようやく分かった。熱は落ち、炎の勢いは斜面全体で目に見えて弱まっていった。
現地の兵が思わず声を上げる。
「消えていく……」
違う。消えていく、ではなかった。殺しているのだ。火が生きるために必要な熱と流れを、根こそぎ奪っている。
それが分かった瞬間、俺は喉の奥に薄い乾きを覚えた。
リリアは強い。そんなことは知っていた。たぶん王国でも最高峰に入る魔法使いだろうとも思っていた。
だが、それはあくまで“世間で考えられる範囲の最高峰”の話だった。目の前のこれは、その物差しの内側にあるのかどうかすら怪しかった。
やがて火勢はほぼ沈んだ。だが、そこで終わりではなかった。
現地の指揮官が青ざめた顔で山腹を見上げる。
「まずい……」
「何がまずい」
俺がそう聞くと、男は言った。
「火は落ちました。ですが、あの上部……焼け落ちた木の根と、熱で割れた地表に水が入った。このままでは崩れます。いま静かなのは、崩れる前だからです」
俺も山腹を見る。
確かに、火はほとんど死んでいる。だが代わりに、黒く焼けた斜面の一部が、不気味なくらい静かだった。表面だけ濡れているのに、その下にあるものがもう耐えきれないと黙っているような、妙な止まり方だった。
火が下へ来る前に消火した。だがそれで終わりではなく、今度はその山自体が下りてくる可能性がある。
最悪だった。
俺が息を詰めた、その横で、リリアはあまり困った様子もなく言った。
「じゃあ、あそこ消すしかないかな」
現地の指揮官が絶句した。
「……は?」
それは俺も同じだった。
「あそこって、どこだ」
「尾根の張り出しから下の、焼けて死んでるところ。あそこが落ちる起点になる。濡らしただけじゃ、あとで崩れるわ」
「だからって“消す”って何だ」
リリアはようやくこちらを振り返った。ひどくあっさりした顔だった。
「そのままの意味。崩れる前に、崩れるぶんを先になくすの」
俺は一瞬だけ言葉を失った。
山火事を消す。そこまでは、まだ分かる。もちろん十分おかしいのだが、それでも“火をどうにかする”という範囲にはある。
だが、崩れそうだから山の一部をなくす、という発想は、さすがにこちらの理解の外だった。
「お前、何を言ってるか分かってるか?」
「うん。あんまり時間ないから、ちょっと黙って見てて」
そう言うと、リリアは再び山へ向き直った。
今度は右手だけではなかった。左手もわずかに上がり、指先が空中で細く動く。何かを書いているようにも見えたし、見えない糸をほどいているようにも見えた。
空気がまた変わる。
さっきまで山を覆っていた冷気の流れが、今度は一点へ収束していく。焼けて黒くひび割れた尾根の一角。その先へ、風の筋が細く、鋭く集まる。
音は、最初ほとんどしなかった。
爆音も、轟音もない。ただ、遠くの硬いものへ爪を立てて細かく削るような、耳の奥に触る乾いた音がした。
焼けた尾根の先端が、白んだ。
次の瞬間、それは崩れ落ちるのではなく、細かな塵の帯になって空へ昇った。
土煙ですらなかった。
砕けた山肌は風にほどけ、陽を受けてぼんやり白く光りながら、高いところへ吸われていく。熱で脆くなった岩も、焼けた土も、根を失った木の残骸も、まとめて極小の粒へ砕かれ、上昇気流に乗って薄く引き延ばされていく。
あとには、尾根を大きな匙でひと掬いしたみたいに、不自然になだらかな空白だけが残った。
誰も、すぐには声を出せなかった。
火は消えている。崩落も起きない。だが、その代わりに山の形が変わった。
現地の兵の一人が、口を開けたまま呟く。
「……山が」
その先を言えない気持ちは分かる。
消えた、と言ってしまえば大袈裟に聞こえるだろう。だが、なくなったのも事実だった。少なくとも、さっきまでそこにあった尾根の張り出しは、もうない。
俺はその光景を見ながら、自分の認識が甘かったことを知った。
リリアが強いことはもちろん知っていた。王国でも指折りの魔法使いだろうとも思っていた。
だが、それはせいぜい、常識の届く範囲での話だったのだ。
山ひとつを丸ごと相手にして、燃え広がる火を殺し、そのあとで崩れそうな部分だけを削り取って空へ逃がす。そんな真似まで、人間が到達しうる技量のうちだとは、到底思えない。
こいつは強い魔法使いなんて言葉では、最初から足りていなかった。




