第16話 少し騒がしくなるだけのことだ
燭台の火が、揺れた。
ついさっきまで料理の香りで満ちていた部屋は、もう別の場所みたいだった。肉の焼けた匂いも、香草も、皿に残ったソースの香りもまだそこにある。だが、その上からじわじわと、冷えた鉄の気配みたいなものが広がっている。執政が副官から視線を外し、こちらへ向き直ったことで、その場に残っていた最後の体裁まで剥がれ落ちたのだとわかった。
執政が短く息を吐いた。
「ふぅ」
短く息を吐いてから、執政は低い声で言った。
「今朝の話だ」
その一言で、部屋の空気が完全に切り替わる。
「ある冒険者たちの記録を見ていた。王国から流れてきた亡命者の記録など、普段ならそう深く目を通す類のものではない。だが、そいつらは違った。来て早々に名を上げ、働きも派手だ。さすがに一度は見ておくべきだろうと思った」
俺は何も言わない。言えない。
「そこへ報告が入った。王国側で使っていた内通者が死んだ、と」
執政の声に、さっきまでの穏やかさはもう欠片もない。
「王族の遠縁という立場から、王国内部の機密情報を我々に流し、こちらの計画の一端を担っていた重要人物だ。連絡が途絶えて久しいとは思っていた。まさか、公衆の面前で殺されていたとはな」
ガルドが肉を飲み込むみたいな顔で執政を見た。
「そりゃ運が悪かったな」
「お前のせいだろ」
思わず口を挟む。
執政はそんなやり取りも無視した。
「犯人の名が上がった。ガルドという男だと。見ていた記録の中に、同じ名があった」
そこで一度、執政の目が細くなる。
「さらに読み進めると、謀都の魔女に関する記録も出てきた。お前たちが殺したあれも、我々にとっては重要な手駒だった」
その言い方だけで十分だった。こちらにとっては別々の厄介事にすぎなかった出来事が、向こうから見れば重要人物の死として一つに繋がっているのだとわかった。しかも、その原因はどちらも俺たちだ。
「お前たちも理解したはずだ。何のためにここへ呼んだのか」
執政の口元が冷たく歪む。
「本来なら、ここで静かに動けなくなってもらうはずだった」
そう言って、卓に残る料理へ視線を落とす。
「ただ殺して終わりなど生ぬるい。生きたまま手足を削ぎ、舌を抜き、目を抉る。ありとあらゆる苦痛を与えこの世に生まれたことを後悔させてやる、とそう思っていたのだが」
それを聞いた瞬間、俺は心の底から嫌になった。それを避けるために国を捨てたのだ。王族殺しの咎で惨苦を味わう羽目になるかもしれない、そう思って逃げたのに。なのにまたこれか、と。いやむしろ余計に酷くなっている。
執政は副官を一瞥し、わずかに顔をしかめて続ける。
「どういう手違いがあったかはわからないが、薬は効かなかったらしい」
口惜しさを噛み殺すみたいに、執政は低く吐き捨てた。
「予定は変わったが、別に構わん。少し騒がしくなるだけのことだ」
その言葉を合図にしたように、控えていた護衛たちが一斉に動いた。さらに奥の扉が開き、待機していた兵士たちまでどっと雪崩れ込んでくる。静まり返っていた部屋の空気が、一瞬で別のものに変わった。
その瞬間、隣にいるガルドが口の端を吊り上げ、わざとらしくいやらしい顔でこっちを見て言った。
「レイ」
「何だよ」
「これは、“失礼”していいんだよな」
「うぅ」
今それを言うか。確かに、こうなってしまっては、さっきまで俺が口を酸っぱくして言っていた礼儀だの何だのは、滑稽にしか見えないのかもしれない。そう思うと、少しだけ居心地が悪かった。
「で、いいのか」
その横では、リリアまで笑いを噛み殺している。たぶんこいつも、俺のさっきの説教を思い出しているのだろう。ラッキィに至っては状況のわりに変に真面目な顔でこちらを見ていた。たぶん緊張しているのではなく、単純に俺の返答を待っているだけだ。
この場でそこを確認する必要があるのか、と言いたかったが、もう遅い。兵士たちは剣を抜き、護衛は間合いを詰め、執政の方も完全にこちらを潰すつもりでいる。
俺は短く息を吸った。
「……誰も殺すな」
それだけは先に言った。
「できるだけ生かせ。後でまとめて王国へ突き出す」
「注文が細けえな」
「黙って従え」
「はいはい」
そこまで言ったところで、最初の一人が斬りかかってきた。だが、その刃が届く前に、ガルドの腕が動いていた。
正面から振り下ろされた剣を、こいつは半ば乱暴に弾き飛ばした。金属のぶつかる甲高い音が響く。そのまま相手の胸ぐらを掴み、勢いのまま床へ叩きつける。鈍い音。石床に背を打ちつけられた兵士が息を詰まらせるのも待たず、ガルドは次の一人へ向かっていた。
容赦はない。だが殺しもしない。
俺が言ったから、たぶん本当にその一点だけは守るつもりなのだろう。そう思うと少し腹立たしい。
リリアの風がその横を抜ける。
目に見えるほど大げさではない。だが、踏み込んだ兵士の足がわずかに流れ、その体勢が崩れる。その崩れた先へ、別の兵士が巻き込まれる。誰かが机の端へぶつかり、料理の残りと皿が盛大に散った。
「あーん、せっかくのご飯が」
「今そこかよ」
「だってもったいないじゃん」
言いながら、リリアは次の一歩でまた風を払う。軽い仕草なのに、それだけで三人くらいまとめて足をもつれさせているあたり、やっぱりおかしい。
爺はもう何をしているのかよくわからなかった。
杖を鳴らし、訳のわからないことを喚いた次の瞬間には、さっきまで立っていた兵士が膝から崩れている。別の一人は自分の足でつまずいたみたいに前へ転び、その顔面を机の脚へぶつけた。
「沈骨眠唱、鈍足転倒、可也」
「何て言ってるんだあれ」
思わず口から出ると、ラッキィが真面目な顔で答える。
「たぶん、寝とけみたいなことじゃないですか」
「何でそれでわかるんだよ」
「雰囲気です」
「雰囲気で爺を理解するな」
そうしている間にも、部屋へは兵が流れ込んでくる。執政の言った通り、少し騒がしくなるだけ、で済ませる気は初めからないらしい。
俺は目の前の一人の剣を受け流した。まともに鍔迫り合いをするほどの膂力はない。だが、こういう細かい立ち回りなら、俺だって一応は勇者だ。剣筋をずらし、肩からぶつかって体勢を崩させる。そのまま足を引っかけるみたいにして転ばせる。派手さはないが、こういうのならできる。
横ではラッキィが、またよくわからない位置にいる。
さっきまで俺の後ろにいたはずなのに、いつの間にか一番兵が集まりそうな隙間へ転がり込んでいた。転んだのか狙ったのか、本人に聞いてもたぶんわからないだろう。だが、そのせいで逆に兵の動線がぶつかり、奥から入ってきた連中が一瞬もつれる。
「お前、そこ危ないぞ!」
「危ないです!」
「わかってんならどけ!」
「今それどころじゃないです!」
その言い分だけは正しかった。
だが、そこにいつまでもいられても困る。
正直、ここまで来ると前線はもう十分だった。ガルドがいて、リリアがいる。その上で爺まで好き勝手に暴れている。これ以上、俺とラッキィが真ん中でうろうろしていても邪魔になるだけだ。
「ラッキィ、こっち来い!」
「はい!」
襟首でも掴む勢いで腕を引き、俺は部屋の端へ下がった。倒れた椅子と壁の出っ張りの陰になる位置まで引っ張り込む。戦っていないと言うと聞こえは悪いが、実際、もう前はあいつらに任せておけば十分だった。
「しばらくここにいろ。下手に出るな」
「わかりました」
と言った直後に、ラッキィは床に転がってきた銀器を拾いかけた。
「拾うな!」
「危ないと思って!」
「お前が動く方が危ないんだよ!」
その時、すぐ横から声がした。
「いい判断ですね」
見ると、ミアも当然のようにそこにいた。
「お前もかよ」
「私が前へ出てもやることありませんから」
それはそうだ。そうなのだが、こいつがこうもあっさり安全地帯へ収まっていると、それはそれで何となく腹が立つ。
ミアは平然と戦場を眺めている。目の前ではガルドが兵士を殴り倒し、リリアの風がその流れを整え、爺が意味のわからない言葉で誰かを床へ転がしていた。
「もうあの二人だけで足りてませんか」
ミアが言う。
「爺もいるぞ」
「では三人ですね」
「数え方が雑だな」
「事実でしょう」
ラッキィが壁際からそっと顔を出した。
「なんか、ガルドさんすごいですね」
「今さらかよ」
「いや、毎回すごいですけど、狭い場所だと余計すごいなって」
その感想だけはわからなくもない。こういう部屋の中だと、あいつの暴れ方はほとんど災害だった。
ガルドが一人を掴んで投げる。投げられた兵士が別の兵士を巻き込み、そこへリリアの風が横から入って足元を払う。転んだ先へ爺の杖が鳴り、何がどう作用したのか、また一人床へ崩れた。
「うわあ、すごい」
ラッキィが素直に言う。
「『うわあ、すごい』じゃない。お前は出るなよ」
「出ませんよ。怖いので」
「それでいい」
こうして壁際へ下がった時点で、もう前に出る意味はほとんどなくなっていた。実際、俺が下手に入り込むより、あいつらに好きにやらせた方が早いし、安全ですらある。
そう思っている横で、ミアが淡々と言った。
「何人か、あのままだと死にますね」
「まだ早い」
「はい」
こいつは返事だけは素直だった。
部屋の中央では、まだ兵士たちが次々と押し寄せてくる。だが、その勢いも少しずつ鈍っている。前に出た端から潰され、転ばされ、叩きつけられているのだから当然だ。
ラッキィがまたそっと顔を出す。
「これ、ほんとに誰も殺さずにいけますかね」
「そこを何とかするのがあいつらだろ」
「無茶振りでは?」
「俺に言うな」
言った直後、また一人、兵士が壁まで吹き飛ばされた。
うん、たぶん大丈夫だ。少なくとも、こっちが余計なことをしなければ。
そう思った矢先、案の定というべきか、ラッキィがまた動こうとした。
「だから出るなって言ってるだろ」
「いや、今ならあの倒れてる人の剣、拾えるかなって」
「拾わなくていい!」
思わず声が大きくなる。ラッキィはしゅんとしたような顔をしたが、たぶん本気で反省しているわけではない。
「でも、危ないですよ。誰か踏んだら」
「今いちばん危ないのはお前が動くことだよ」
ミアが横で小さく息を吐いた。
「言い方はともかく、その通りですね」
「お前はもう少し俺の味方をしろ」
「しています。かなり」
そのかなりがどの程度なのかは、聞かない方がいい気がした。
ガルドとリリアはまだ好き勝手に暴れている。いや、好き勝手というのも語弊があるか。ちゃんと俺の「誰も殺すな」は守っているのだから、一応は節度のある暴れ方だ。節度の基準がおかしいだけで。
ガルドが一人の首根っこを掴んで持ち上げ、そのまま横へ放る。飛ばされた兵士がもう一人を巻き込み、その二人の足元をリリアの風が払う。そこへ爺の杖が床を打ち、意味不明な一声とともに三人まとめて崩れた。
「ほんとに意味わかんないですね、あの連携」
ラッキィが感心したように言う。
「連携っていうか、結果的に噛み合ってるだけだろ」
「でも噛み合ってるならすごいですよ」
「それはそうだな……」
認めるのも癪だが、否定はできない。
押し寄せてきた兵士の数は多かったはずなのに、いつの間にか床に転がっている方が多くなっている。呻き声と金属音、割れた皿を踏む音ばかりが耳につき、戦いとしてはもうほとんど決着が見えていた。
ミアが静かに言う。
「あの右の護衛は肋をやっています。左奥の兵は腕。中央の二人はそのままだと少し危ないかもしれません」
「お前、なんでそんな冷静に見てられるんだよ」
「後で手間取らないためです」
こいつはこういうところが本当にぶれない。
ラッキィがまたそっと顔を出す。
「もう終わりですかね」
「そう思った時に限って変なのが来るんだよ」
俺が言った途端、部屋の奥でまだ立っていた護衛の一人が、執政を庇うみたいに前へ出た。剣の構えは今までの連中よりずっとまともだ。
「お」
ラッキィが小さく言う。
「ちょっと強そうですね」
「そういうのをいちいち実況するな」
だが、その護衛もあっけなかった。
最初の一太刀はガルドが受ける。二太刀目はリリアの風で軌道がずれる。体勢を立て直そうとしたところへ、爺の杖が床を打ち、ほんの一瞬だけ足が止まる。その一瞬で、ガルドの拳が相手の腹へめり込んだ。
護衛は声もなく「く」の字に折れ、そのまま沈んだ。
「はい終わり」
リリアが軽く言う。
「お前な」
俺が呆れている間に、ガルドが執政の襟元を掴んで引きずってくる。床の上を擦られた執政が、さすがに露骨な怒りの目でこちらを睨んだ。
「離せ」
「嫌だね」
ガルドは即答した。
「お前、さっきまでえらそうだったしな」
「ガルド、壊すなよ」
「わかってる」
そう言うわりに持ち方はだいぶ雑だったが、とにかく生きてはいる。
俺は壁際から一歩だけ出て、部屋の様子を見渡した。転がっている兵士、砕けた食器、散った料理、半分倒れた卓。ついさっきまで整っていた部屋が、見る影もない。
それでも死人がいないなら、まだましだ。
「ミア」
「はい」
「今すぐ死にそうなやつだけ先に見ろ」
「わかりました」
執政との謁見で、こいつらが失礼をしないかと気を揉んでいたのが、ついさっきまでの話だ。そこから執政の衝撃的な発言があって、料理には薬まで盛られていて、気づけばこの有様である。そんな滅茶苦茶な流れで始まった戦いも、ようやく決着したらしい。




