第15話 執政の招待
執政の待つ建物は、近くで見るといかにもこの国の中枢という顔をしていた。
高く積まれた石壁は堅牢で、飾りは少ない。城のように見せるための華美さではなく、権力を滞りなく動かすための実用性を、重視していることがよくわかる建物だった。広く取られた玄関、まっすぐ伸びる階段、余計な曲線のない廊下。飾るためではなく、使うための構造が、この国らしい重みを持っていた。
建物へ入る直前、俺は一度立ち止まって後ろを振り返った。
「いいか。くれぐれも失礼のないようにしてくれ」
最初に言うべき相手は決まっている。
ガルドは露骨に面倒そうな顔をした。
「失礼ってなんだよ」
「余計なことを言うな。勝手に立ち歩くな。変なところで喧嘩腰になるな。とにかく相手をちゃんと立てろ」
「注文多くねえか」
「お前相手ならこれでも少ない」
ラッキィが横で小さく手を挙げた。
「物を落とすのも駄目ですか」
「駄目に決まってるだろ」
「気をつけます」
「気をつけてどうにかなるなら今まで苦労してねえんだよ」
ミアはいつも通りの顔で立っていた。こういう場の空気に飲まれないのは、この女の美点でもあり、今は少しだけ心強くもある。
「何ですか」
視線に気づいたらしく、ミアが言う。
「いや、お前こういう時いつも通りだなと思って」
「緊張してほしかったんですか」
「そういうわけじゃないが……お前はもう少し話し方を柔らかくしてくれ。頼むから」
「善処します」
「その返事がもう固いんだよ」
リリアはそこでくすっと笑った。
「私は大丈夫だよね?」
「お前はまあ、たぶん大丈夫だ」
「たぶんって何」
「変なところで張り切らなきゃな」
「今日はちゃんとするもん」
爺は最初から最後まで何を考えているのかわからない。わからないが、少なくとも今日は静かだった。静かだから安心できるかというと、まったくそんなことはない。
「とにかく、余計なことだけはするなよ」
そこまで言ってから、俺はようやく前を向いた。
自分でも少し過剰かと思わなくもない。だが、相手はこの国の執政だ。この国の頂点に立つ人間である。国の中枢、その最上位だ。ここで粗相をして笑い話で済む相手ではない。
俺は少しずつ歩調を整えながら、自分の姿勢まで意識していた。背筋を伸ばし、歩幅を揃え、肩の力だけは抜く。こういう時に下手に硬くなると、かえってみっともない。勇者として何度かこういう場に出た経験が、こういう時ばかりは役に立つ。
その一方で、後ろの連中は俺の様子を見て面白がっているようだった。急にかしこまって、口うるさく礼儀を並べ立て、まるで学校の教師にでもなったみたいに振る舞っているのが、よほど珍しいのだろう。
廊下を進む。役人は必要以上のことを喋らなかった。それはそれで、この国らしい気もした。実務を動かす側の人間が、無駄に口を開かない。そんな空気だ。
磨かれた石床を踏む音だけが続く。壁には控えめな装飾が掛けられていたが、豪奢というより整理されている印象の方が強い。権力を見せびらかすためではなく、権力がここにあると静かに示すための空間。そんな感じだった。
大きな扉が開く。
中は俺の想像していたよりもずっと整っていた。天井は高く、壁には質の良い織物が静かに掛けられている。華美ではない。だが、そこにあるもの一つ一つが、無駄なく選ばれ、配置されているのがわかる。この国の政がここで動いているのだと、部屋そのものが語っていた。
広間の奥には、執政がいた。他にも何人か、要人らしき人間が並んでいる。左右には護衛。形式としては十分すぎるほど整っていた。
俺たちは進み出て、止まる。
頭を下げるべきか、一礼でいいのか、などと迷う余地はなかった。この国の頂点に立つ相手だ。礼を尽くす以外にない。
俺はその場で、今の自分にできる限り深く頭を下げた。形だけではなく、はっきりと敬意が伝わるように。王国の王に対するのと同じ、いやそれに劣らぬ礼を尽くすつもりで。
「顔を上げてくれ」
言われて、俺はゆっくり顔を上げる。
執政はやはり若かった。だが、その若さは軽さではなく、切れ味の方へ寄っていた。大きな国の王が背負う重たさとは違う、小さな国を支える人間の鋭さだった。
「よく働いてくれている」
執政の声は落ち着いていた。
「この国としても感謝している」
「お言葉、恐れ入ります。身に余るご配慮を賜り、心より感謝申し上げます」
我ながら少し硬いとは思ったが、こういう場で崩す必要はない。
執政はわずかに目を細めた。
「暮らしに不自由はないか」
「はい。おかげさまで、何不自由なく過ごさせていただいております。亡命の身でありながら、このようなお取り計らいを受けていること、深く感謝しております」
そこまで言いながら、背中に何となく仲間たちの視線を感じる。
たぶん今の俺を見て、ガルドあたりは「誰だこいつ」くらいに思っているだろうし、リリアは少し笑いを堪えているかもしれない。ラッキィは変に感心していそうだし、ミアは無表情のまま、内心ではどうでもいいと思っているに違いない。
そう思うと少し腹が立つ。だが、それで礼を雑にするわけにもいかない。
「それなら結構だ」
執政は短くそう言った。
俺はもう一度、小さく頭を下げる。
「お気遣い、ありがとうございます」
短いやり取りだったが、空気は穏やかだった。隣のリリアも、ほんのわずかに肩の力を抜いたのがわかる。
執政がそこで手を軽く動かす。
「立ったままというのも何だ。せっかくの機会だ。食事でもしながら話そう」
それは予想外だったが、悪い方の予想外ではなかった。むしろ歓迎の延長と考えれば自然ですらある。
俺はもう一度、丁寧に礼をした。
「光栄です」
そうして俺たちは、執政に続いて別室へ案内されることになった。
別室は広間よりずっと人の気配が近い部屋だった。大きな卓が一つ、窓は細長く高い位置にあり、外の光はもうほとんど落ちている。燭台の火が揺れ、磨かれた食器が鈍く光っていた。
執政も同じ卓につく。護衛や給仕は控えているが、露骨にこちらを威圧する気配はない。むしろ、あくまで礼を尽くして歓待しているように見えた。
最初に運ばれてきたのは前菜だった。小さく切り分けられた魚と野菜を香草でまとめた冷たい皿で、見た目は簡素なのに、口に入れるとそれぞれの素材が互いに調和しながら、きちんと自分の味も立てている。まとまりがあるのに、どれか一つに埋もれていない。そういう整い方だった。
リリアが小さく息を漏らす。
「すごいね、これ」
「そうだな」
ラッキィは真面目な顔で皿をつついていた。
「なんか緊張すると味わかんなくなりますね」
「お前でもそういうことあるんだな」
「ありますよ。意外と繊細なんです」
「どこがだよ」
執政は何気ない話題を選ぶように、俺たちと談笑めいた言葉を交わしていた。王国を出たあとの環境の違いにも軽く触れ、その受け答えは穏やかというより、こちらに余計な気を遣わせないようよく整っていた。
前菜が下げられ、次にスープが運ばれてくる。澄んだ色合いなのに香りは濃く、匙を入れた瞬間、湯気の向こうからもう一段別の匂いが立ちのぼる。見た目よりずっと複雑な味がしそうだった。
俺が口をつけるのとほとんど同じくらいのタイミングで、爺がそれを一口すすり、小さく呟いた。
「銀眠水、浅毒可。祓済」
「何て?」
俺が聞き返しても、爺はそれ以上何も言わない。ガルドは気にも留めていないらしく、さっさと椀を空にしていた。
その時点では、本当にそれ以上の意味を考えなかった。
次に運ばれてきたのは魚料理だった。白身を蒸したものに酸味のあるソースを添えた皿で、見た目は淡白なのに、口へ運ぶと、ソース、香草、さらに隠し味であろう白ワインの香りまでが順に押し寄せてくる。味に何段階も層がある、とでも言えばいいのか、一口ごとに印象が少しずつ変わっていく。
リリアがぱっと顔を上げる。
「うわー、このお魚おいしいね」
ラッキィも珍しく素直に頷いた。
「王都では見なかった魚ですね。味付けも凝っていて、すごく良いです」
ガルドはそういうことに興味がないらしく、黙って食っていた。
肉料理が運ばれてきたのは、そのあとだ。それまでよりずっと力強い皿で、焼き目の香ばしさが最初に来るのに、噛めば中は驚くほどやわらかい。脂の重さをただ押し出すのではなく、火の入れ方と下味で輪郭を整えてあるのがわかる。添えられたソースも濃いのに出しゃばりすぎず、肉の旨味を一段深くしていた。
だが肉料理が運ばれてきたそのあたりから、俺は料理そのものより別のものが気になり始めていた。
執政の機嫌が、どこかおかしい。俺は内心で首を傾げた。なんで怒っているんだ。
いや、怒っていると決めつけるのも変かもしれない。だが、少なくとも機嫌が良いようには見えない。返事が少し遅い。こちらを見る時間が長い。口調自体は崩れていないのに、言葉の奥に妙な硬さが混じっている。
そこで一度、周りを見た。
思い当たる節なら、正直いくらでもあった。
ガルドは酒が入っているせいで、さっきから食い方が露骨に雑だ。皿は綺麗に片づいていくが、その過程がまるで綺麗ではない。音こそ立てていないものの、動きの一つ一つが乱暴で、こういう席に慣れていないのが丸わかりだった。
爺は爺で、そもそもよく見たらどうやって食っているのかがおかしい。あの仮面のどこにどう隙間があるのか知らないが、器用にそこへ食べ物を運び込んでいる。見慣れている俺たちならまだしも、初見の人間からすれば普通に不気味だろう。
ラッキィはさっきから食具を危うい手つきで扱っている。落とすなよと思って見ていたら、本当に一回落とした。給仕が無言で取り換えた時の気まずさは、たぶん俺だけが背負った。
ミアは一見まともだが、まともすぎるのが逆に怖い。姿勢も、皿の扱いも、食後の手の置き方まで綺麗すぎる。こういう場に自然に溶け込んでいるのに、溶け込み方が完璧すぎて、何か別の生き物が人間の真似をしているみたいな落ち着かなさがある。
リリアは一応ちゃんとしている。ちゃんとしているのだが、料理のたびに目を輝かせるので、貴族の食事会というより遠足に来た子どもみたいな危うさがあった。
そして、そんな面子の真ん中にいるのが俺だ。
執政が機嫌を悪くしていても、おかしくない理由なら山ほどあった。
だが、それにしたって、単に行儀の悪い客を見る目つきではない気がした。
その違和感を抱えたまま、肉料理の皿が下がる。次の料理が運ばれてくる前に、執政が手を上げた。
「少し外せ」
給仕たちが下がる。代わりに、副官らしい男が執政のそばへ寄った。執政は声を潜めたつもりなのだろうが、静かになった部屋ではそれなりに耳へ入る。
「確かに入れたんだな?」
「はい」
「どういうことだ」
「わかりかねます。独自の調合で……量にも問題は……」
そこで執政が副官を睨みつけた。副官は口を閉ざす。
俺は食具を持ったまま固まった。
入れた。
何をだ。
いや、考えるまでもない。さっきスープに口をつけた時、爺が何か言っていた。意味はわからないと思っていたが、今ここへ来て急に嫌な方向へ意味が生まれる。
何かの薬でも入っていたのだろう。
そしてそれは爺が処理した。おそらく爺が発言したあのタイミングで薬を無害化してくれていたのだろう。爺の意味不明な言葉が幸いし、執政もそれに気づかなかったのだ。
執政は副官から視線を外した。もうここから先は取り繕うつもりもないのだろう。そのまま俺たちへ向き直る。
背筋が、遅れて冷えた。




