第10話 リリアと結婚の約束
「ぎゃははは!!」
耳元で直に笑われたみたいな、不快なくらい近い声だった。
「うひゃひゃひゃひゃ! ひーーーーーっ! 結婚の約束て! ベタすぎるでしょ! いやー駄目だ! そういうの弱いんだよねえ。笑う! 死ぬ! 死んじゃう!」
目の前の景色が消えていた。
さっきまでいたはずの路地も、夜の空気も、リリアの顔もない。音の抜けた、あの妙に広いだけの空間。床も壁も天井もあるのかないのか分からない、何度見ても落ち着かない場所だ。
そして、その中央に“あれ”がいる。
「……お前か」
思わずそう言うと、そいつはまだ笑っていた。
「いやーごめんごめん、でも今のは反則だって! 『やっぱり覚えてくれてたんだ、結婚の約束!』だよ!? どこの恋愛芝居さ! 古典か! 様式美か! 最高か!?」
「うるさい」
吐き捨てるように言う。すると、“あれ”は少しだけ笑いを収めた。
「でもさあ、嫌いじゃないよ、こういうベタなやつ。幼馴染、再会、忘れられた約束。いいねえ。王道だ。むしろ、ちゃんと思い出してあげなよ。かわいそうでしょ」
その言い方が、妙に引っかかった。
「……何をだ」
「幼い頃の約束だよ。あの子、わりと本気だったんだから」
“あれ”が人差し指で、なにかを弾くような仕草をする。その瞬間だった。
頭の奥で、スッと何かがかみ合う。思い出す、というよりは、薄い膜の向こうにあったものが急に近くなるような感覚だった。輪郭だけだったはずの記憶に色が差し込んで、遠かったはずの声が急に生々しくなる。
陽の匂いがした。
夏だったと思う。草の伸びた空き地の向こうで、白い雲がゆっくり流れていた。まだ背の低い俺と、今よりずっと幼いリリアが、土の上にしゃがみ込んで何かを見ていた。虫だったか、花だったか、そこまではもう曖昧だ。
ただ、あいつが妙に真剣だったことだけは覚えている。
『レイはさあ、すぐ忘れるよね』
『忘れない』
『いや、忘れる』
『忘れないって!』
今思えば、ただの子供の言い合いだ。内容なんて、どうでもいい。
だが、その時のリリアは本気だった。日差しの下で頬を少し膨らませながら、けれど泣くほど弱くもなく、ただまっすぐ俺を見ていた。
『じゃあ……結婚して』
『いいよ。そのかわり——』
幼い俺はたぶん、深く考えていなかった。結婚が何かも、ちゃんとは分かっていなかったはずだ。ただ、言い返すために、それっぽい条件を付けたのだろう。
『ほんと?』
『ほんと』
その時のリリアは、まるで世界を一つ貰ったみたいな顔で笑っていた。今の、作ったような笑い方じゃない。媚びるためでも、からかうためでもない。ただ嬉しくて仕方ない、子供の顔だった。
そこまで思い出して、ようやく息を吐く。
「……ああ」
声が漏れた。
“あれ”は笑っている。
「思い出した?」
「……思い出した」
正確には、思い出させられた、だ。
胸の奥が妙にざわついている。懐かしいというには近すぎて、今さらだというには重い。忘れていたことそのものより、向こうがずっと覚えていたことの方が、妙に効いた。
「お前、こんなことまで知ってるのか」
聞くと、あれはけろりと答えた。
「知ってるというか、わかるというか、ちょっと説明がむずかしいかな」
「……最悪だな」
素直にそう言うと、あれはまた笑った。
「いいじゃん、最悪で。ぐちゃぐちゃなくらいのほうが、話としては面白いよ」
その言葉が終わるのと同時に、視界が揺れる。
夜の空気が戻る。路地の暗さが戻る。少し湿った風と、目の前のリリアの顔が、何事もなかったみたいにそこにある。
時間にすれば、ほんの一瞬だったのかもしれない。
だが、俺の中ではさっきまでと何かが違っていた。
リリアがこちらを見ている。期待に満ちた顔のまま。
「……へ?」
再び間の抜けた声が漏れる。
リリアの目がふっと揺れ、次の瞬間にはぱっと顔が明るくなった。
「やっぱり覚えてくれてたんだ!」
違う。そう言いかけて、口が止まる。違わない、のかもしれない。思い出したのは今だ。だが、思い出した以上、完全に違うとも言い切れない。
その一瞬の迷いを、リリアは肯定と受け取ったらしい。嬉しそうに一歩近づいてくる。
「そうだよね。レイなら忘れるわけないもんね」
「いや、待て」
「私、ちゃんと強くなったよ」
止まらない。
言葉の勢いが、そのまま感情の勢いになっている。さっきまでの拗ねた顔とも、わざとらしく色気を作った顔とも違う。ただ嬉しくて仕方ない、そんな顔だった。
「約束したもんね。結婚してもいい、そのかわり、お前が強くなったらって」
そこまで言われて、さっき揺れた記憶の続きを思い出す。
あれは、子供の英雄ごっこの延長だった。軽くて、どうでもよくて、その場限りの口約束だ。少なくとも、俺にとってはそうだったはずだ。
「俺が英雄で、お前はそれを支える大魔法使いだ! って」
リリアが言う。そこまで言われて、ようやく繋がる。確かに、そんなことを言った気がする。いや、気がするじゃない。言ったのだ。
だが、子供の頃の口約束だ。それをここまで律儀に覚えているとは思わなかった。
「……お前」
「なに?」
「いや……」
言葉が続かない。
思い出したのは事実だ。だが、それを“ずっと覚えていてくれた”ことにされると、どうにも座りが悪い。実際には、たった今まで綺麗に抜け落ちていたのだから。
それでも、目の前でこんな顔をされると、わざわざ訂正するのも違う気がした。
「……まあ」
曖昧に息を吐く。
「強くなったのは分かった」
リリアが笑う。
その笑い方は、今まで見せていたどの顔よりもずっと素直だった。
「でしょ?」
「ああ」
「すごいでしょ」
「すごいな」
そこは否定しようがない。湿原の一件を思い出すまでもなく、あいつは強い。強いなんて一言で済ませると、むしろ雑なくらいには。
「だから、会いに来たの。レイのいる王都まで」
「うん」
軽く頷くと、リリアはそのまま続ける。
「本当は、もっと普通に再会したかったんだけど」
その言い方に、違和感が残る。普通に再会、という言葉は分かる。だが、その先が曖昧だった。
「どういう意味だ」
聞くと、リリアはすぐには答えなかった。代わりに、少し困ったような顔で笑う。さっきまでの押しの強さはない。むしろ、言うかどうか迷っているような顔だった。
「……王都に来て、レイの話いろいろ聞いたから」
「俺の?」
「うん」
あまり聞きたくない予感がする。
「なんて言われてた」
リリアは妙に素直に答えた。
「変な人ばっかり仲間にしてる、ちょっとおかしい勇者」
「……」
「あと、女の趣味も変そうって」
「誰が言ってた」
「割とみんな」
「最悪だな」
思わずそう漏らすと、リリアは肩を揺らして笑った。今度のは、少しだけいつもの調子に近い。
「だから、考えたの」
「何を」
「普通に近づいてもダメそうだなって」
その答えで、嫌な予感が少しだけ形になる。
「……お前」
「うん」
「まさか」
「だから、そういう感じの女をやってみた」
あっさりと言う。
「こう……距離近くて、ちょっとエッチで、面倒そうな」
「自覚あったのか」
「あるよ、失礼だな」
失礼なのはどっちだ。
思わず額に手を当てる。頭が痛い。色々と繋がるような、繋がらないような気分だ。
「じゃあ何か」
言葉を探しながら言う。
「今までのあれ、全部演技か」
「そりゃそうだよ」
そこだけ妙に真面目な顔で返してくる。
「……いや、まあ、途中からちょっとは楽しくなってたけど」
「最悪だな」
「レイが言う?」
確かに俺が言うのもどうかしているが、それにしてもだ。
とはいえ、今の話で一つだけはっきりしたこともある。リリアは本気だったのだ。少なくとも、再会したいと思って王都まで来たことも、俺との昔の約束をずっと覚えていたことも。
「……でもさ」
リリアが少しだけ真面目な声に戻る。
「思い出してくれたなら、それでいい」
その言い方が、妙に静かで、さっきまでの拗ね方や強引さよりもずっとこたえた。俺は何か言うべきだったのかもしれない。昔のことでも、今のことでも。
だが、結局うまく言葉にならない。
「……まあ」
口を開いて、ひどく中途半端な声が出る。
「強くなったのは分かった」
「うん」
「そこは認める」
「うん」
「でもな」
「なに?」
「それとこれとは別だ」
言いながら、自分でも何を言っているのか少し怪しいと思う。だが、リリアはなぜか納得したように頷いた。
「そっか」
それから、ほんの少しだけ近づいてくる。
さっきまでみたいに胸を押しつけるでも、腕を絡めるでもない。ただ、すぐ届く距離まで。
「じゃあ、もうちょっとだけ頑張る」
「何をだ」
「レイがちゃんと好きになるように」
「お前な」
呆れて言うと、リリアはまた笑った。今度の笑い方は、変に大人ぶったものじゃなかった。昔を少しだけ思い出させる、まっすぐな笑い方だった。
「とりあえず今日は戻ろっか」
そう言って背を向ける。俺もそのあとをついて歩き出す。
路地を抜ける頃には、さっきまでの騒ぎが妙に遠いことみたいに思えてきた。けれど胸の奥には、消えない引っかかりがいくつも残っている。
リリアには魔法の素養があったのだろう。それはわかる。ただ、リリアの今の強さは才能とか努力とかそういう次元の話じゃない。人が積み上げて届く強さには、どうしても見えなかった。
それに何より——どうやってこいつがこのパーティーに入ったのかを、俺はやっぱり知らない。知っているのは、気づいた時にはこいつがそこにいた、ということだけだ。その事実が、今さらみたいにじわじわ効いてくる。
「……レイ」
「なんだ」
前を歩くリリアが、振り返りもせずに言う。
「今度はちゃんと、断らないでよね」
「善処する」
「それ断る時の言い方じゃん」
「うるさい」
夜風の中に、リリアの笑い声が軽く転がった。その音を聞きながら、俺は小さく息を吐く。
少なくとも、今日のところは爆散せずに済んだ。それだけで十分だと思うことにした。




